つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

正気、(正機)

2015-03-15 | Weblog
頭脳明晰で、誰に導かれることも必要とせず、
自身で行く先を決められる人に、道先案内人などいらないものである。
彼は、独りで歩みながら、善きこと悪しきことの選択ができるものである為に、
これと言って大事に至ることが無い。
神など必要ないものである。
それこそ、人生迷いながら天を仰いでも、
判断の選択は自身に委ね、故に、何ら世間を恨むことのないものである。

善悪の判断も知らず、教え示されても会得せずに、誤ることにある人だから、
心配で気が気でならないものである。
それこそ、母親に見守られる赤子のように、
それこそ、あらゆる面で道先案内人の必要とされる者である。
愚かで哀しくて悲しくてある人、世間の見離す人である。一言にして大ばか者の類い。
そんな人は赤子のように人の手のかかる迷惑千万にしてあり、蔑まれる人であるが故に、
神を必要とし、仏の御心に適うものという事にある人。
大人になれない恥ずかしい人である為の、道先案内人の道先に適う人である。

大人にならない人のなんと多いことか。
だから、
この世は、淫らで乱れて汚い世。
乱雑にしてあるもので、
ただただエントロピーにあるところ。それは、
寒々としてぞっとする気を漂わせる。

故に去勢にあり、従順にしてのレールの敷かれることを強いられ、
あたかも、鎖に繋がれた犬の自由として、主人に従い慕うように。

正しくあるエネルギー、誰彼に教わることなく本能にてその浄化を知り、
常にエントロピーの治まるにあるエネルギー、自由エネルギー、環状体状にあり
無尽蔵にしてある気力である。

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催眠

2015-03-13 | Weblog
常識をありのままに精査した時、
不思議にも非常識を知る。
私たちは非常識の中の非常識で生きている。
だから、未知との遭遇にあたりさわりなくしてうやむやとする。
ある真実も虚像にして辻褄を合わせる。
たとえ真実を知った者がいたとしても、
虚偽にして葬る。
非常識な奴だと罵って・・・。
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回るという性質(事)

2015-03-10 | Weblog
名は体を表し、体は名を表す。
真実に美しいものは美しい姿をしている。
化として、
その姿を欺いて汚物に化粧をして世間に宿す。
まるで真実かのような振る舞いは多くが惑わされて、
迷いの中に戸惑う。
化としてあるものは
魔が差して、
善として悪に繋ぐ。
その時、醜いものと美しいものの顔を両方にして、
体は名の如く善に由る。
黄金律確かな美である。

自然は美しいものだ。
人も美しいものだ。
法が浄化にしてあるためである。
法によってつくられしものである。
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一念発起

2015-03-09 | Weblog
日常の常識として日々を送っている私たちの生活。
常識を逸脱した事柄にも驚きはすれども、
驚くだけで過ぎ去り忘れられていく。
時に、思い出されはすれども常識外の事は荒唐無稽にとどまり、
かかわることに非常識となり笑止のまま。
気違いというのは、気が違うとしての紙一重からの得る偉大。

「一念岩をも通す」、「一念万年」という心あって、
「一念天に通ず」ものである。

日常に於いて、
非常識な思いに真実がつまびらかになる。
仏道とは、真実への道。
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得心

2015-03-09 | Weblog
自由というのは不自由にしてある。
とても恐ろしいことであり愉快なことでもある。
このことを理解する者がいるなら、荒唐無稽も臨機応変として肯定されるものである。

一つ一つ起源をたどっていくと、果てしなくを得る。
「行き着くという事が無いところに行き着く」という事を知る。それは、
限りなくゼロに近づくがゼロにはならない。だから、限りなくゼロに近づいたどの時点で得心するかだけである。
それは、自分という観察する者がいるという事が答えでもある、に似ている。


人は、自分たちより高度に発達したもの、
人知計り知れないほどの進化を得、その過程にあるものや達したものを全能として神と崇める。
つまり、決して人技ではできないことがいとも簡単に瞬時にしてできるものを理解できずに、故に、
分からないもの、或は恐怖として神とする。それは善神でもあり悪神でもあるもので、
また、人の思いの自由によって成る存在である。

人は神に似せられて作られたといわれる。

人を考えれば、人もまた自分に似せて物を作る。その様に進化の過程に於いて、
自分たちを基本(参考)にしてものづくりは行われる。
人から見て神とする者もまた同じと見て、神は人を作った。遺伝子操作の技術も優れていった。

では、その神は誰に作られたのだろう?さらに高度に進化した者達につくられたとして繋がっていく
ヒューマノイドである。

意識の集合体はエネルギーである。揺れ動くものである。光でもあり熱でもある。微にしてあるものである。
それはゼロという集合体。
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周期律

2015-03-08 | Weblog
揺るぐ違いによって、
ある一つの周期をもっている。
エネルギーが円運動であるために、その回りが各様々にしての性質を持つ。

穏やかに揺るぐものと忙しなく揺るぐものと、
忙しなくして短いものと、忙しなくして長いものと、
穏やかにして長いものと、穏やかにして短いものと、
忙しなさと穏やかさを繰り返すものと、無作為にしてある。

規則的なもの、定期的にというのも、
意図されたという事の意識があるというのではなく、
ただ廻る自由という性質に他ならない。

完全なる円というのではなく、やや楕円にしてなるための存在という運動。
その揺るぎは螺旋をもって廻り、生滅を繰り返す。それぞれに周期を持つ。
完全なる円の廻りであれば、あるでもないないでもないという状態であり、周期というものも無い。
安穏にして平坦そのものである。
この世界が如実の世界。この世界より来たれし者が如来といい、
起伏、つまり、喜怒哀楽にある感情の起伏を静めることを訓える。
円満であるようにと、故に安穏となるためである。

誰しもが幸福を望む。
幸福を望むならば、不幸も受け入れなければならない。
不幸を受け入れたくないならば、幸福も受け入れないことである。
これが、簡単に示せる安穏なる世界である。どちらかだけを示せるという世界ではない。
生死を繰り返すというのは、揺らぎの起伏が激しくあるための楕円状螺旋軌跡を描くためで、
起伏を静めるというには、共にという事を同時に抑えて静まるものである。
意識の高まりをより高度にしてなることである。これが、動きのやんだ高速回転の動きである。
円満な動きである。すれば、
円満にして動いていることにも気づかない。同化という。

私たちのいる地球が、はたまた太陽系が、銀河が、宇宙が人知計り知れないほどの高速回転で
動いているのを肌で感じ取ることが無いように、まるで静止してあるかのように感じられるのも、
この動きの中に同化しているためである。
ただ、老若にしても、年々年月の流れが速く感じられるのは、感情がエネルギーであり、
生命エネルギーにして宇宙の法則によって作られているものであるために、その変化を微妙に感じ受けるものである。
が、しかし、人がどんなにその時間の流れを観測しても、何ら変化の観測は捉えられないものである。
同化にあるためである。
同化してしまえばわからなくなるから、「どうかしてるよ、あいつは」などとため口をいう。


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此縁性

2015-03-07 | Weblog
相対してなりたっている。
有無相通じて生成、刹那にして繰り返す。
それを揺らぎと言い由来である。
エネルギーの法則、円運動の自由である。

‘これがあるためにこれあり、これがなければこれもない、
これが生ずればこれも生じ、これが滅すればこれも滅す’

およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである。

私たちは「無」というものは何かと追求するが、どんなに追及してもこれだという答えには行き着かない。
たとえこうだと知ったとしても、なんの意味も無いものである。

客観になろうとしてもそう思う事が主観。

無というのはそのように答えの見出せないもので、およそとして捉えられるものである。
そのおよそから有無している。これだという実態がおよそとして答えである。
無という有である。

無という有から生じてくるために、相対して刹那となっているための自由。
その繰り返しが諸々様々を持っていて、‘此の縁’によって現れる。

此の縁、無知にして

私の人生、あの人生この人生と様々を繰り返して未だ永遠とするのか、
彼岸として行き着くのか、有無相通じて生成に照らし合わせて、自由である。

幾多に於いて、無知を覚り無智でなくなる。
此の縁をもって、此岸から彼岸へ!
生命の自由である。







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尊重

2015-03-04 | Weblog
とても身分が高く、その収入豊かであるにもかかわらず、ほとんどを分け与え、
その身質素にして暮らし、満足とする。
格別たる高徳にありながら格差を嫌い、ただ足るを知るを覚える。

威厳一目にしてあり置かれるも、皆親しげに寄り添うこと普通。
彼は、各別を同等として敬い、一切にこだわることが無い。
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優美なる者

2015-03-03 | Weblog
貧乏というところの最善は布施にある。
貧乏が故に為せる技で、その益多大にしてある。
質素が放つ輝きは、鋭く眩い。
優美である。

難しいと思うのは、その心、邪心にてあるため。
それこそ吝嗇にあるものである。
それを貧乏という。
貧乏を盾に願うだけの者は、
下品にして蔑まれる者である。
くすんでいてさっぱり冴えない。
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心持ち一つ

2015-03-01 | Weblog
年寄りの多くなった日本。
死んでいく人が年間120万人ほどだという日本。
団塊世代がそろそろ寿命年数に近づいてくる近い将来は150万人ほどに増えるらしい。
生まれてくる人よりも死んでいく人の方が多い国は、寂れていくことあたりまえである。
大方社会保障なるものは破たんしていく。すでにそのような状態にあり、
年寄りも老骨にムチ打って働いていなければ、生きていくことが難しくなってきているが、
その割には年寄りのする仕事というのがなかなかない。
経済国は、金を持っていなければ長生きも苦しいものだ。
働きたいが働けない。まして、あそこ痛いここ痛いでは尚更で…。誰も雇ってはくれないものだ。
年金制度はあっても目減りする一方で、爪に火をともしてというふうに、
ケチに暮らしても、税金はあれこれと掛かってくる。
おんぼろ家があっても家に税、売るに売れない土地に税、足代わりの車があれば車に税、
反応鈍くなって免許を返せば孤立して、生活必需品すら買えにいけなくなる始末。
おまけに医療に金をくわれる。そのうえ、あの人が死んだ、この友があの友がと先立たれていけば悲しむことも多く、そしてまた、
我が身の番の不安も募る。
年を取ればとるほど都会が便利となるが、これまた金が無いと暮らせない。
経済国、便利には金がかかるものだから。
広い家があって広い庭があって、庭木がたくさん植えてあって、垣根も樹木で巡らされていれば、
ははぁ、なんとその手入れが多大なもので、放っておけば藪の様に荒れ果てる。
若かりし頃は自分で手入れできても、年寄ともなれば自分ではできなくなる。
草取り一つにして困難になる。花一つ世話をするのも容易でなくなる。すると、
庭なんかないほうがいい、家なんか小っちゃいほうが楽、いやいや、
六畳一間もあれば十分と思うようになる。高僧が庵というものを好んだのもだんだんわかってくる。


自分の身一つ世話ができなくなっていくのである。
物資乏しい時代に生きた人は、あれ大事これ大事と、これと言って使わないものまで取っておく。
わからないでもないが、ほとんどゴミ状態となってしまう。して、処分するのも金がかかるようになる。
死んであの世に持っていける物は何一つない。
持っていけるのは、心一つ。
これこそ最も大事な心持ち。
みがいて磨いて大切に大切に持っていなければならない心持ち。
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