つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

あすなろ

2011-10-08 | Weblog
まだ時でないものが現われて来るとき、そこに制御が図られる。
意図して時節の秩序を保ち、急激な変化による対応不能、混乱から狂いだし
終に至らぬように「智」なるものが働く。未知を垣間見て知らしめるとき、
その功績の偉大さに押しつぶされ、一変してしまわぬように「手がかり」にとどめられる。
優れたものが
長い間を置いてつくられてくるように、時ならぬ優れものには順次が関与される。
自然法則の関与というより先駆者の関与というほうが当てはまるのだろう。
すべてが途上にあるものであるとき、前後がそれぞれ教えあい、共に進んでいくものである。
異端というのは、発展の為に時として現れてくるものである。が、その異端そのものはまた、
深くそのことを知らないものである。
多くの智慧を掴み取り、駆使して、これはこうだと教え込み
称えられても、
苦楽は別にあるもので、楽の享受に苦もまた等しい。

生死の有無を覚り、輪廻の解脱をして、時と間とを超えて、永遠という寂静に安住する
手がかりは功績によって得られてはいく。「智」という功績である。

光を超えて時を戻り、過去にたどり着いて、過去は過去で今と少しも変わらない時を刻んでいる。
時は変わらず、つかみどころの無いように進んでいる。
昔と今が違うように、未来もまた違う。そこに、智の働きが無ければ、昔も今も変わらず、そして、廃れるだけである。
未来もまた廃れるだけである。
智慧を持ってあすはなろう、あすはなろう。今日の凡人、明日は悟入の人に、と。
心の中は自由、時間も空間もないのだから。
信じる。智なるもの、神が仏がまた、賢者が、先駆者が使う言葉である。
コメント
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