スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&結果への注目

2007-10-18 19:05:15 | 将棋
 昨日指された女流王位戦五番勝負第三局を回顧してみます。
 やや変則的な出だしから相居飛車戦に。先手の清水市代女流王位が手得で角交換し,その角を打って銀冠に組み,後手の石橋幸緒女流四段は角を手持ちにしたまま矢倉にし,一旦浮き飛車で構えたのを引いて,棒銀。
 あくまでも結果論ですが,この将棋は先手が59手目に▲6五歩とここの位を取ったのが悪く,▲3七角のような手でまったく別の将棋にした方がよかったようです。
 ここから後手が△9五歩と仕掛け,▲同歩に△6九角と打ち込みました。ここから後手が9筋の香車を走った後,先手は69手目にこの角を消しに▲7九玉としました。仕方がないのかもしれませんが,この手もあまりいい手ではなかったように思います。
 先手は77手目に▲2七香と反撃に転じましたが,ここでは苦しそうです。とくに80手目に△6五桂と跳ねられ,問題の▲6五歩を逆用される形となってしまいました。ここではもう後手の勝勢なのだそうです。
 この後の先手の攻めはおそらく形作り。最後は即詰みに討ち取って後手の快勝になりました。仕掛けてからはほぼ一方的に攻めきって,気持ちのよい勝ち方ではないかと思います。
 これで石橋四段の2勝1敗。第四局は23日に指されます。

 第三部定理一証明は,ただこれだけでみるならば,観念が概念であるといわれていることに対して,そう大きな意味をもたらすものではないかもしれません。しかし,結果として生じる観念,すなわちこの証明でいうBの観念に注目するなら,事情が少し異なるのではないかと思います。
 もしもXの精神のうちにあるAの観念からBの観念が生じるとき,Aの観念がXの精神の本性を構成する限りで神のうちにあるとみられるなら,Bの観念も同様にXの精神の本性を構成する限りで神のうちにあるということになりますが,Aの観念が,Xの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるなら,Bの観念もXの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにあることになります。いい換えれば,前者のBすなわち結果の観念は,Xの精神のうちで十全な観念ですが,後者のBの観念の場合は,Xの精神のうちでは混乱した観念であることになります。なお,こうしたことは,第二部定理四〇に含まれていると考えられる4つの意味がすべて正しいということからも明らかだと思います。
 よってある精神が十全な原因として,つまり能動的に形成するような観念については,すべて十全な観念であるということになります。したがって,観念が精神が形成する概念であるなら,概念は能動的な認識を指すのですから,第二部定義三で定義されている観念は,十全な観念であるということが前提されているといえるのではないかと思います。
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