つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

知ってるつもり、だから知らない、的はずれ・・・

2006-03-03 | Weblog
 今は情報がいっぱい行き交う時代で、
地球のどこで何が起こっているのか、ある程度知ることができる。
それも時間差があまりなく。
地球のどこかで、飢えて死んでいく子供たちがたくさんいる。
働きたくても、働くところが無くて、貧しい人がいれば、
まだ、働かなくてもいい子供が、働かなければ、生きていけなかったり、
人として、あまりに哀しい境遇の人たちがごまんといる。

片や、経済的に恵まれて、遊んでいても暮らしていける人がいる。
自分が特に頑張ったわけでもないのに、財産があり、物質的に何不自由なく、
生きている人もいる。
そしてその多くは、自分に特に必要もないものを、たくさん所有していて、
更に欲しがる。ほとんどは、眠った状態。
亦、ただかわいいからというだけで、ペットを飼い、溺愛し、
高級な食材を与える。普通の人の衣服より高い値の服を着せる。
どんなに優れていても、畜生である。人には、なり得ない畜生なのだが、
人のように扱う。
全身が毛で覆われているのは、自然に適応して、生きているためで、
適応した姿となっていて、その種には一番いい状態である。
なのにその気も知らないで、余計なもので覆う。
自然適応力を奪い、哀しい存在にしている。真の愛ではない。
ただ、その人の自己満足のため。

経済的に豊かな人は、当然情報もたくさん手に入る。
飢えて死んで行く子供たちがいることも、知らないはずは無い。
にもかかわらず、施すことをせず、的を得ないお金の使い方をする。
文化人の姿をしながら、鬼のような、はたまた畜生にも劣る心。
文化人面をして、やさしく見えるが、無知である。

愛は、哀れみを持つ心でもある。援助する心でもある。
この心が自分をもっとも幸せにすることができるもので、永遠の平安を得る。
けっして、お金では買えないものである。
お金で買える幸せは、無常で、刹那的で孤独がつきまとう。

キリストが隣人愛を説いたのは、愛する心(哀れみをもち、慈しみをもち、援助していく)が、永遠の心の平安を得られるためで、
幸せの国、天国が創られていくとしているためである。

愛は憂いを持つ。煩悩でもある。
愛という文字に惑わされず、真の愛に気をつけること・・・
コメント
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