つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

知恵の輪

2013-12-29 | Weblog
ここにこうある存在は自由である。
自由をもってしてここにこうあり、あそこにはあーいうふうにある。
すべてが法則の自由でもって成っている。
だから、なぜそうなのかという理由は特にない。
自由をもってしてそういうものであるということである。
一つ、光というものを考えてみた時、
通常の計算が成り立たない仕組みで存在している。
ある一定のところまでは通常の計算で示されるが、それですべてが計れる存在ではない。
瞬時にというものを見た時に様々な疑問が示される。
その疑問は
通常のという計算では示されないもので、まったく別の観点から見て計らねばならない。
この世においては統一された過程が無く、時々に当てはまるというもので示されている。
それは、考えというものには対処しておらず、感、いわゆる勘という観である。
光は静、動に関わらず一定にして計られ、その意図は勘で計らねば観ずることができないものである。
通常計算では通らない微なる動きであり、精に通じるものである。そのために不思議となり司っている。
しかしながら、不可思議なものではなく、精をもってして計られるものとなっている。それこそ統一の理の論となる。
智の恵みである。
智の恵みは時を持たず間を持たず空虚である。虚空にあるために自由である。だから、何ものにも礙げられるものではない。
不確定の値はその時々をただ確定し得るものである。
それを、こうであり、あーであると定めることはできないものとして捉えて理解する。自由なんだと。
そのために、精をもってして当たり、精いっぱい思いが馳せれば確定して現れる。
神通力として表現するが知の恵みの輪である。

般若心経は智慧の経典とされているが、智恵を説いているわけではない。
無の文字がやたらに出てくるために文字の知識で否定の経典とされて、すべての有の否定となって知識となっている。そもそも、
無から有が生じることはない。それが道理である。
もともとそこには「ある」として生じているものであるが、私たちの目には見えていないために何も無いとして、
無いところから有るものが生まれてきたとする。
無から有が生じてきたと思ってしまうのである。
そこで心経は、「心無罣礙無罣礙」として、‘心は心経の文字にさまたげられるものではない’と説いている。つまり、心の自由であるとしている。
どう解釈するかは心の自由であるために、間違った解釈、いわゆる文字の知識だけで解釈してしまうと
無が‘無いのだからこだわるな’という解釈となり、何も考えずにただ一心に唱え祈れば仏に通じていき、その功徳が得られ恐怖も無くなっていくとしてしまう。
もともと無いものにこだわるために苦しむのだともっともらしく解釈してしまうのである。
そのあとに「故無有恐怖遠離一切顚倒無想」としている。
これは、無の解釈を顚倒して思い、心の都合のよいように解釈することであると説いているものである。

心経は、無を‘無くなるものではない’ことと理解して、知識ではなく知恵の目で見て道理を判断することであると訓えている。
心の自由であることを知り、知識ではなく知恵で判断していくこととしているものである。
それ故に、心の問題であり、心の経典とされているものである。
智恵は道理が教えてくれるものであり、それは経験である。それを、こう捉えるのだよと訓えているのが心経である。
くれぐれも文字の知識に惑わされぬよう、正しく解釈していくことである。
誰しも、繰り返し繰り返し廻りくる日々を経験しているではないか。
‘♪終わりなき世のめでたさに・・’いう元旦の歌にあるようにこれが道理である。法則である。万物の。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自然の猛威 | トップ | 生きている目的 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事