唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (93) 三断分別門 (7)

2015-04-28 20:27:57 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
    

 四諦八正道について(東本願寺 『大乗の仏道』 より抜粋引用)
 「以上のごとく、釈尊の正覚の根本は縁起の理法であったが、その理法の意味するところを内観し覚知(自内証智)していくために説いた具体的な教えが四諦八正道として示されている。四諦とは苦・集・滅・道という師つの真理(諦)である。
 まず苦諦とは、人間の現存在が縁起であり、関係性においてのみおありうるにもかかわあず、そこに常・楽・我・浄の四顚倒(無常を常として執着することなど)を起こして、愛憎違順し苦悩している現実、すなわち、人間の現存在が苦として諦(まこと)であるということである。ちなみに、仏教において苦といわれるものは、四苦八苦で代表される、生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦(愛しいものとかれる苦)・怨憎会苦(憎いものにも会う苦)・求不得苦(求めて得られない苦)・五陰(五蘊)盛苦(心身にそなわっている苦)を加えた八苦である。また苦苦(それ自体が苦である飢えや病気など)、壊苦(楽が壊れて苦となること)、行苦(諸行無常であること)の三苦という分類もよく知られている。
 集諦とは、誤った執着によって苦が引き起こされてくるあり方、すなわち、執着によって苦が集起していることが諦であるということである。この集諦、すなわち、苦の原因といわれる誤った執着とは、まさしく先の演技摂の上であきらかにされたように、無明であり、渇愛である。これらは不可分の関係であり、輪廻流転の根本原因である。
 滅諦とは、縁起の理法によって人間の現存在が見直され、ありのままに知られるとき、誤った執着は止滅し、そこに苦悩の止めつが実現するということ、すなわち、苦悩の止滅したことで諦であるということである。したがって、滅諦とは解脱・涅槃のことである。
 道諦とは、その執着の止滅を証得するには、八正道を実践すべきであるということ、すなわち、歩むべき仏道が諦であるということである。
 その八正道は中道ともいわれる。中道とは、苦行主義と現世(快楽)主義との両極端(二辺)を離れることであり、それが解脱・涅槃への道であるとされている。この中道としての八正道とは、正見。正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 (1) 正見   正しい見解。正しい見方。縁起や四諦に関する正しい智慧。
 (2) 正思惟  正しい思惟。正しい思考。
 (3) 正語   正しいことば。悪口やうそなどをいわないこと。
 (4) 正業   正しい身体的な行為。殺生や盗みなどをしないこと。
 (5) 正命   規則正しい生活
 (6) 正精進  正しい努力。既得の善を増大させ、未得の善を得ること。既得の悪を減じ、未得の悪を起こさないこと。
 (7) 正念   正しい思いをつねに心にとどめて忘れないこと。
 (8) 正定   正しい禅定(禅定はインド一般の修行方法であって、心を静めて精神を集中することである。その時の認識はすぐれたものとされている)
 このように四諦八正道はまさしく実践の体系であるが、先ず第一に、解決されなければならない課題としての苦を如実に知り、そして第二に、その苦の原因が無明・渇愛であることを知り、これら二諦によって輪廻流転n迷いの生存の全体を正しく理解することである。その上で、第三に、その課題の目標としての苦の滅が輪廻流転からの解脱・涅槃であるkとを知り、第四には、その苦の滅にいたる道、つまり解脱・涅槃 に到達すべき道であう八正道を実践しなければならないのである。」(傍線は筆者)
 
 そこで、昨日の四諦の十六行相なのですが、一つ一つの諦固有の行相(四行相がある)をいっています。苦諦には苦諦固有の四つの行相があり、乃至道諦には道諦の四つの行相があるということです。昨日はそれを示しました。再録しますと、
  苦諦 ― 無常・苦・空・非我の四行相。
  集諦 ― 因・集・生・縁の四行相
  滅諦 ― 滅・静・妙・離の四行相
  道諦 ― 道・如・行・出の四行相
 ということになります。
 この中、苦諦を除く三諦のそれぞれの四行相は、他の諦とは共通しない固有の行相であるとされる。苦諦を除くというのは、苦諦の中の空・非我の総・別の理由が示されているからです。総じていうなら、大乗仏教の大前提は、空・無我ですから四諦に通じて云えることなのです。現存在(見分)は無我であり、その対象(相分)は空であるのです。しかし、空・非我はただ苦諦にのみに属するといわれていることは、十六行は総の行ではなく、別の空・非我に属(属著・摂属)するのであると云います。

 後半の部分は後日に譲ります。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (92) 三断分別門 (6)

2015-04-27 21:43:44 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
 馬倉地蔵尊。右後方の細い道が中高野街道で、環濠に架かる馬場先橋を渡り、馬場先・馬場口を抜けて瓜破につづく 
 妄想を膨らまして、法然浄土教を「花も実もある浄土教」と曽我先生は教えてくださいました。その背景には平安時代の来迎思想が有ったように思われますが、平安時代の浄土教、全般的には仏教は貴族の専有物であったようですので、その中から凡夫の仏教が生れることは無いように思うのです。しかし、そのような風潮の中に、弘法大師空海の真言密教はひたすら庶民という凡夫の救済を目指した教えであったように思えてなりません。高野山が開創され、高野につづく道が、畿内の人々の生活の場であったようです。高野聖・念仏聖が行きかい、遊行僧が念仏を唱え門付けをする中から必然として生まれてきたのが浄土宗としての法然浄土教であったのではないのかと思うのです。今もなお、街角に佇む地蔵堂は信仰の原点を示しているように思われます

 今日からは、第二、別迷についての講究です。
 別迷については、数の別と、行相の別があることは簡単に説明しました。本科段は詳しく説明されます。初めは、数の別について、薩迦耶見と辺執見の二煩悩はただ苦諦のみに迷い、他の八煩悩は四諦に迷うことを説明します。後半には「薩迦耶見と辺執見の二煩悩はただ苦諦のみに迷う」ことの理由を説明します。今は、初についてです。
 「別と云うは、謂く別に四諦の相に迷うて起こるなり、二つは唯だ苦のみに迷して、八つは通じて四に迷う。身辺二見は唯だ果処のみに起こる。別して空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
  数の別とは、つまり別に四諦の相に迷って煩悩が起こることである。二つ(薩迦耶見と辺執見の二煩悩)は、ただ苦諦のみに迷い、あとの八つは四諦ともに迷うのである。身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)の二見は、ただ果処(五取蘊)のみに対して起こるのである。何故ならば、別の空と非我とは苦諦にのみ属するからである。
 数の総 ― 苦諦に十煩悩が迷い、乃至道諦に十煩悩が迷うという、四諦の一つずつに十煩悩が迷うこと。
 数の別 ― 諦によって迷う煩悩の数が異なる。
 数の別は、十六行相を以て説明されます。四諦それぞれがもつ四つのありよう。
 苦諦 ― 無常・苦・空・非我の四行相。
 集諦 ― 因・集・生・縁の四行相
 滅諦 ― 滅・静・妙・離の四行相
 道諦 ― 道・如・行・出の四行相
 四諦の四行相については後ほど述べますが、『述記』によりますと、「集・滅・道の三諦に別の行相あり。不共無明(癡)の三諦に迷するものあり。故に八を成ずることを得。」身見と辺見の二見は苦諦にのみ迷い、残る八煩悩は四諦すべてに迷うということになると説明され、苦諦には十煩悩すべてが、迷い、後の三諦には身見と辺見を除いた八煩悩が迷ういうことになります。迷う煩悩の数に相違があるので、別迷を数の別というのである。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (91) 三断分別門 (5)

2015-04-25 22:13:29 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
 喜連環濠集落を巡って   道標と案内板

 別迷について
 総迷の場合は、すべて揃って迷うというありかたでしたが、別迷は別別である迷い方ということになります。ここも、数の別と、行相の別があることが明らかにされますが、後に詳細されます。一時保留にします。
 「総と云うは、謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て(数の総)」(『論』第六・二十一左)
   数の総とは、つまり十種の煩悩が倶に皆四諦に迷うことである。
 「苦と集とは是れ彼が因と依処となるが故に、滅と道とは是れ彼が怖畏(フイ)する処なるが故に(行相の総)。」(『論』第六・二十一左)
   十種の煩悩がすべて倶に四諦に迷うということは、苦諦と集諦とは分別起の十煩悩の因と依処となるからである。同じように、滅諦と道諦とは、分別起の十煩悩の怖れることであるから。二つに分けられて説明されます。科段が二つに区切られますね。
 (1)「苦と集とは是れ彼(分別起の十煩悩)が因と依処となるが故に」
 (2)「滅と道とは是れ彼(分別起の十煩悩)が怖畏(フイ)する処なるが故に
 (1)については、因とも依処ともなるという、煩悩が生起するのは、苦諦と集諦が因ともなり、依処ともなるという意味ですね。因が集諦になり、依処が苦諦になります。因は、十煩悩を増長させ、依処とは性がよく随順してこの十煩悩を生ずることを意味します。『対法論』の第七及び『瑜伽論』第八に説かれている所論と同じです。
種子のところで、種子は有漏の種子である。無始以来有漏の種子を熏習し縁を伴って現行してくるわけですが、その現行は有漏であって、この有漏の身が五取蘊であるということを云っています。そうしますと、有漏の五取蘊が(十)煩悩を
引き起こしてくる因となり、因がまた依処となるいう意味であろうと思います。この十煩悩が苦諦と集諦に迷ういうことなんですね。
 (2)については、滅諦と道諦は、分別起の十煩悩を怖畏(フイ=怖れ)するものと説明されます。理由は『述記』に述べられています。
 「滅・道はこれ彼が怖畏する処所とは、性は随順して十種を増長せず。ただ迷し撥し猶予する等の事を起こし、この二諦(滅・道)を縁じて十惑を起こすが故に。又外道はこの二諦をにおいて種々の分別を起こすが故に。みな滅道に迷すと云う。その煩悩の起ることは、みなこの二縁を具するなり。」(『述記』第六末・五十七右)
 つまり私たちは、有漏の五蘊を因として、有漏の五蘊を依処として迷いを起こしている。それはとりもなおさず、四諦の理に迷っていることに他ならないが、四諦の理の中で、滅諦・道鯛は迷いを怖畏するところであって、迷いの因や、依処となるものでなない。因と依処になるものは、苦諦に迷うのが依処であり、集諦に迷うのが因となるということなのですね。ここに、四諦の理に迷うという内容が明らかにされるのです。
 結論として、「行相の迷に総と別とあるが故に。(問)総とは謂く十種みな四諦に迷すとは(答)これ数の総なり。(問)因と依処等というは、(答)行相の総なり。(『述記』)
 次科段を起こしてくる前に『述記』は問答を置いています。明日考えます。
 
   

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (90) 三断分別門 (4)

2015-04-25 08:07:59 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
      中高野街道喜連環濠集落地蔵尊 (京街道から放出剣街道を経て、平野郷・喜連郷へ、喜連地区は東西南北に濠がめぐらされ六体の地蔵尊がお祀りされています。) 

  別解 (四諦に迷う分別起を説明する) 総迷と別迷にわけて説明される。
 「第二に諦に迷う総・別なり。然るに見道の諦に迷う煩悩に於て総有り、別有り。」(『述記』)
 「然も諦相に迷うに総有り別有り。」(『論』第六・二十一左)
 しかも、分別起の十の煩悩が諦相に迷う迷い方に総迷という迷い方と、別迷という迷い方がある。
 「総と云うは謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て、」(『論』第六・二十一左)
  総とは、つまり十種の煩悩が、十種ながら皆な(十種倶に)四諦に迷うことである。
 「即ち一々の煩悩がみな起こる時、四諦の理に迷するなり。又諸の煩悩には別の行相有り。」(『述記』)
 『述記』によりますと、総迷には、数の別と、行相の別があることが指摘されています。「今此の論の総に二種あり。一に数の総なり。・・・・・二に行相の別なり。」
 『論』には総・別ありとしか述べられていませんが、『述記』には総にも二種あることが明らかにされています。つまり分別起(見所断の煩悩)の十煩悩が四諦に迷う有り方に二種(数の総と、行相の総)あることを明らかにしたのです。総の概説は、一々の煩悩がすべて起こる時に四諦の理に迷うことが総迷なのです。その中で、すべて起こる時ですから、四諦の一々に十煩悩がすべて迷うのが数の総であり、諦ごとに各々十煩悩を具すことをいいます。次に行相の総とは細にわたって説明されていますが、十煩悩すべてに四諦に迷う功能があることであり、これは、一の諦下の別の行相であることをいい、四諦の中の複数の諦に十煩悩が等しく迷う行相をもっていることを、行相の総といっています。行相とは見分のことで、十煩悩が複数の諦に迷う働きをもっていることなのです。
 「二に行相の総なり。通じて四諦に迷するものあるが故に。此れに由ってニニに迷するに六有り。三々に迷するに四有り。総迷に一有り。」(『述記』)
 「ニニに迷するに六有り」とは、四諦の中の諦二つの諦の組み合わせに六通りあるということです。
  (1)苦諦・集諦 (2)集諦・滅諦 (3)滅諦・道諦 (4)道諦・苦諦 (5)苦諦・滅諦 (6)集諦・道諦 の六ケースがあるということになります。二つの諦に迷う有り方に六つのケースがあることですね。
 「三々に迷するに四有り」とは、四諦の中の三つの諦の組み合わせに四通りあるということです。
  (1)苦諦・集諦・滅諦 (2)集諦・滅諦・道諦 (3)滅諦・道諦・苦諦 (4)道諦・苦諦・集諦の四つのケースがあるということです。
 「総迷に一有り」とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つに対して総じて迷う有り方で、一つのケースしか無いのです。
 十煩悩が四諦に迷う有り方には、十一通りあるということになります。細部(三界)にわたるケースを考えますと、二二の場合は、欲界では6×十で60。色界・無色界では瞋は存在しませんから、6×9で54×2で108になり、二二に迷う有り方は、三界においては168通りあるということになります。三々に迷う場合ですが、4×10で40.4×9かける2で72+40で112通りあることになります。「総に迷う」が一ケースですので、欲界に十通り、色界・無色界に9通りかける2で18通り、18+10で28通りあるということになります。
 此れは何を表しているのかといいますと、因と依処の関係を指しているのですが、次科段で詳しく説明されることになります。「何を以て十種ながら、皆よく四諦に迷するや。苦集はこれ十の因と依処となるが故に。一にこれ因なり。二にこれ依処なり。・・・」(『述記』)
 う~んややこしいですね、頭が混乱をきたし、こんがらがってしまいますが、これほど根本煩悩の十が複雑に絡まり合って迷いを生起させているんですね。四諦の理に迷う在り方とはこのようなことだと教えられます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (89) 三断分別門 (3)

2015-04-23 21:22:11 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
 「春日野の藤は散りにて 何をかも御狩(みかり)の人の折りて挿頭(かざ)さむ」
  万葉集巻10-1974。


別して「断」を解す。
 ① 分別起の(煩悩の)断について説明する。
 ② 倶生起の(煩悩の)断について説明する。
 「下は別して断を解す。中に於て二有り。初に分別後に倶生なり。分別の中に初は総、後に別なり。此は初なり。此の中の十種皆倶に頓に断ず。真見道は総じて諦を縁ずるを以ての故に。・・・」(『述記』第六末・五十六左)
 「見所断の十をば、実に頓に断ず、真見道は総じて諦を縁ずるを以ての故に。」(『論』第六・二十一左)
  真見道 ― 見道において、正しく無分別智で以て真理を見る位をいう。
 見所断の十の煩悩は、実に頓(にわかに・突然に・急に・直ちに・瞬時に)に断じる。何故ならば、真見道では総じて四諦を縁じるからである。
 見道所断の枠は見惑といわれる分別起の煩悩ですが、この煩悩は見道で瞬時に断じられると云われているのです。何故ならば、真見道は総じて四諦の真如を縁ずるを以て、・・・」四諦の理を総じて縁ずるからである、と。四諦おり(真如)を縁ずることに於て、十の煩悩のすべてが一挙に断じられるということを説いているのです。
 文章そのものは堅いですが、言わんとすることは、私たちが迷っているのは、何に迷っているのか、そこがはっきりしないわけです。はっきりすれば方法もあるのでしょうが、暗中模索の状態では、深海に光を求めているようなことです。どこまでいっても見つけられません。大乗仏教は、はっきりと迷いは、四諦に迷っているんだと。分別起の煩悩は、すべてです。十の煩悩はすべて分別起なんですね、そうしますと、十の煩悩はすべて四諦に迷って起こってきている、ということになりますね。四諦の理が分からないことから起こってくる煩悩が分別起の煩悩なんです。
 真宗で考えて見ますと、真如は法ですから、本願念仏の法に迷っていることなのです。本願念仏の法が分からない所から迷いが生じていることなのですね。教えに迷っているのではなく、法に迷っているんです。法に迷っていることを聞いていく。教法といわれる所以です。本願念仏の法を聞いていくのが教えになりますね。
 生存の根拠が法なんです。私をして私を成り立たしめているものが法ですね。そこがはっきりしていないものですから、迷うのです。むやみやたらに迷っているのではないのですね。ちゃんとした理由があって迷っているんですね。本科段の裏をかえして伺ってみますとこういうことになろうかと思います。唯識は大上段から説いています。次科段からは細に入り説明してきます。
 余談ですが、初能変で、四分義を学びました。迷いの構造がはっきりすれば、阿頼耶識の自証分と証自性分の所量であり、能量であり、量果であるところの領域からのメッセージが第六意識の上に届いていることになります。このメッセージを受け取って、第三能変の諸門分別が展開しているわけです。
 もう一つ深いところからですと、阿頼耶識からのメッセージを受け取っているのか、どうかです。他人事ではないのですね。阿頼耶識ですから、自の内にあるものです。阿頼耶識と第六意識との対話が必要なんですね。阿頼耶識が阿頼耶識に留まることなく展開して働いているのが、とりもなおさず私のいのちなんです。いのちが識体、阿頼耶識でしょう。いのちが身と環境を現出し、身と環境を認識しているのが阿頼耶識の直接の働きなんです。深いこころの領域では、意識では捉えることのできない様々な動きがあって私を支えているんですね。こういうところを聞いていかなければならないでしょうね。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (88) 三断分別門 (2)

2015-04-21 22:06:21 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
福島区のだふじ祭り!さんの投稿よりシエアしました。海西ひばり保育園分園、満開  

 今日は、「倶生は唯だ修断なり」を学びます。十煩悩を分けますと、五鈍使と五利使という分け方もあることを先に学びました。今、諸門分別という、いろんな角度からこの十の根本煩悩を分析をしています。少し前に戻りますと『論』の記述ですが、
 「是の如き総と別との十の煩悩に中に、六(貪・瞋・癡・慢・薩迦耶見・辺執見)は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察(シサツ)するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見(邪見・見取見・戒禁取見)とは唯分別起のみなり。要ず悪友(アクウ)と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方(マサ)に生ずることを得るが故に。」
 この一段に結論が出されています。倶生は「身與倶」(ミトクナリ)、身をいただくと同時にということですが、これはお母さんの胎内にいのちが宿った時に、倶生起の煩悩も倶(トモ)にということなのです。この倶生起の煩悩は、細にして審らかにして深いんですね。ですから修断と云われています。倶生起の煩悩は姿をなかなか現さないのです。それに対して、分別起の煩悩はいつも顔をだしている。非常にわかりやすいものですから見断と云われているんでしょうね。倶生起の煩悩は衆縁を待つんです。種子の六義で学びました。待衆縁です。種子生現行が現行するには縁を伴って現れてくる。同じ縁を待って現れてくる分別起の煩悩とはその荒々しさが違うんです。水面下の波、表面に現れている波との違い、或は、打ち寄せる波と、後続の波との違いでしょうか。分別起の煩悩は背後には、必ず倶生起の煩悩が動いているということになります。倶生起は任運である。分別起は、要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずる。倶生起の煩悩が動いているといいましたが、具体的に何が動いているのかと云いますと、「諸煩悩生必由癡故」(諸々の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に)。「癡」)(無明)が動いている。いついかなる時にも、煩悩が起こる時には癡と倶である。無明です。無明は無があきらかでない、ということですから、二空(我空・法空)が見えないことが闇と表現されているのです。「無明の闇」です。この無明の闇を破ってくる働きが「法」ですね。本願念仏の法です。ですから、本願念仏の法は、無明の闇の真っただ中に働いているのですね、この道理を聞くのが聞法です。法を聞くわけです。それが教えとして開かれてきたのが「宗」ですね。
 思察はの思は思惟、察は観察(カンザツ)、思惟し観察することになります。倶生起の煩悩は任運にも、思察する時にも倶に生ずるからである、と。総・別についてはこの先の四諦に迷うの談で説明されます。
 整理をしますと、十の煩悩の中で、
 疑と邪見・見取見・戒禁取見は分別起のものしかありませんから見道所断である。
 貪・瞋・癡・慢・薩迦耶見・辺執見は分別起と倶生起に通じているために、見道では断じることは出来ず、修道所断であるということになります。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (87) 三断分別門 (1)

2015-04-19 09:21:14 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
   親鸞聖人熊皮の御影
 昨日難波別院の日曜講座を聴聞しようと思っていたのですが、あいにくの雨でしたので、復次にしようとあきらめました。しかし昼前から晴れだしまして、散歩にでかけたんです。勝手なもんですね。横堤から野田までチャリでふじの花をみにいきました。    下福島公園
 それでね、帰り道天満別院によったんです。いろんなパンフレットがおいてありました。その中に暁天講座の講録を手に取りまして読まさせていただきました。そうしましたら、いきなり頭から冷水をかぶせられた衝撃が走りました。『願に生きる人』という講題なのですが、自分の身勝手さを否応なく知らされました。蓮如さんの歌初めて知りました。「火の中を、分けても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」。身勝手さといいますが、どうにかできるのでしょうか。どうにもできないのではないですか。身勝手さでしかか生きながらえることは出来ないですね。そこに慚愧をいただく。そうしますと、蓮如さんの歌が身に染みてまいりました。もう一つ教えられました。いかに思い込みがはげしいか、です。確信犯ですね、見たものは正しいという見方です。いやぁ肝に命じておかなければいけませんね。  

 「此の十煩悩は何(イズレ)の所断ぞや」(『論』第六・二十一左)
 「述して曰く、此は問いなり。第九に三断門」(『述記』第六末・五十六右)
 問いから始まります。 第九・三断分別門
 三断とは、見所断と修所断と非所断をいいます。この十の煩悩は、そのいずれの所断なのかを問うています。
 見所断 ― 見道所断のこと。見道で断じられる煩悩を見惑といいますが、この見惑(分別起の煩悩)が断じられる法が見道所断といいます。
 修所断 ― 修道所断のこと。修道で断じられる煩悩を修惑といいますが、この修惑(倶生起の煩悩)が断じられる法が修道所断といいます。
 非所断 ― 見道でも、修道でも断じられるものではない法をいい、具体的には無漏法を指します。煩悩は有漏法ですから、非所断のものはありません。「述して曰く、此は即ち総答なり。諸染は皆断なり。然るに見・修に通ずるが故に、非所断に非ず。非所断の法は是れ染に非ざるが故に。」(『述記』第六末・五十六右)
 本科段の三断門は煩悩の心所に限らず、後に述べます随煩悩の心所でも考究されてきます。また善の心所に於いても、離縛断(縁縛断)という断が考究されていました。有漏の善の有漏を断つことに於いて、善の心所を善たらしめることができるという方面から考究されています。
 見・修所断は、それぞれ、分別起の煩悩や倶生起の煩悩を断ずることに於いて、煩悩・随煩悩そのものを断ずるという方面から考究されています。
 「非所断には非ず。彼こには染に非ざるが故に。」(『論』第六・二十一左)
 「分別起のは唯だ見所断のみなり。麤にして断じ易きが故に。若し倶生のは唯だ修所断のみなり。細にして断じ難きが故に。」(『論』第六・二十一左) 
 まず、分別起の煩悩は唯だ見所断であることが説かれます。分別起の煩悩といいますが、十の煩悩すべてが分別起なんです。即ち後天的に身についてくる煩悩ですね。「分別起の煩悩は悪友と邪教と邪思惟に由る」と云われていますように、後天的に身についた煩悩は断じ易いと説かれていますから、見道所断なんですね。ただね、正見を身に付けるということが大事です。正見によって分別起の煩悩は破られてきます。若し、破られてこなかったら私たちは間違ったことを正当化して生きざるを得ないのです。ここに一つも問題が生じてきます。躾とか教育のことです。赤ちゃんを育てていく中で、煩悩を押しつけていることに成ります。私たちは後輩に対しても、自分の意見を押しつけています。「こんな時はこのようにしたらいい」というようなことを平然と言っています。そういう意味では、煩悩を見つめる眼差しを持つ必要がありますね。私がしている躾や教育は本当に正しいのか(?)です。非常に怖いことですよ。知らず知らずの中に煩悩を蒔き散らかしているんですからね。だから、仏法を聞かなければならんのです。
 次に倶生起は修所断である理由が説かれます。 明日にします。