先日のチャリティオフ会でアメリカ田舎ノートのmoiさんと同席したときに、
彼女のご実家である水戸の話が出まして、ちょっとびっくりしたことがありました。
つまり、水戸では地元の文化を恥とするような教育をしていたというのです。
「え? 水戸光圀公のお膝元が何で」と思ったのですが、
聞いてみると、水戸藩で盛んに行われていた朱子学がいけなかったらしい。
朱子学というのは、中国は南宋時代の学者・朱熹(しゅき)がはじめた学問で、
当時、モンゴル族や女真族(満州族)など、異民族に囲まれた漢民族が、
儒学を原点に自分たちのアイデンティティを見出そうとしたのがはじまりだそうです。
それが日本に伝わって、鎌倉~江戸と学ばれるうちに、
幕末の倒幕運動に影響をあたえ、
天皇を中心とする国造りに特化するようになったそうです。
ウィキによれば、2.26事件や満州事変に朱子学の影響云々・・・それだ!
なるほど、それが先の大戦に結びつく思想を生み出したということで、
きっと地元水戸では恥とする教育をしてたんですな~。
(そういえば赤坂でも勝海舟のこと、少しも教えてなかったしね~)。
でも、もともと朱熹(朱子)のはじめた学問は、
人間の原点は何かということを追求しながら、
実際の人間生活との妥協点を見出していく、現実的な教えだったようです。
たぶん柔道や剣道、茶道のような、日本の「道」にも
影響を与えた学問だったに違いありません。
それを戦争に結びついたからすべてダメだと、一刀両断にするのは如何なものでしょう。
moiさんはアメリカに住んでいると、日本の良い面、地元の良い面が多く見えてくると、
そうおっしゃっていました。
今の大相撲報道もそうですが、
思考停止状態でものごとを「良し」「ダメ」と断罪するのは、一種のファシズムに思えます。
(おおお、これは我田引水か?)
それは「お前は人の話を聞かない」と言ってる人の方が、
もっと人の話を聞かなかったり、
「お前はガンコだ」と言ってる人の方が、
もっとガンコだったりすることに似ていると思います。
写真はオフ会でいただいたシェ・ミカワのメニュー、ラインアップ。
これでお酒入れて6000円です!
彼女のご実家である水戸の話が出まして、ちょっとびっくりしたことがありました。
つまり、水戸では地元の文化を恥とするような教育をしていたというのです。
「え? 水戸光圀公のお膝元が何で」と思ったのですが、
聞いてみると、水戸藩で盛んに行われていた朱子学がいけなかったらしい。
朱子学というのは、中国は南宋時代の学者・朱熹(しゅき)がはじめた学問で、
当時、モンゴル族や女真族(満州族)など、異民族に囲まれた漢民族が、
儒学を原点に自分たちのアイデンティティを見出そうとしたのがはじまりだそうです。
それが日本に伝わって、鎌倉~江戸と学ばれるうちに、
幕末の倒幕運動に影響をあたえ、
天皇を中心とする国造りに特化するようになったそうです。
ウィキによれば、2.26事件や満州事変に朱子学の影響云々・・・それだ!
なるほど、それが先の大戦に結びつく思想を生み出したということで、
きっと地元水戸では恥とする教育をしてたんですな~。
(そういえば赤坂でも勝海舟のこと、少しも教えてなかったしね~)。
でも、もともと朱熹(朱子)のはじめた学問は、
人間の原点は何かということを追求しながら、
実際の人間生活との妥協点を見出していく、現実的な教えだったようです。
たぶん柔道や剣道、茶道のような、日本の「道」にも
影響を与えた学問だったに違いありません。
それを戦争に結びついたからすべてダメだと、一刀両断にするのは如何なものでしょう。
moiさんはアメリカに住んでいると、日本の良い面、地元の良い面が多く見えてくると、
そうおっしゃっていました。
今の大相撲報道もそうですが、
思考停止状態でものごとを「良し」「ダメ」と断罪するのは、一種のファシズムに思えます。
(おおお、これは我田引水か?)
それは「お前は人の話を聞かない」と言ってる人の方が、
もっと人の話を聞かなかったり、
「お前はガンコだ」と言ってる人の方が、
もっとガンコだったりすることに似ていると思います。
写真はオフ会でいただいたシェ・ミカワのメニュー、ラインアップ。
これでお酒入れて6000円です!
すみません。私の聞き違いですね。いくらなんでも朱子学を恥として教えるなんてひどいと思いましたが・・・思い込みがはげしいもので、失礼いたしました。
ただ、「恥じることのない先人の業績だと教えない」というのは、おおむね私の思い込み違いでもないかもしれません。
わが国は、朝鮮半島やドイツ、ベトナムのように資本主義と社会主義で国家を分断される憂き目には遭いませんでした。
そのかわり、社会システムは資本主義。教育は社会主義といったように、国の中身がまだらに分断されるようなったと、私は思っています。
「国旗に敬意を示せない」「国歌を歌うのを反対する」「国に誇りが持てない」教育を推進する日教組には、私はいつも憤りを感じています。
いつぞや社民党の前党首だった上田さんがテレビに出ていた時、「国を愛する」と言っただけで、「それは軍国主義」と結びつけているのにはびっくりしました。
さすがにまわりのゲストたちも呆れていましたが、私の子供時代にはこういう先生が多かったな。
単語ひとつ、言葉尻だけとらえてオートマチックに結論を導くのはファシズムだと思います。
星新一の作品の中に「戦争」という言葉を口にしただけで、刑務所行きになってしまう社会を描いた作品がありますが、それはそんな意味だったのでしょう。
まー、もっとも私も自分の思い込みで結論を導いてしまいました。大いにこれは反省しないといけませんね。剣呑、剣呑。
えーと、すいません、私の言い方が悪かったです。
「水戸で」教育として恥、と教えているわけではなく、
「恥じることのない先人の業績だ」と教えないばかりに恥ずかしい、と思っている人が多い、ということでした(個人的な意見ではあるんですが)。
でも私達の年代の受けてきた歴史教育って 多分 開国から第二次世界大戦までの流れを、「恥ずかしい」と思わせてしまうようなものだと思うんです。そしてそれが間接的に、水戸という土地に長い人達に「私達の土地や歴史を誇って良いのだ」と言えなくさせていると感じるのです。誇って良いことだと思っていても そう教わらないから口に出せない。だから歴史的に意味のある町名は消え、町はどんどん新しい小綺麗なモノに変えられ、それを見ている若い人は、何故地域の歴史的なものは(残っていても)外にアピールしていけないのだろう?と疑問に思いながら、わるいことには「やはり間違っていたのか、恥ずかしいことなのか」と思ってしまうのだと、個人的には感じます。
これは延長すると「国旗に敬意を示せない」「国歌を歌うのを反対する」「国に誇りが持てない」へつながっているのだな、というのが 外に出てみるとよく分かるのです。
私は幼少から高校を卒業するまで水戸で育ち、幸い地域の歴史に造詣の深い方と接する機会や 史実は判断するモノではなくそこから学ぶモノだ、と教えてくださった先生方に恵まれたと思っています。残念ながら水戸学と言われた朱子学から発生した考え方を知っている人はとても少ない。名前は知っていても、その理想としたところを知らず、幕末期に「要らぬ考え」をおこしたとまで思っている学生が時に居ることには驚きを越えて悲しみも感じます。
そうですね、ファシズム的。悲しいことです。
意見が違うのが当たり前、お互い まず批判しあう前に意見の相違点がどこから来ているのか考える。そこで初めて何かが成長するのに。
相撲協会のことも、全く同感です。
なんだか長くなってしまってスイマセンでした。「教えない」消極性が結果的に「恥ずかしい気持ち」を生み出した、と言いたかったのでした。