金融支配社会において、代償を頂かないとするなら精神生命の本物へのはじめの一歩である。
この社会は、世の中はお金で支配されているために、お金がなければ生きていけないようになっている。
そのため、お金を稼ぐために働く。自身の意識に関係なく、否応なしに働かなければならなくなっている。
もし、生まれつきに働けないとする肉体で生まれてきたらどうだろう。この社会においては、
死の宣告をされているようなことである。
それでも「生」を受けてきたのだから、生きるべきとして生かされていくのならば、
愛情をあって生かされていかなければならない。愛情無くして「生」は皆無。
これは「生」に対して特別な立場になくても、「生」はいかなる命に対しても、愛情がなければ存続はしない。
とくに精神性をもって与えられた「生」に対して、「愛」は絶対的必要性を持っている。
もしこの「愛」が無くなれば、やがてその生命は絶滅に至る。
精神性のない生命は、感情はもたないために、生存は持ちつ持たれつの共存だけの盛衰にある。
ただ物理の中の存在で、反省のない生命として存在するだけである。
心を持つ生命は、物理にある質に宿りながら、その性質に纏われながらも脱皮して性の格付けをしていく。
成長である。成長していくごとに物理の縛りから離れ、自由を得ていく。
物理の記憶の姿形を現象しながら自由自在となる。まるで蝶々のように変化を辿る生命である。
気触悪い蛾のようになるのか、美しい天然の蝶のようになるのか自由である。
その生き様を覚れば、自然と本能において、美しく羽ばたく生命となる。
【愛】は無償にて【愛】である。有償となる愛など嘘である。
この世が存在するのは愛あっての存在である。
如何なる場合でも、愛を有償とするなら、地上は一旦生命活動のない場となってしまう。
宙より意識はそう受ける。