つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

すなおを知る

2016-01-25 | Weblog
人の心の善し悪しを見るのは、咄嗟時にあるが、
ただ普通に、いつもながらの間に観ることができるのは、
幸不幸の時。それは、富裕と貧困時に見られる。

心の貧しさというのは、教育がされていなく、また、
自ずと気配りのできない性格にある。
ここで言う気配りは、ちと違う色合いである。
思いをやる、あるいは、思い馳せることのできないという無知から来る心である。
それは、兎にも角にも経験の浅さから来る無智に由るものである。
子供というのは、素直なものである。
人生経験が浅いために、物事の善し悪しということをあまり知らない。だから、
疑うということを知らず、言われた事、教えられたことを素直に受け入れていく。
親のいう事、先生のいうことは正しいとして従っていくのである。
そんな素直な心の持ち主である為に、悪人が偽善をもって言ったことでも素直に受け入れていく。
この意味で、はじめて会う人の良し悪しで性格が形つくられていくものでもある。
赤ん坊は、初めて会う人が母親であり、母親の行いを正しいとして学んでいく。
つまり、親の性格で善悪が判断されていく。そのために、親が間違った行為をしていれば、
間違った習慣を正しいとしていくために、幼い時期というのは、人間形成にとても大事な時期という事になる。
特に特に、道徳に関しては人格を左右していく。
そこで、子供のような心、何も知らないという心、無垢な心というのを、ある意味、貧しい心というのである。
好く理解すれば、素直で素朴ということである。疑うことを知らない心である。
「淳・素・朴・質」=すなおである。

淳=品性が純粋で、人情があつい。
素=生地のままで、手を加えていない状態。
朴=切り出したままの材木のように、飾ったところが無い。
質=そのもの本来の性質がそのまま示されていて、人為・飾りが加えられていない。と、辞書にある。

「貧しき者よ、汝等は幸いである。天国は汝等のものである・・」とキリストが説いたのは、
知識が無くこれといった信仰も無いために、キリストの訓えたことが素直に受け入れられていくためである。
信じるものは救われるということである。ただし、最初の人が善人である事がある意味要となってくる。
悪人が悪意をもって間違ったことを正しいと教えたら、善悪が顚倒してしまい、悪だらけとなって、それを正しいとして疑うことが無くなる。
だから、注意しなければならない。何が正しくて何が悪いのかということを智慧を持ってみることである。
智恵というのは自分の経験から来る知識である。
自らをして苦しいと思うことは他も苦しいと知り、嫌なことであると知れてくる。
苦しみは悲しみであり悪であると知ることである。その悪を他にしないことである。
嫌なことをされて嫌だと知ることを連鎖させないことである。

エネルギーの法則は、回る法則である。それは、浄化でもある。
回る為に元に戻ってくるということを理解して、
自分の為したことは自分に何れ返ってくるという事が知れてくるものである。
縁起の法という事でもあると知れてくる。

さて、いろいろと道理は示してくれるが、
そのありのままをよく観て、覚ることである。

貧しいから施しができないという人がいるが、金品だけが施しではない。
貧しい中からも分かち合うことができる心の人は、愛ある人であると知れてくる。
貧しいからこそ貧しさの苦しみを知るためである。他人の苦しみもはかれるためである。
たとえば、
富める人は、裕福である為に施すことは、貧しい人よりとても簡単である。
事情にして簡単であるか否かではないのだが、単純に貧富の差から
簡単ではある為に、本来施して当たり前となる。施していても当たり前のことをしているのだから、特段御利益に与ることはない。
これが道理である。でも、
富めるものであるのに施すことを知らず、更に更にと貯めこんで離さない人がいる。
俗世、人の世というのはそういう人が多いのである。富める人ほど吝嗇なるものである。
でも、一つ考えて、その立場にいるものの行為が、人格をあからさまに示すことになる。
人の良し悪しが見えてくるのである。
普通にして富める時、人は優しいものであるが、貧しくなると如何やである。
うまくいっている時は優しかったのに、そうでなくなってくると優しさまで無くなってしまった
というのが世の常で、よく聞く話である。そうしてそれは、金の切れ目が縁の切れ目などともたとえられる。
損得だけに関わって愛情が偽られるのである。損得に関わる人はどっちもどっちなのである。
そんな苦い経験をして、改められればいいのだが・・・。
貧しくなってもどん底になっても、優しさを持っている人は、最上の人と知れてくるのである。
人格の優れた人と知れるのである。

裕福であるのに、貧困ということを上辺だけで語り、
お金があるのに無いといって、分け与えない人がいて、突出した格差が生まれる。
人間一人、食べる量も着るものも住むところも、それほど違いが無いものであるのに、
一人にして、あまり多くの広さに住み、贅沢なものを食べ、贅沢な衣服を着る。
多くの人にして、狭いところに住み、粗末なものを食べ、粗末な衣服を着る。
それを見て、自業自得と片付ければ、‘繋がっているもの’‘繋がってあるもの’という道理に背く。
格差は広がるばかりである。
共存共栄、生きとし生けるものの在り方である。
それを知ることのないものは、苦渋にあり浮かばれない生命となるばかりである。

さてさて、行為は業、縁になる。
よいことは好いところに、わるいことは悪いところに確定して生まれるのであり、
この世は、曖昧にあり選択できるところにある。
糾える縄の如しにあり、その時々の心の在り方の行為が、確たるところを決める。
心のゆるぎなさを定める。
個々、肉体は必ず滅びるものである。しかし、心という生命は連綿であることをしっかりと理解することである。
すれば、今の人生から未来世が知れてくるものである。偽善で生きていませんか?と自分に問い、
あの世に招かれる絶対を、戦きますか?安心ですか?生きている今はまだ間に合うものと知る。慈悲。

世の中は、何かをしてもらいながら生きている。だから、何かをしてあげて生きているという事でもある。
それは、させていただく、させてもらうという謙虚にあり、すべからく辻褄が合う様になって生きているのである。
年老いていく中で、様々な場面に遭遇して生きてきているのだから、
老いていくほど、物事の道理が知れてきて、或は、知らなくてはならない。
そのために、老いを敬って、敬老とするのである。年相応で知る者は道理に適うのである。
老いて敬われるのである。そうでなければ嫌われる。往々にして、憎まれっ子世に憚ると疎まれるものである。

道理は‘すなお’である。
コメント