つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

今という光

2010-12-13 | Weblog
今の時を遠くはなれて、
まだ来ぬ時に住む人がいる。
それは、ただ単に遠く遠く距離を隔てているために、
時の差を生じて存在しているもので、
光を離れてその差は埋まる。そこに時の間という差はなく、
質の違いがあるだけである。わかりやすく、瞬時としてのつながりであるが、
時の隔たりではない。油と水のようなつながりである。
テレビチャンネルを変えると画像の世界が変わるように、油と水の界が今である。
未来と過去の堺が今で、‘今’に時の差はない。どちらの時の世界にも時間という距離は持たなく
往来できる。
牛乳がチーズにもヨーグルトにもなるように、思いを介して時を隔て、チーズがある、ヨーグルトがあるという。
どちらも嘘とならない世界である。その世界は思いによって現れる。思いに時はなく光を介さない。
まだ見ぬことを見て、見たことをさらに見て、まだ見ないことを見れる。
遠く遠く久しくあるところが、光によって、差が生じるために、‘まだ’と‘もう’が見られる。
コメント
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