つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

わずらい・煩い・患い・・・

2015-11-15 | Weblog
特に近年、癌患者の増加が著しい。それに伴って、痴ほう症の増加も激しい。
老人大国となっている日本は、かつて例のない速さで老いと戦っている。
就活ならぬ終活なる言葉が頻繁に週刊誌に載るようになった。
老いてその死様を、誰もが案じているのだろう?
今は、
年老いて尚、働かなければ生きていけなくなった日本社会。
苦し紛れに就活をしても、どこも‘お断り’が多い現実。
年金をもらったところで、生活が成り立たないほど社会は、金・金・金がかかる。
収支逆転して破たん老人が増えている。切り詰めて切り詰めて生活していても、
家を持っていれば固定資産税、そのうち、屋根の痛み、壁の痛みに補修費がかかり、
庭があればあるで、木の選定、除草など、老いにはこたえる手入れが必要。
金持ち父さんであれば、何でも金任せで、人に頼んで手入れはできるが、
貧乏父さんにはそうもいかないものだ。
若い頃はよしとしても、やがて負の財産と気づくこと、アッという間の時の流れの速さにたじろぐ。
やがて、あちらこちらと、いろんなところが(身体)病んできて、さらなる金がかかるようになってくる。
なのに、仕事はできない、あるいはない、国の年金毎年減らされて、若者は更に納める額が上げられて、
酷な社会となっている。健康で金があれば長生きはいいかもしれないが、そうはいかないイカの金玉である。
体も思うように動けない、動かせない、でも生きているには金がかかる。死ぬに死ねないのもまた世の常人の常である。
死にたいと思う人ほど死ねず、死にたくないと思う人ほど早死にするもので、何とも思うようにいかないものが俗世である。

さて、腰は重く、尻は重たく、口は軽くなるのが年寄りで、そして、こんな川柳を見たのを思い出す。
「飯食えば、食べこぼし愚痴こぼし、孫より行儀悪くなり」まったくもってである。

不動産なるもの、所有者としての優越感を持たせられているだけで、結局のところ国から借りているものという事になる。
払えなくなれば競売にかけられて、ぶんどられるのである。
金持ち父さんにしたところで、死に際、相続税などが発生することを知り、残された者達の相続争いなどが起こり、
すったもんだの醜い争いがあること多々である。死んだ後のことは知るもんかと本人は思えども、身内の争いが世間に知れ渡る。
金にまつわる醜さは身内にして、骨肉の争いになるのである。あぁ~、人というもの浅ましいものだ。

借りていても家賃発生、二年に一度契約更新で倍に家賃発生。
介護保険税やら健康保険税やら、足代わりのボロ車でも諸々の税、維持費がかかり、
運転もおぼつかなくなったとして廃車にしては、買い物も不便となって、孤立してしまい、
出不精となって更なるボケが進んでいく。負の連鎖となってくる。
老いては都会がいいというは便利だからだが、便利にはやはり多額の金がかかるのである。
そうこうしているあいだに、夫婦という名も崩れて、
どちらかが先に倒れ、悲しみにくれながらも、はたまた、
何年かの介護の末疲れ果て、独り身となる。そうして、不便に身を置いて人知れず死んでいくのだろう。
そのうちという間で、
訪ねてきた人に発見されて、死後数か月と診断されて人生を終わるのかもしれない。
多くある独居老人の現状でもあると思う。

灰皿と金はたまるほど汚くなるというけれど、まさにそう思う。
そんな金に縛られている人の一生は、銀河系どこの宇宙を見ても、
地球だけだと言われている。他の生物にそのような形態は無い。
知的であればあるほど、同種にして愛しみあって生きているという。
下等にしても、生きるために命の奪い合いがあるもので、
憎しみで殺し合うことはない。狡猾で生きてはいない。
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七楽の教え

2015-11-14 | Weblog
生命エネルギーの進化したもの
知的生命体は智慧を得、高度な科学技術を有して、
道理を見るものの、精神的、霊的とするエネルギーの精に徳化して
需し宗とする。
仏の教えとする宗教は、とてつもなく進んだ知的生命体の持つ道徳である。
阿吽を知り、その自由を円運動の自由として、正しい浄化の方便として、故に
絶対善なるものの精を説く。それは、完璧なものであり、この上ないものであると知る。
しかしながら、エネルギーの道理は自由に由来するものである為に、阿吽を巧みにして操り、
「自ラニ由ル」ことの真実を気づかせるものにとどまる。
個々にあるエネルギーは個々に由来しての自由であるために、その自由、法の自由にとってかわり
如何なる力も他から及ぶものではない。法が自由であるためである。
宗教はただ、気づきを与えられるものであり、筋道を示し申すだけである。
どうか、個々に於いて、エネルギーの精、真実に目覚められんことを・・・。

間違いを諭すことはできるが、強いて導くことはできない。
強いて導けば、いつしか道に外れて、互いに空しいものとなる。
自由を侵すという事は、、どちらも不自由となるのである。それは、
‘意に反して’という事が現れてくるのである。

苦労すれば、苦に対しての労りが現れる。いつか必ず報われるものである。
それは、自らが労したものである為に、「労」が「労り」にかわるのである。
労せずして為されたものと、労してなしたものの違いには、「報う」という言葉になって現れてくる。
一つは、「報い」となって悪いことの意に傾いていき、一つは、「報われた」となって、善いことの意に傾いていく。
「労して功無し」という諺もあるが、損得の意にかかわり、かかわらずして徒労ということはなくなるものである。
「楽は苦の種 苦は楽の種」世の中はそのように出来ている。

ここに一つ富山の薬売りの「七楽の教え」というのがある。全く持ってその通りである。

「楽すれば楽が邪魔して楽ならず、楽せぬ楽がはるか楽楽」
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真事

2015-11-09 | Weblog
誠実さは大事である。
その一念貫いて、
誠は
実に真となる。
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成せば成るを知るために・

2015-11-08 | Weblog
教育は、道徳を訓えなくて教育とはならない。
道徳を訓えてこそ他の知識は身に付いていく。
この順序を間違えては、実数も虚数も解読不能となってしまう。
あっていてもあっていない実態が現れてくるもので、
どこまでいっても解決できない、直線思考となってしまうためである。
それはものの道理が、ありのままにしてありのままとならないようなものである。

道の理の徳を身に付けることは、なによりも「為せる技」となるものであるから。
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悪意な統制を絶つ方便

2015-11-08 | Weblog
世の中は邪悪に支配され管理されている。
そのために、
紛争が絶えず、ますます世の中は貧困と裕福の格差が拡大し、
一部のとするずる賢い者達の利益の為に、奴隷化している。
すべての隷属は苦であると説かれているにもかかわらず、
巧みに操られ誘導されて、総白痴化されている。
日々ただ従順にして機械の一部のように、同じことを繰り返して生産に明け暮れ、
帰宅してテレビを見て眠るだけである。
底辺にあるもの多くして、隷属するのみである。
ピラミッド型社会は、
その頂点にあるものだけが「理」を知り、
その下にあるものは何一つ頂点に辿り着く繋がりを持たない。
ただ従順にして、歯車から外れないようにして生きるのが正義とされ、またそう思う。
鎖に繋がれた犬が、鎖が自由の導であるように思うようなものである。

犬を連れて散歩に行くが、
その下の世話を健気にも行うのも、食事を与えるのも、主従逆転の相なるも、
煩悩の為せる技である。
「煩悩の犬は追えども去らず」で、どんなに立派であっても、
人の心には裏腹があり、
それによって主従逆転の相を受ける。くだらない欲が無ければ、
どっしりと構えていられるものを・・。
威厳として大将とあらば、本望だろうに。
おおよそ、‘これが欲しければ’として、
下々の世話をして得られるものだ。

コントロール。
あまりにも多勢となれば隅々まで統制を取るのは難しくなる。
統制の利く範囲での多勢となれば、現行の人口では過剰気味とされる。
世界人口抑制がベストとなるなら、七十億から九十億に近づかんとする人口密度を緩和する必要がある。
当然、食糧難、環境汚染拡大から、自然淘汰は起こるが、
故意に人工的排除をしようとする輩が現れる。悪意である。
それは狡猾な手段であり、煩悩の極致である。
さて、世界情勢が混沌し、正義と悪魔が鎬を削っている。
未来は不定である。一寸先は闇と言われるように、未来は闇の中にあり、
どうにでもなる時間にある。
もし、未来が決定しているものであるなら、時を超えてくるものが関心は抱かない。

自由という文字をつくづく思うことである。「自ラニ由ル」と書かれている。
これがエネルギーの法則の性質である。そのために、未来は不定である。
様々に作られる時間線上に自由として作られるも、円環状体の種数は0であるために、
これが唯一のエネルギーである。
衆生救済、衆生済度は、大衆の心、個々にある心の気付きに由る。すべては心の自由にある。
この自由は法の自由であり、法の自由は、どんな力をもってしても動かすことはできない。
自らに由って動く力である。
そのために、
この個々の心の自由(気づき)が衆生救済と相まって済度となっていくのである。
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環状にある自由のエネルギー

2015-11-07 | Weblog
よく自然を見て、
山には山に適した木々が生える。もちろん草花もである。
原野には原野に適した木々や草花が茂る。
水辺には水辺に適して木々や草花が生い茂る。
人の手を加えることなく、それぞれの自由でもって生えている。
生き活きとして茂っている。森林であり山林であり平地林であり野原であり、
野と山、川にはそれぞれにあった背丈の植物が生えている。
餌、つまり、肥料などわざわざ与える必要はない。人の手を加えることなく、
環境にあった生き方をして茂るのである。
それを遠くより眺めて、山川草木美しくあり、自然はとても美なるものであると感受する。
さらに、感受性豊かにして、事細やかに受け取るものがいるもので、そこから
自然の叡智を得る。

道理というのは字の如く、その道の理である。
こうすればこうなる、あーすればあーなる、という筋道がきっちりとあるもので、
これを知らずして物事はうまく通らない。理に適うというのは絶対を得るもので、
曖昧にして果は悪果となる。悉く打ちひしがれるが、負けを知るもの、つまり、敗れて立ち上がるもの、
最高を得る。なぜなら、道理は、終着は始発となっているからで、螺旋状に動く円運動であり、それが、
それぞれにある周期にある円となっているものであるから、
感受豊かにしてあらば、進化一途にあるからである。

宇宙は円環状となっていて、種数は0~1,2,3・・・とあるが、
閉じられている有限にあり、無限に廻って繋がっているものである。
無限にあるエネルギーにしての自由によって成り立っている。
よくこの道理を見て、大気は無限でなくなるということはない。
この空間を智慧豊かにして、無限のエネルギーを操るのも自由である。
飛行機(科学)は鳥に学び、飛ぶことを得て飛んでいる。
昆虫もまた空を飛ぶものである。その特性は様々で、トンボは浮遊、後退までできる。
光るもの、擬態するもの、透明化するもの等々種々雑多に特性を持つ。自然である。
どんなに高いところから落ちても、普通に生きるアリ、上下左右の拘りも持たない等々、自然は驚異にして素晴らしい。

人というのは、損得という邪悪を持つ。そこに付け込まれて、
欲望という煩悩は物質的に縛られて、
貨幣制度を作り上げた。すべてを欲望に縛りつける奴隷化である。階級が生じ、
邪悪心に隷属する社会が生じている。
互いに人の判断で、すぐにでも煩悩から離れ、それを無にすることはできるものなのではあるが・・・。
個々の愛、霊的向上によって解決されるものである。人、少数それに気づき、多勢にして無知である。
そのために、滅亡していくと法を見た人、釈迦でありキリストは末法思想を説き、地獄の黙示録を説いたのである。

宇宙は相対である。異なった性質が同等にして対立してある。
善悪は無いものでありながら、善悪を作り上げるも自由である為に、エネルギーの種数を2としてつくっている。
2があれば3がありとつながっていくが、もともとは種数0がエネルギーの自由である。
人の目に見えるものの形はエネルギー0の種数である。このありのままを起点として、
自由を自由として訓えているのが、般若心経である。

願わくばよく解さんことを…と。
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スピリチュアル

2015-11-06 | Weblog
生命は連綿であるために、
私達は、心を唯一の持ち物として転生を繰り返している。
今生の世界での物質的なものに執着しても、死後の世界には持っていくことはできない。
持っていけるのは「心」だけである。そのために、
物質的なものに執着しては「苦」が生まれる。
物質的なものは、心の向上に於いて一時的に役立てるものとしての在り方である。
常に無常にあるものである。だから、肉体もそうであり、それを維持するのに必要なあらゆるものが、
心の向上のために存在する。心が進化すれば生命そのものが生き活きとし、美しく輝いていく。
この世は生命、つまり、心の修行の場なのである。善きにつけ悪しきにつけ、その時々の心の反応が
生命の幸不幸、いわゆる、輝きの度合いを作る。
生命はエネルギーである。故に、心はエネルギーである。心は、
記憶で作られていく。物質的存在ではない。霊的、精神的という魂の存在である。
正しい経験の下、正しく育った心は御霊として幸福を得る。
それが天国、涅槃寂静の世界である。、つまり、生命には死が無い為に、
死後の世界が生命そのものの真実の世界で、その真実の世界を、
幸福とするか否かを決めるのが今生の生き方にある。
生き方が悪ければ悪い世界、地獄が現れ、善ければ良い世界、天国が現れる。縁となっている。
エネルギーの法則は縁起の法則でもあるからで、それに気が付くことはものすごく大事なことである。

この世の中は、迷いに満ちていて、ついつい惑わされてしまうこと多々である。
善人でも悪い目には遭い、悪人でもよい目にあったりするために、唯物的にして見るものがすべてであると勘違いする。
生命の行き着く世界は唯心であり、物質的世界ではない。
縁で行き着く世界である。最終的に善い人は良いところへ、悪い人は悪いところへ赴くのが道理である。これが自然という。

生命すなわち心すなわち魂、霊魂である。
日を見て精し日知り(聖)となる。精神を研ぎ澄まし、怠ることなく日々精進努力することで報われていく。
心の豊かさ?を思い、
物にあふれて裕福としてもただ憐れである。

迷い惑わされてはいけない、ともすれば、この世は「堕」に満ちているから。
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自然の‘せつり’・道徳こそ真の教育

2015-11-05 | Weblog
気づきというのは大切なことである。
何に気づくことが大事なのか?「是」に気づくことである。
是というのは「これ」と訳される言葉ではなく、その文字のつくりを見ればわかることだが、
日が正しいと書いている。つまり、太陽の運行が正しいとして是として、
これがすべての法則、道理であると示している文字である。日は東から昇り西に沈んでいく。
これが廻る運動であり、絶対で変わることが無いものであるために、全ての法則となっている。
この法則がエネルギーであるために、自由によって廻る動きとなって変化、生滅を繰り返すものとなっている。
この変化に応じてあらゆるものが存在となっている。すべてはこのエネルギーの法則の下の存在である。
そのために、法則を超えた存在は無く、超常現象というのは存在しない。超常現象と認識するのは人の勝手で、
自然界にはもともと存在する物事で、時に稀にとして遭遇するための都合よくつけられた文字である。
常々を超えるという事は、法則を超えるということであり、超えてしまうものは存在とならなくなるために、
ありえないのである。すべてが法則の下の存在であるからである。
私達は、まだ見ぬものとしての存在、まだ見れない存在としてあるだけである。自由がすべてであるためである。
例えば、神という存在を誰も証明できない。証明できないものは否定も肯定もできないものである。
自分というものに恐怖というものが無ければ、何に頼る必要があろうか?神仏などいらないものである。
恐怖を抱くために、絶対的存在神仏をつくり縋るのであるから。心の概念に由るものである。
また、凡そ人間たるものはという常識に於いて、並外れて優れた能力を示すものに、それこそ「超」をつけて、
超人などとし、また神がかり、或は、神様そのものとして崇めるものである。
つまり、とてつもなく進化している生命を神様としてしまうのである。
現代人にできないことをいともたやすく行うことのできる能力を有し、自然の‘せつり’を自由にして操ることができるもの、
その行為をまざまざと見せつけられれば、絶対的存在と畏怖の念を抱くものである。そして、崇め奉るのである。
その様な生命体は、この宇宙には数多くいるもので、
宗教なるものは、そのような生命体によってもたらされたものでもある。

進化した生命体にも、
善なるものと悪なるものの存在が有り、それは、宇宙が同異相対するものとして存在するからである。
人にしても、「良い人に遇うこと」は人生に於いて要であるように、地球人という大きなひと塊から見ても、
良い知的生命体に出逢うことは大事なことである、といえる。

エネルギーの法則そのものには善悪は無いものである為に、絶対善として、
すべてが浄化の動きとなっているものである。
これが正しい生命エネルギーの生き方である。
このことに気づくことが、道徳という事を学ぶことである。
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知る人ぞ知るもの

2015-11-04 | Weblog
是が法則である。
すべての法則である。すべてがこの法則の下の存在である。
このことをよく理解して、これが一事が万事としてあることを知ることである。
この法則がエネルギーの法則である為に、エネルギーの自由によって成り立っている。
その自由が円運動である。
だから、宇宙はすべて円運動となっている。
宇宙がエネルギー体であり、その自由が円運動となっているために、
宇宙のあらゆるものが円運動となって、終始が無いものとなっている。
このエネルギーの法則によって生命は作られている。
そのために、生命も無くなることのない動きとなっている。
エネルギーの回る変化に対応して、それぞれが生じている。
変化に応じて各姿形となって現れている。
その場に対応(反応)したエネルギーだから、場に応じた姿となって、
最も適したものとして現れている。
時に、場に応じても、過剰反応となればやがて淘汰となってくる。

宇宙はエネルギーである。エネルギーが自由という性質である為に、
すべてがこの自由によってつくられている。
エネルギーは有限であり無限ではない。ただ円運動の自由である為に、閉じられていて循環しているもので、
無限に繋がっているものとなっている。
エネルギーの外側は不可思議である。なぜなら、エネルギーが無い為である。
そのために、宇宙の外側がどうなっているのかということは、一切かかわりあうことができないものとなって、
考えてもしようがないこととなっている。
考えたところで何の意味もなさないものである。
是の道理を見て、
宇宙は有限であり閉じられているもので、その形は円い。エネルギーが円運動となっているためである。
それゆえに、
人の思いも際限なく膨らんでいくものであり、これで良しということはない。
自分自身が足ることを知り良しとしなければ、尽きることなく次から次と生じてくる。繋がっていくのである。
すべてがエネルギーの自由により、無くなることのないものとなっているためである。
この道理を覚れば、「繋がる」ということの意味が分かってきて、縁というものが起こってくることが知れてくる。
円は縁となって、巡り廻って元の処に返ってくるのである。

業という言葉がある。
ある辞書にはこう記されている。
業=‘現在の環境を決定し、未来の運命を定めるものとしての’善悪の行為。〈狭義では、悪い行為を指す〉とある。
まぁ、‘行い’ということであるが、自分が為した行いによって縁をつくり繋がっていくものであるということがわかる。
さて、宇宙はエネルギーである。故に、片時も止まることなく動いている。それも円の動きとなって動いている。
回転しながら回っているもので、螺旋を描く。その変化が進化となって浄化となっている。
退化とするも各エネルギーの自由であるが、進化が浄化となってのエネルギーである。正しいとするエネルギーの義である。
それゆえに、エネルギーの動きは常に前に進むという変化で、進化となって浄化となっている。
それを弁えて、人(生命)の儀である。常に精進努力が人たる生命の使命である。作法、行儀作法である。
だから、仏は言う。常に怠ることなく精進努力すべし、と。

仏というのはこの世の人ではない。
もと人であり、その人生に於いて是を見て悟りを開き、
あの世に逝った人たちである。
その仏達が、当時、現世に於いて、仏達と同様の修行を行じている僧たちに、
修行が縁となって、あの世から語ったものが啓示である。
般若心経は、観自在菩薩と呼ばれた人の啓示である。
観音経は、観世音菩薩と呼ばれた人の啓示である。故に、法華経を説いた菩薩である。
名が違う様に、自在菩薩とは全くの別人である。
あの世からの啓示である為に、
釈迦の説いた法が正しかった証明となったもので、
観自在菩薩も観世音菩薩も共に釈迦の説いた法を行じて悟りを開いた人である。
釈迦の啓示が無いのは、釈迦の修行が完璧なもので、まったくもって
人との縁を絶ち、輪廻から解脱し、絶対世界である法の世界に、自由に生きているためである。
生前、釈迦が五十六億七千万年後の世に於いて、弥勒菩薩という佛が現れて、衆生救済に当たると伝えたのも
現代科学に於いてちょうどその頃は、太陽系の消滅期に当たると捉えられているもので、また、
ニネベ定数という数字の連なりを精査して計算すれば、ぴたりと照合する年数であることもわかってきた。
彼らは、高度にして道理をよく知った人達である。
ゆえに、最も簡潔にして世の道理(法則)が述べられている般若心経を、正しく理解して
是(エネルギーの法則)を覚ることである。
くれぐれも間違えて解釈しないよう、開経偈という序文を心経に付けて注意、お願いしているものである。
衆生の正しい智慧を願っている。
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あるでもない、ないでもない、無題

2015-11-03 | Weblog
この身をもってして、即身成仏というのはあり得ないものである。
この人生に於いて、是を知り悟に至って、
常々智慧を持って法則の行為としていけば、随所に於いて変化に正しく対応した行為となって、
善の行為となって行く。この行為が愛の行為である。
死後の世界を愛の国とするための行為である。すべて死後の世界の為の行為となっているのが、
人の人生である。
成仏というのは、死後の世界のことで、今生に於いての人の経験によって導かれるもので、
煩悩多くして生まれる身に、この世での仏果を得られるということはない。
仏の境地というのは今生のことではないからである。
人は、死が経験とならないために、死後の世界は一切知識となることが無く、
どんなに知ろうとしても、知ることができないものとなっている。
そのために、あの世というのが人の想像でしか語れない。それも各々の想いとなっているものである。
一律にこうであるという世界があるわけではない。
それは、人それぞれに見る夢があるのと同じである。その人なりの地獄、天国があるのである。
エネルギーの世界である。記憶がエネルギーである為である。
夢という一様はあるけれども、見るのは各々の夢である。

逝ってみて初めて分かるが、それも一瞬である。それは生命に死が無い為で、
それは、自分が生まれてきた時、なぜ生まれてきたのか一切の記憶が無いのと同じである。
ただ生きていきながら、感じていくのみである。
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