2021年4月5日(月)予定では雨でしたが、少し早まって天気は回復しましたね、兵庫県丹波市の赤松貞範が建武2年(1335)に築城その後改修を繰り返された中世の山城城郭です、標高356m/比高240mの山城。
此れで今有名なお城ですね、荻野直正(赤鬼の異名がある・・赤井直正)が当時城主です、天正3年(1575)織田信長の命令で始まった丹波攻め明智光秀との黒井城の戦いです・・・”麒麟が来る”の舞台・・戦闘シーンはありませんがね、後ろの山頂が黒井城です。
城主赤井直正です、あの天空の城竹田城を落城させたが、急遽戻り激戦を繰り返しますね、黒井城の戦いは一次と二次に分かれます、
天正3年(1575)10月から4年1月の包囲攻撃の最中に同じ丹波の八上城波多野氏が造反し明知勢に攻めかかりました。その後天正5年10月から天正7年(1579)8月黒井城落城までの戦いです、・・・天正6年3月赤井直正は病死50歳。
黒井城は福知山の南、篠山の北ですね、京都の西端の兵庫県丹波市の山中です・・・・この辺りは明智光秀の丹波攻めの激戦地区なのですね、この後天正7年8月からは近世城郭、福知山城を築城しますからネ・・・この辺りは逆に中世山城城郭の宝庫です。
黒井駅前から見た黒井城です、駅前の道を真っ直ぐ、大通りを右側方面へ・・・興禅寺を目指しますね。
駅前の地図を・・・興禅寺黒井城下の館でこの近辺が城郭で黒井城は詰めの城なのですね。
黒井城へは私は緩やかなコースを上り石踏の段から本丸・・その後戻り急坂コースを下り太鼓の段三段曲輪をみました、残念なことに水の手曲輪に気が付きませんでしたね。
学校隣の興禅寺入口です。
興禅寺参道から正面が興禅寺、奥の山が黒井城で急坂コースですね・・・この辺りが黒井城下館なのです。
興禅寺です・・・これ自体が城郭ですね・・・戦後明智光秀の家臣斉藤利三が治め所ですね・・・娘はやがて徳川時代春日の局となり大奥を収めたのです。
興禅寺の裏山が黒井城入口です、左側がゆるやかコース、右側奥からが急坂コースです(此方から上がるのが曲輪跡が実感できそう)。
緩やかな?山道へ入りました。
途中一個所見晴らしが開けた所がありましたがまだまだ上りますね。
漸く石踏の段と呼ばれる削平された曲輪跡に出てきましたね・・・・模擬門だそうです。
石踏の段跡地を横から見ます、山城の途中の中継広場ですね。
石踏の段は急坂コースと緩やかなコースが交わる所でもあります、帰りは右側を下りますね、下って少し先に太鼓の段があります・・・山の向こう側です・・・水の手曲輪は気が付かなかったですね??。
先に急坂コース側を説明します、太鼓の段です・・・水の手には気が付かず。
急な尾根筋を削り切岸状態に・・・・敵が登りずらく回り込むように仕向け横矢掛かりが出来る防御の仕組み・・三段曲輪。
三段曲輪の一つの切岸上部から下を見ますね、上りくる敵を上から攻撃ですね。
三段曲輪を下から見上げますね・・・昔は切り立つような壁状態なのでしょう、力攻めは犠牲が多く出るので包囲網をひくのでしょう。
石踏の段からさらに山頂を目指しますね、この山は石が多いですね、もう少しです。
此処で山頂の黒井城縄張り図を・・・今右下の三の丸下の東曲輪から城内へ入ります、三の丸・二の丸・本丸・西の曲輪と周りの帯曲輪を見ます左側下の筋部分が今登って来たコース。
山頂へ出ました、目前に東曲輪の石垣が目に飛び込みましたね・・・鉄の階段は虎口部分が壊されるので設けたのです。
東曲輪へ入り、三の丸方面を見ました。
少し脇へ同じ方面、三の丸の石垣と奥が本丸です、石垣も見えますね。
二の丸の虎口へ・・・二の丸の脇を通りますね・・・横矢掛かりです。
二の丸の虎口です。
二の丸から本丸方面を見ます。
二の丸脇から三の丸方面を見ます。
二の丸脇から本丸方面を、石垣を一部見えますね。
同じく三の丸方面へ振り返りますね、三の丸の土塁の高さも昔はもう少し高低差がありますね。
本丸脇に近づきました、二の丸と本丸の脇には堀切で分けられ本丸側が高く石垣がありますね、細い土橋での虎口が解ります。
本丸空堀下から見上げました、今は土塁が崩れ埋まり石垣も崩れていますが、築城当時は本丸へは近づ付けなかったのでしょうね。
本丸脇から先程きた三の丸方面を見ました。
本丸虎口へ向かう、本丸の隅の石垣・・・大分石垣が崩れていますね。
本丸虎口前から本丸南側の石垣をみる。
本丸の虎口です。
先程の本丸の隅石垣から二の丸方面を見ました。
虎口を上がり本丸です。
本丸から二の丸への土橋虎口を見る・・・本丸側が大分崩れていますね。
本丸虎口ですね、小さな枡形?でしょうかネ。
二の丸との土橋を斜めから・・・規模が小さいですが雰囲気がありますね。
やはり本丸から二の丸方面を・・・北側です。
本丸に立つ碑・・・・黒井城別名保月城です、山城を落とすのは大変ですね、明智軍は包囲網を引いての長期戦で落城させましたね、天正7年(1579)8月の事です・・・天正10年本能寺の変ですから。
本丸脇の西曲輪です。
西曲輪から見た本丸です。
西曲輪から南側へ回り込みました、此処だけ石垣が残っていますね。
少し下がって石垣全体を、手前上の石垣は鉢巻石垣なのでしょうね、全部を石垣での要塞にはしていないのですね。
北側の本丸脇です、こちら側には石垣は使われていませんね、明智光秀はこの黒井城と八上城の中間地点の金山に拠点の城を築き天正5年から天正7年の攻城包囲網を引いたのです、戦は直接の戦闘力だけでなく総合力ですからネ。
此れで今有名なお城ですね、荻野直正(赤鬼の異名がある・・赤井直正)が当時城主です、天正3年(1575)織田信長の命令で始まった丹波攻め明智光秀との黒井城の戦いです・・・”麒麟が来る”の舞台・・戦闘シーンはありませんがね、後ろの山頂が黒井城です。
城主赤井直正です、あの天空の城竹田城を落城させたが、急遽戻り激戦を繰り返しますね、黒井城の戦いは一次と二次に分かれます、
天正3年(1575)10月から4年1月の包囲攻撃の最中に同じ丹波の八上城波多野氏が造反し明知勢に攻めかかりました。その後天正5年10月から天正7年(1579)8月黒井城落城までの戦いです、・・・天正6年3月赤井直正は病死50歳。
黒井城は福知山の南、篠山の北ですね、京都の西端の兵庫県丹波市の山中です・・・・この辺りは明智光秀の丹波攻めの激戦地区なのですね、この後天正7年8月からは近世城郭、福知山城を築城しますからネ・・・この辺りは逆に中世山城城郭の宝庫です。
黒井駅前から見た黒井城です、駅前の道を真っ直ぐ、大通りを右側方面へ・・・興禅寺を目指しますね。
駅前の地図を・・・興禅寺黒井城下の館でこの近辺が城郭で黒井城は詰めの城なのですね。
黒井城へは私は緩やかなコースを上り石踏の段から本丸・・その後戻り急坂コースを下り太鼓の段三段曲輪をみました、残念なことに水の手曲輪に気が付きませんでしたね。
学校隣の興禅寺入口です。
興禅寺参道から正面が興禅寺、奥の山が黒井城で急坂コースですね・・・この辺りが黒井城下館なのです。
興禅寺です・・・これ自体が城郭ですね・・・戦後明智光秀の家臣斉藤利三が治め所ですね・・・娘はやがて徳川時代春日の局となり大奥を収めたのです。
興禅寺の裏山が黒井城入口です、左側がゆるやかコース、右側奥からが急坂コースです(此方から上がるのが曲輪跡が実感できそう)。
緩やかな?山道へ入りました。
途中一個所見晴らしが開けた所がありましたがまだまだ上りますね。
漸く石踏の段と呼ばれる削平された曲輪跡に出てきましたね・・・・模擬門だそうです。
石踏の段跡地を横から見ます、山城の途中の中継広場ですね。
石踏の段は急坂コースと緩やかなコースが交わる所でもあります、帰りは右側を下りますね、下って少し先に太鼓の段があります・・・山の向こう側です・・・水の手曲輪は気が付かなかったですね??。
先に急坂コース側を説明します、太鼓の段です・・・水の手には気が付かず。
急な尾根筋を削り切岸状態に・・・・敵が登りずらく回り込むように仕向け横矢掛かりが出来る防御の仕組み・・三段曲輪。
三段曲輪の一つの切岸上部から下を見ますね、上りくる敵を上から攻撃ですね。
三段曲輪を下から見上げますね・・・昔は切り立つような壁状態なのでしょう、力攻めは犠牲が多く出るので包囲網をひくのでしょう。
石踏の段からさらに山頂を目指しますね、この山は石が多いですね、もう少しです。
此処で山頂の黒井城縄張り図を・・・今右下の三の丸下の東曲輪から城内へ入ります、三の丸・二の丸・本丸・西の曲輪と周りの帯曲輪を見ます左側下の筋部分が今登って来たコース。
山頂へ出ました、目前に東曲輪の石垣が目に飛び込みましたね・・・鉄の階段は虎口部分が壊されるので設けたのです。
東曲輪へ入り、三の丸方面を見ました。
少し脇へ同じ方面、三の丸の石垣と奥が本丸です、石垣も見えますね。
二の丸の虎口へ・・・二の丸の脇を通りますね・・・横矢掛かりです。
二の丸の虎口です。
二の丸から本丸方面を見ます。
二の丸脇から三の丸方面を見ます。
二の丸脇から本丸方面を、石垣を一部見えますね。
同じく三の丸方面へ振り返りますね、三の丸の土塁の高さも昔はもう少し高低差がありますね。
本丸脇に近づきました、二の丸と本丸の脇には堀切で分けられ本丸側が高く石垣がありますね、細い土橋での虎口が解ります。
本丸空堀下から見上げました、今は土塁が崩れ埋まり石垣も崩れていますが、築城当時は本丸へは近づ付けなかったのでしょうね。
本丸脇から先程きた三の丸方面を見ました。
本丸虎口へ向かう、本丸の隅の石垣・・・大分石垣が崩れていますね。
本丸虎口前から本丸南側の石垣をみる。
本丸の虎口です。
先程の本丸の隅石垣から二の丸方面を見ました。
虎口を上がり本丸です。
本丸から二の丸への土橋虎口を見る・・・本丸側が大分崩れていますね。
本丸虎口ですね、小さな枡形?でしょうかネ。
二の丸との土橋を斜めから・・・規模が小さいですが雰囲気がありますね。
やはり本丸から二の丸方面を・・・北側です。
本丸に立つ碑・・・・黒井城別名保月城です、山城を落とすのは大変ですね、明智軍は包囲網を引いての長期戦で落城させましたね、天正7年(1579)8月の事です・・・天正10年本能寺の変ですから。
本丸脇の西曲輪です。
西曲輪から見た本丸です。
西曲輪から南側へ回り込みました、此処だけ石垣が残っていますね。
少し下がって石垣全体を、手前上の石垣は鉢巻石垣なのでしょうね、全部を石垣での要塞にはしていないのですね。
北側の本丸脇です、こちら側には石垣は使われていませんね、明智光秀はこの黒井城と八上城の中間地点の金山に拠点の城を築き天正5年から天正7年の攻城包囲網を引いたのです、戦は直接の戦闘力だけでなく総合力ですからネ。
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