つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

サイの角のように・・・

2015-07-18 | Weblog
十人好きな人がいれば、十人嫌いな人がいる。
様々にして好き嫌いは誰にでもあるように、
相性の合う合わないもあって当たり前である。
性分というのも、似たり寄ったりではあるが、まったく一致してあるということはない。
だから、ある程度妥協して好き嫌いを図るが、
端から性分の違いがあり、嫌いな人というのはいるものだ。
だからと言って、嫌いな人につらく当たるというのはいかがなもので、
誰にでも均等に接していることに人格の差がうかがえるものである。
「格が上の人」になって生きられたら望ましい。
そうすれば、馬鹿は自然と遠のいていく。嫌な人とは自然と離れられていく。
自分が嫌な心の持ち主であるなら、なかなかそう上手くはいかないものであることを知ることであるが・・。

「愛する人」というのは、愛する者が愛する者に為す行為ができている人である。
それができているか否か。
それができていれば、たとえ、「私は私を嫌いです」としていても、
自分を最も愛している人と言えるもので、
身口意に於いて善行を為す者こそ、
愛する者が愛する者に為す行為を自らに為しているという事になるために、「自分を最も愛している人」ということになる。
それとは反対に、
「私は自分を最も愛しい」としていても、その身に於いて悪いことを為し、その口に於いては陰口をたたき、悪口を言い、
その心に於いては、妬み、恨みを持ち、人を貶めることばかりで、善からぬことばかりを考えていたのであれば、
自分を最も傷つけている人、愛していない人ということになる。
悪い人が為す行為を自らに為していることになるからで、
そんなことを覚って、人というものの心のウソとホントが透けて見えてくる。
金持ちにある時と、貧乏にある時と、その差が愛情のあるなしにも現れ、
下心という下品な駆け引きまで見えてくる。嘘かまことかにある人の有無が知れてくる。

本物というのは、何に付け表裏が無く、本能に鋭く働きかける。
本物という筋の通ったも者になりたければ、自らの心を磨いていることである。
そうすれば、放たれている波長に反応し、誰に教わることもなく
見分けがついてくる。
心のこもったものの良し悪しが知れてくる。
格段の違い、格の優れている人になること。
威風堂々にしても親しみ深く、深遠且つ単純にして、魅力が具わる。



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