スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&第三部定理一証明

2007-10-17 19:16:54 | 将棋
 竜王戦七番勝負第一局。封じ手は△2五同桂渡辺竜王は矢倉で△1三銀の形になると勝ちづらいと発言されていましたので,当然といえる一手であったと思います。
 その後,佐藤二冠は73手目に▲9六歩ととんでもないところの歩を突きました。後手の攻め駒を攻めに行く手で,ここからは,後手が攻めきるか先手が受けきるかという将棋と思います。
 中継のサイトが重く,繋げるのに苦労しましたが,ようやく繋がった局面は112手目の△5八角の局面。詰めろではないようですが,後手玉が手付かずですので,後手がかなり優勢なのではないかと思いました。実際,ここから▲7九桂△8八金で先手の投了となってしまいました。なんだか消化不良です。
 やはり▲9六歩とこんなところからいくのはさすがに無理だったのではないかと思います。以後,86手目から△8七歩▲同金△8五歩と攻め,▲9四香と桂馬を取らせて△9五桂と打っていくのが好手順で,次の▲9六銀はいかにも辛い感じがしますので,ここでは後手が勝ちに近いくらいの優勢なのではないかと思います。
 渡辺竜王が防衛に向けて幸先よく先勝。第二局は31日と1日に指されますが,もう少しよい将棋をみせてもらいたいので佐藤二冠の奮起に期待するとともに,サイトの重さを改善してほしいところです。
 

 スピノザの哲学,とくに『エチカ』においては,ある精神のうちにあるとされる十全な観念と混乱した観念については,第二部定理七系の意味により,神のうちにある観念についてはすべて十全な観念ですので,これを神と関係付けて考えるのが本来的な方法です。そこで,この第三部定理一についても,そうした方法で証明することにします。
 僕が思うに,この定理は第二部定理一一系の意味に注意すれば,それだけで証明することが可能です。というのは,もしもXの精神のうちにAの十全な観念がある場合,これはXの精神の本性を構成する限りで神のうちにAの観念があるという意味であり,これに反して,Xの精神のうちにAの混乱した観念があるならば,これはXの精神の本性を構成するとともに,さらにほかのものの観念を有する限りで,神のうちにAの観念があるという意味になります。そこでそれら各々のAの観念から別の観念,たとえばBの観念が生じるならば,このBの観念の原因は,前者の場合にはXの精神の本性を構成する限りでの神,すなわちXの精神そのものであり,後者の場合にはXの精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りでの神,つまり,Xの精神と,ほかのものの観念ということになるからです。このとき,前者はXの精神がBの観念に対して十全な原因であるのに対して,後者の場合にはXの精神はBの観念に対して部分的原因であるということが分かります。
 したがって,このことを第三部定義二に訴えれば,精神の能動というのは十全な観念から生じ,精神の受動というのが混乱した観念から生じるということが導かれていると思います。
コメント (2)
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