つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

性の乱れの産物事

2018-06-16 | Weblog
50年に一度とか100年に一度とか言われる災害、
天気の乱れが報じられる。
近年、顕著にあるのは果たしてなぜなのか誰も知らない。

その昔、天気は決まった日の出来事であった。
この日は晴れ、この日は雨、この日は嵐等々等、
同じ月日の出来事であった。それは、エネルギーの法則が
絶対運動となっているからで、
乱れることは無かった。
乱れは転換を意味し、崩壊する様を呈するもので、
何かの偏りから生じるが、特に淫らなことから起こる。
それも性(さが)の変化、変質によるものであるために、
厄介なことである。
法則は自然治癒力を要し、修正が自動的に働くものでるために、
自然淘汰にして一時の乱れとなり、やがて元通りになる。


法則は、回るための変化によってさまざまに対応している。
常に正しい対応がなされるが、刺激の強弱はその時々の割合に傾くために、
自由に由って変化の均衡を保とうとする。そこで、
法則の根本である善悪のない自由によって、絶対善としての
回りが保たれる。

元通りになるための、忌まわしきものは排除される。
少なからず、痛みは伴うものである。
それぞれの、人の心の悪なるエネルギーが満ちての事柄である。
ただそれの反映の現象。
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道の理の徳

2018-06-14 | Weblog
まったく近い将来、ある小さな国がなくなるだろう。
忌まわしき名として疎まれ、人間の醜さの象徴のように、
その哀れさを刻む。
動物としての仕方なさを
そのまま選び進んだゆえの顛末である。

生命は、エネルギーの法則によって生じ、
故に自由を持つが、自由が故に自由を正しく理解できなければ、
不自由極まりなくなってしまう。人間の
現在は不自由極まりないエネルギー状態となっている。
エネルギーの法則に無知であるためである。

エネルギーの法則はその自由から生じているものだから、
自由を正しく解釈することによって、矛盾というものは無くなっていく。
法則に矛盾がないためである。
善悪があるのも人の善悪であり自由である。矛盾があるのも人の矛盾であり自由である。
エネルギーの法則には、善悪もなく矛盾も無ない。
幸不幸とするのも、また、それを選び取るのも自由であり、
心の自由である。
不幸になりたくなければ、幸福になりたければとして人は生きるが、
エネルギーの法則を正しく知れるなら、どちらも選ばない、
つまり、にしないで生きることに善は付く。

エネルギーの自由に由って、理知的にあるエネルギーであるなら、
理性を持ち情を制御して、倫理的に生きることである。
そうすれば、常に善は付き、道の徳となり利に導かれる。道の理に守られるからである。
エネルギーの法則は、道理であり自由である。だから、道徳を学べ。
道徳に長けて、自然に浄土に生じる魂、生命となる。
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俄かに は 俄かに・‥

2018-06-12 | Weblog
案の定、未来は曇っていく。
晴れ間と思われるのは束の間で、'暗雲俄かにかき曇り'である。
轟く電、雨ザーザー、
以って
洗い流されて、澄んだ青空がのぞく。
何事も、新旧入れ替わるのは、
それなりの痛みは伴うものである。
あなた方の過去をもって、ただ道理はそう示すものである。


エネルギーは動きであり、とどまるものではない。
流れるものであるが、直進でなく曲進である。
めぐるものである為に、あらゆる物事の浄化となっている。
あらゆるあらゆる物事、事物は浄化の行為となっている。
そのために、ただしく浄化の行為となっていなければ、
悪魔も正義となる。

先人は、こう言っていたのを知っているだろう。
「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず・・・」と。
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暗雲にわかにかき曇り…

2018-06-09 | Weblog
とりあえずとして、近くに驚愕することが巻き上がる。
近年の様々なる動向から察するに感受する思いである。
ただ、そう受ける。
未来は曇り空にして、霧が晴れていく様を呈している。
そこには、
あなた方に、愛はあるのならと付け添えられている。
少なからず、傷みは伴うものであると、
揺れ動きの様の仕方なさを示して・・・。


雨降って地固まると道理は・・。
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自由の正義

2018-06-08 | Weblog
自由がエネルギーの法則の根本であるために、
正確な一つの答えというものは見出すことはできない。
できないというよりも「無い」と言った方が正しいように思われる。
エネルギーの法則に、正確な一つの答えというものは無いとしなければならない。
これが生命エネルギーなるものの答え、「自由」を知った答えとなる。

思考というのは自由に基づき、だから、その生命体の特有な思いにある。
なぜそう思うのか思ったのかは自由であるために、
それを一概にこうである、こうあるべきと決めつけることはできない。
各々正しくあり、正しくないとするだけにある。


エネルギーの法則の自由は、浄化である。
この浄化、浄くに化けるとするも、惑わされないように解釈していなければならない。
何もないとする「有」である。
つまり、善悪のないとする善である。という浄化、ゼロ、ただ0にあるということ。
それが、自由という形のエネルギー。
負で回るも正で回るも、どちらも正義である。
私が生きているということの「正」は、
生き生きとしてあるべきことで「義」となる。
これがエネルギーの浄化に則した存在である。
自分が、ホワイトホールの存在であるのか、
ブラックホールの存在であるのか、自分自身が知ることである。


生きて、悔い無く生きられること、この思いを知ることにある。
いかほど輪廻して知るのやら。
先人の言葉に、こうあったことを思い出す。
「私は何も知らない」として、智者と成す。

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曖昧という情趣

2018-06-05 | Weblog
人間の科学技術も進歩し、3Ðコピーで全く同じものを作ることができるようになった。
人間の科学技術をはるかに凌ぐ生命体は、当の昔にそういう技術を獲得していて、
さらなる進化をして、虚と実の裏表を操作、調節することができる。
制御は知的意志に基づき行われるが、情緒に欠け、
いわゆる、融通がきかない面を有して疎通にない。
イエスかノーかの二分しかない。
完ぺきというものには、曖昧性をもたないために、
完全となることがない唯一の欠点がある。

人間が優れるのは、そして、劣るのは、その情趣を持つためで、
イエスとノーの二分に対して、曖昧という三つ巴にあるためである。
生命種、最高の種をもつエネルギーである。
神々が一目置き、恐れる理由である。



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その時代

2018-06-04 | Weblog
人間の歴史は紛争、戦争の歴史である。
あらゆる面で、競い争うことを好みとする修羅に生きる知的動物。
起伏は一時の平安を共だっての事、けっして安定には無い。
乱れの頻繫は争いの兆候、我慢は限界値。
いつ起こっても不思議ではない。
人間、喉元過ぎれば熱さを忘れる、で、哀れな性である。
それも、ただ自由からくることで、自分次第で変われることであるが、
あまりに、世の道理を知ることがないために、
その時代という運命共同体にして、無知なる報いを受けるものである。

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時の加速を受く

2018-06-03 | Weblog
昨今、世の道理を見て、
戦争は起こる。どれだけの距離を持って現れるのかは、
めったにない事項の設定される時と感受する。
誰も想像だにしないが、事件というのはそういうことにある。
どこもかしこも人間の我欲のもたらすあらわれである。
乱れの速さは驚くばかりであるが、歴史からして当然の成り行きである。

ただ
南無妙と唱う。
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結託

2018-06-02 | Weblog
権力にある者が悪事を為し、権力に任せてもみ消しを図ろうとする。
周囲は、権力に戦き、忖度することを察する。
そうして、権力の取り巻きは、赤信号もみんなで渡れば怖くないとして闊歩して、
従順を択ぶ。それは、後の我が身の保身を思うための我欲に過ぎないもので、ただ、
自己中心的な思いに他ならない。真に、他人はどうでもよいという思いから起こってくる。
悪人が悪人同士結託しても、とどのつまりの不結果。
どうあがいても、後々恐ろしい目に合うものとなっている。
それが、どんな力においても動かすことのできない道理なのである。
善は善、悪は悪の縁が法則である。それが道理であるために。
修正は、自らが気付き糺す行為をしていくしか方法は無い。
だから、「自に由る」、「自由」なのである。
いかなる才能、知力、神の力でも道理を動かす事は無理なことである。
なぜなら、全てが絶対善となって回っているエネルギーの法則の下、その存在からきているからである。
全てがエネルギーの法則の下の存在だからである。その存在の根本性質が
自由だからである。
自由を故意に不自由とするもの、つまり、束縛することは、後、
程々な目に合うものである。それは、いろいろな形を伴って遭遇してくる。
だから、自身の不自由さがなぜなのかわかることがない。
この自由は、数字で表すことができ、その数字はゼロである。
この宇宙は、一つの数式をもって表すことができるが、帰す処は0から発している。
言葉にして、「曖昧」が一番よく言い充てられる。不確定、不確実とも言えるのではないか。

道理を見ていても、人はよくわからない。分かればも徳となり、過ちを犯さなくなるのだから。
だから、道徳を学ぶことが人生の最も大事なことである。
自然は、その道理から作られていて、人は日々自然から学んでいる。
自然を見、経験をしてその良し悪しを知る。そうして生きていながら、自然を理解しないで、
傲慢になるために、恐ろしい目に合う。
自然に唾を吐いても自然は何もしない。黙って吐かれっぱなしであるが、
空に唾を吐けば即自分に返ってくる。地に吐く時と違ってである。
これが何を意味しているのか気づくことにある。天も地も同じであることを知って、
この宇宙の道理を思うことである。些細なことから大きなことまで、
宇宙も地球も同じであり、エネルギーの法則から成っている。
エネルギーの法則は、回る法則であるために、縁起の法則であり、浄化の法則であり、永遠の法則となっている。なっている
それが自由から成っている。

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