つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

信心

2011-07-22 | Weblog
暑いとなれば冷房にして、
寒いとなれば暖房にする。
電化システムを大いに活用して、
外的刺激に対応、身の快適さを確保、維持する。
発展途中の知的生命体の、ある意味弱いところである。

自然に対応して、暑ければ暑いなりに、寒ければ寒いなりに、
持ち合わせている五感を生かして、身の涼しさ、暖かさを補う。
身体は、それなりに対応力を備え、
汗をかき、また、体を震わす。
目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わい、身体で触れて、
暑さ寒さの時を凌ぎ、心で思う快適の過ごし方。
芸術的とも思える端整な形体は、さらに進化してより美しく容つくられていく。
その進化は、依存の無いものへとなるために、より逞しく強いものとなり、
不安が無いものとなっていく。そのために、堂々として威厳を放つ。
邪悪なものから見れば付け入る隙が無いものである。
そのように、自然というものの主旨を上手くくみとり
生きていけば、破壊と創造という対なることがなくなり、創造だけが育まれていく。

人は、自然に合わせるのではなく、自然を変えて生きている。人に合わせてしまうために、不都合が生じ、増してくる。
季節はずれが起きて、異常な寒暖が起き、狂いが起きてくる。
人の身体は進化を止めて退化に転じ、さらに、何かに依存無くして生きていけないものとなっている。
その不安、恐怖がありもしない神をつくり、創造神となって
念じ祈ることで不安、恐怖を解消している。そして、恐怖心が消えないのは、念じ祈ることが足りない為だと
更なる祈りに徹する。
先人は言う。「祈って願いが叶うなら、なにもしないで祈っていればよい」と。
さて、あなたは、千祈っていくつ願いが叶いましたか?
祈って願いが叶うなら、誰も苦労はしないはず。
祈りは、恐怖のために動けない状態と同じ。動かなければ恐怖に犯されてしまう。
たとえて、獣に襲われ、逃げ隠れしなければ食べられてしまう。つまり、動かなければ助かる道はない。
道理とは、すべて動いているものである。静止しているものは何一つ無い。この道理をみて、
じっとして祈っていることで、道は開かれることは無いと知る。
祈りは恐怖に犯されている行為である。いけない行為である。
何事も祈らず信じることで道は開かれる。
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徳を積む

2011-07-21 | Weblog
道理を知る。
その上で、
誰が見ている、見ていないに関わらず、
ずるをすることなく、善いとすることを
一つ一つこなしていれば、
そのうち、どうにも好いことが好いように訪れてくる。
特に求めていなくても、得となること多く、
さらに謙虚に拒んでも、是非にと与えられる始末。
足ることを知るなら、不足が補われていくことを知るようになった。
損をして得となるのは、損得を思わずして知るものである。
徳は得である。
道徳を守って、よく道理に守られていくことを覚えた。
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孤独

2011-07-18 | Weblog
生きていくために媚びる。
それもいたしかたなしと思うも、
哀しいものだ。
強がっていても、
人は独りでは生きていけないものだ。
私もあなたも、
強がりながら繋がりたがる。
本当はみんな弱いんだ。‘独り’というのには。
強がる人はよくみかけるが、強い人を見たことはない。
孤独というものに。
終も近い人生いまだに・・・。
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塵も積もれば・・・

2011-07-17 | Weblog
毎日の積み重ねが功を奏す。
日々ふしだらにいて、いざ、そのときになればしっかりと動くよと言うは易しで、
人間、毎日だらだらでは、いざとなっても上手くは動けない。こんなはずではと大変な目に会うこととなる。
継続は力と言うも、日々の暮らしが毎日の同じ繰り返しであるために、
繰り返すことが世の法則に適い、よく道理に報われていくためである。
地道にコツコツと、そこそこで、
柔よく剛を制すよう、臨機応変にして
ただ
あきらめずである。
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私のつぶやき

2011-07-16 | Weblog
「愚か者は経験から学び、賢い者は歴史から学ぶ」と聞いたことがある。
私は、
経験は智慧となり、道理を知るものである。
歴史は他人の経験である。その経験を正しいものとして学ぶのが知識である。
他人の経験を正しいものとして学ぶ為に、
時によく忘れる。それは、自分の経験となっていない為である。
他人の経験が正しいとしたものが知識となるために、経験が誤れば知識も誤りとなり、
その誤りに気づかなくなってしまう。
経験から学んだ識が智慧となり、智慧は道理から得られたものであるために、
過去にも今も未来にも通じていて、だから、予める事ができるのである。
経験こそ正しい判断を分かち、応用が利いていくものとなるのである。
知識ではなく、智慧である。智慧は経験から学び取るものである。
賢者は経験から学び、智慧を働かせ、善悪を分かつのである。その判断は迷うことの無い判断であり、
誤ることの無いものである。あらゆる応用が利き、だから、未然に害いを避けるのである。
愚者は知識をみるだけで、智慧を働かせることが無い。
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久しぶり、智慧さん

2011-07-16 | Weblog
智慧ある者とは、この世の道理を知ることである。
道理は法である。
何かを為すにあたって、そのものの性質と出会い、特徴を知る。
よいことと悪いことをそこから学ぶ経験が識となって、
智慧となる。これはこうだと、あれはあーだと、時の状況に応じての変化を知る。
折り合いを学び、触れてはいけないもの、犯してはならないものの値を知る。
それは、経験から学ぶ道理の計りであるために、誤りの無いものである。
智慧をつけることは法を備えることになる。そのため思議のいらないものとなって、
瞬時の判断が利く。迷うことの無い思いである為に、また、道理の判断となるために
誤りに遭うことがなくなっていく。
道理でうまくいくものとなる。それを不思議という。智慧を身につけるということはそういうことである。

法によって創られている世界。エネルギーである。その法が是である。是は
円運動である。巡る動きが諸行無常を唱え、常住のものである。
無くなることが無いものである世界の中の物語。
生滅は繰り返しても、増えもしなければ減りもしないのである。
だから、私は死んでも明日は変わらずやってくる。そして、
法を知り得たか否かでの、それぞれの明日をそれぞれに見ていく。
どんなに時が経っても、明日はやってくる。
死んでも生きている。これを知る人は智慧ある人で、正しく生きられる人である。
誰を師とすることも無く。
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達人

2011-07-15 | Weblog
他人と争わない。それは、害うということではないにしても、
競い合うことはしないことである。
競い合うことによって、悲しむ人と悦ぶ人が生まれて、
平等ではなくなってしまうためである。自分の悦は慢である。
その慢のために悲しむ人がでる。また、悦ぶ人がいれば自分は哀しむ羽目になる。
競い争うというのは、平等を嫌い差別を好む。それは、いけないことである。
道理は平等で差別は無い。誰彼なく一様に作用して別け隔てるものではない。
差別は人のすることで、一番を好み、唯一を重んじない。道理は皆唯一をつくるのだが、
人は、
唯一を一番と間違える。あぁ~人間なんてさもしいものだ。

あぁ~‘人間だもの’と慰めて、人間だからと哀しんで、そのため、
人間なんだからと誇らしむ。

吾に敵ありと思いて、その心と競合して道理に適う。
すれば、あらゆる対するものに優る者となる。
異彩を放つとはそいうことにある。後光が射してというように、
威厳となる。
輝いて生きるということは、自分との戦いのみである。
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人間だもの、・・・

2011-07-14 | Weblog
「必要は発明の母である」といわれる。
どうしても必要とあらば開発していくのが人間のもつ脳の良いところの性能である。
「不足に応じて」が新たなすばらしいものが出来上がっていくための転機なのである。
向上、進歩は、必要に応じての
あるべき与えられた機会となっているのである。
試行錯誤のより良い面を取り分けるべく時の流れが進化なのである。
不足なくして進化はしないのである。
そのものの持つ負なくして、より良いものへの転換は無く、
不足から求められるのである。
苦悩と挫折となっている負から得られる
前向きなるものなのである。
それが、人間だものという哀と、
それが、人間だからという愛である。
人間だもの、人間だから、という親しみである。
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競争とは

2011-07-12 | Weblog
他と競い争うことをせず、
敵は吾にありとして、よく心を治める。
常に競い合うのは自分とである。
他に敵は無く、邪魔をするのは自分である。
自分は二人いる。悪い面の自分に勝て。
競争というのは、勝負というのは、自分以外には無い。
他を視野に入れて争うことは負である。
達人となることは無い。
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悪の浄化の行為、愛

2011-07-10 | Weblog
男が女を思う。女も男を思う。
異性が惹かれあうのは道理である。
互いに求め合い重なり合って一つの完成体となり、
心も体も補われ正しい思いがつくられていく。
思いやりという優しい心である。愛しむという心は、
互いに憂い、信じ、無防備でいられることに命をかけているものである。
男女の愛というのは本能である。

朝、男は自然に性器が充血し勃起している。年老いてくれば、
目覚めたときには
おさまっていることが多くなるが、熟睡中には必ず勃起はしているのである。
これは女も同じである。
女性器も充血していて、潤っているものである。
老若男女同じ現象である。
恥ずかしいとか、淫らとか思うことではなく、本能としての機能である。
それは、互いを求め合うとする異性愛からくる。
性行為が人の絶対善の行為であるために、人は人としての行為として
互いを求め合う。眠っている間、人は必ず性行為をしている。
夢想の中で、互いを美男美女として求め合い、愛の行為をしているのである。
そのために、肉体が反応しているのである。
完全に眠っている間は、一切の記憶とならない為に、思い出すことが無いが、
毎日、人は性行為を夢想の中でしているのである。
それが愛の行為で、絶対善の行為、悪の浄化となっているためである。
エネルギーの法則、浄化の行為となっている為である。
人としての行為である。そのために、
人は人として結ばれて、種の保存となっている。他に縁となることが無い。
人は人としての縁であるために、他の生物に生まれ変わることも無い。
例えて、獣姦ということがある。もともと人でない行為に及んだとすれば、
その及んだ人は獣と縁を持つ為に、獣に生まれ変わることとなる。畜生の世界である。
人はその行為によって、善悪赴くところが異なっていくのである。それも、
もともとある世界ではなく、自ら創っていく世界なのである。
その主が心である。意によってである。心によって突き動かされていくのである。
そのために、正しく心がつくられていかなければ、赴く先は、自分が怖いと思っている世界が創られていくのである。
その心は、あの人生この人生と連綿と綴られた生命の軌跡から、統一された思いとなって魂となり、その判断となる。
今すぐ
こうしたい、あーしたいと思っても意のままにできずに、思惑と違った
判断とならざるを得ないのも、過去の生命の軌跡による心の統一されたもの、魂によるものである。

日々何気なく暮らしているのは、すべて、生命そのものの完成のためにある。
人生は浄化の行為である。
何度も何度も繰り返し、正しく積み重ねられた心は、よい魂となり、苦しみの輪廻を絶ち、
人としての行為をたちきれば、人としての縁が無くなり、生じてくることもなくなるものである。
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