高山勝成、プロで現役復帰を表明、とのこと。
驚きのないニュースでした。ていうか、いつ頃になるのかな、と思っていました。
東京五輪に挑む様子を追ったドキュメンタリー「彷徨う拳」の最新放送ぶんの最後を見ていれば、誰でも同じ事を思ったことでしょう。
中出トレーナーとの会話は、どう聞いても、再起への意欲をほのめかした(宣言、とは言いませんが)ものでした。
プロからアマへ、そして甘辛、じゃなくてアマからプロへ。
かつてはJBC未公認時代にIBF王座に挑んだりと、高山勝成のキャリアは、日本ボクシング界の枠にとらわれず、色々とある境界線を乗り越える、その繰り返しだったと言えます。
そういう意味においても、今回の復帰表明に驚きはないというか。ああ、高山勝成の仕業やな、という(笑)。
もちろん、彼をボクサーとしてどう評するかはそれぞれだと思います。
しかし、ボクサーに限らず、人にはそれぞれ追い求めるものがある。追い求める権利がある。
そのために闘う場を求めること自体は、誰にもどうこういわれるべきことではない。
高山勝成の追い求めるものが、プロのリングにまだあるというのなら、その場に赴き、闘えばいい。それだけのことです。
ただ、長年に渡り、そのような高山勝成の闘う様を見続けてきた目にも、プロの現役最後の方の試合ぶりは、プロボクサー高山の存在意義に疑問を抱かせるものでした。
単に衰えがどう、歴戦の疲弊がどう、戦力がどうという以前に、ああも簡単に切れる古傷を抱えたまま、試合のリングに上がることは、適切な判断と言えるのか。
それこそ、対戦相手が、序盤のうちは打つことを躊躇しているのではないか、と見えるほどでした。
もし、あの傷がきちんと治癒しておらず、同じような事態が繰り返されるのであれば、高山勝成には、プロボクサーとしてリングに上がる資格はない、と思います。
見ている者に、真っ当な形で成立する試合を見せられない者は、ボクサーとしてリングに上がるべきではありません。
そのあたり、率直に懸念するところですので、敢えて書かせていただきました。
基本的には、彼が闘い続け(られ)るのなら、やはりそれを見ないでは済まない、という気持ちではあるのですが。