スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

地下室の手記&観念の本性と発生

2007-10-29 20:24:07 | 歌・小説
 お笑いタレントの光浦靖子さんはかつて,あるテレビ番組の中で,ドストエフスキーの作品の中では『地下室の手記』が面白いという発言をされていました。僕はドストエフスキーの作品では『罪と罰』が最も面白いと思っているわけですが,だからといってこの光浦さんの発言を否定するつもりは毛頭ありません。『地下室の手記』もまた十分に面白い作品だと思います。
                       
 実は『地下室の手記』と『罪と罰』には,ひとつ似ているところがあります。『地下室の手記』の主人公は文字通りに地下室をその住処としているのですが,『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフは屋根裏部屋に住んでいます。地下室と屋根裏とは異なりますが,その閉鎖性は完全に一致するといえるでしょう。そして居住空間にある一致性をみるこのふたりは,またかなり似たメンタリティーを有しています。これは『謎とき罪と罰』において,江川卓さんも指摘しています。
 『地下室の手記』は二部構成。前半は手記という通りに完全に主人公の独白で,後半はこの主人公の行動が描かれます。似ている作品という意味で,僕は『罪と罰』の方を高く評価しますが,分量は『地下室の手記』の方が短いですし,前半だけ,あるいは後半だけ,というような読み方もできますから,長い小説はちょっと,と思われている方がいらっしゃれば,僕はこの『地下室の手記』の方をお勧めします。

 明日は千葉記念の決勝です。並びは谷津田-遠沢の東日本,佐々木-渡部-岩津の四国中国で,この番手で兵藤が競り,井上-西川の九州に諸橋。谷津田選手の調子がいいみたいなので狙ってみたいです。

 これでそれが観念の定義であるということに注目した限りで,第二部定義三が抱えている問題というのはすべて片付けることができたと思います。そこでいよいよ,今回のテーマの本題あるいは主題ともいえる,この定義に含まれると僕が考えている,一般的な意味での観念の本性と発生の問題へと目を転じることにしますが,まず最初に,僕がこの第二部定義三の,どの部分が観念の本性を示し,またどの部分が観念の発生を意味していると考えているのかということを,改めて説明しておくことにします。
 この定義は,簡単に,観念とは精神が思惟の様態であるがゆえにそのうちに形成する,その精神自体の概念であるといえるわけですが,このうち,精神が形成するその精神自身の概念であるという部分は,観念一般の本性に属すると僕は考えています。これは,ここで精神の概念といわれていることをより積極的に考えてみた場合に,観念の本性とは観念の観念にほかならないものであって,精神の概念というのはまさにそのように,観念の観念と理解することができるということからもやはり明らかであるといえると僕は思います。そこで,この部分が観念の本性を示すということについては,ここまでの考察によってすでに問題がないものとすることにします。
 したがって,残る部分が観念の発生を示すということになり,それが精神が思惟の様態であるといわれている部分に相当します。よってこれから考えなければならないことは,精神が思惟の様態であるならば,なぜその精神のうちにその精神自身の概念が発生するのか,いい換えれば,なぜ単に精神が思惟の様態であるというだけのことからして,その精神のうちに観念が発生するといい得るのかということになります。
コメント
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