ということで辰吉丈一郎の思い出、8回目になりました。
これからもとりとめもなく、辰吉について思い出し、何かを書くかもしれませんが、とりあえず今回で一区切り、ということで。
1991年当時、9月19日の試合がどうなるかが、人生最大の関心事だった(笑)私は、指折り数えて試合の日を待っていました。
この頃、大阪でホテルマンをやっている知り合いがいて、彼の務めるホテルに、何とグレグ・リチャードソン御一行様が宿泊していました。
電話で話したときに、たまたまそれを知り「どんな様子?」などと訊いてみたのですが、ボクシングになどさっぱり興味のない先方は
「昨日、ロビーで見かけた。細かった。」
という、中身も何も無い答えしか、返してくれませんでした。
ただ、その後、それではあんまりな、と思ったものか、この知り合いが知らせてくれたところによれば、取材に訪れた報道陣の大半が、公開練習などで見せたリチャードソンの技巧に感心しきりで「相当(辰吉とは)差がある」「ちょっと敵わないだろう」という意見だった、ということでした。
これらの声が多数派であったとて、普段、専門的にボクシングを取材している人たち(頭数で言えば少数派?)の意見はまた別だろう、と思いはしたものの、前月のマガジンに載っていたインタビュー記事における、王者リチャードソンの言が、改めて心中に甦ってきました。
王者は、その膨大なキャリアと、それに見合わぬ不遇を経て掴んだ王座を、その技巧によって守ることで、自らの誇りを満たさんとするだろう。
対して、数少ない試合数の中で、試行錯誤のさなかにあると見える若き挑戦者は、どのように闘うのだろう。闘いうるのだろう。
そんなことを思いつつ、試合の日が来ました。
初回、ゴングと同時に、辰吉の足取りが軽く見えました。
私が勝手に分類する「118のタツヨシ」だ、と思った瞬間、辰吉が左のジャブをバッ、バッと続けて放ちました。
その瞬間、辰吉が勝てるかどうか、を心配していた気持ちが、霧散霧消したのを覚えています。
この試合、辰吉が勝つ。
いや、単に勝つだけではない。
今から自分は、新しい時代の幕開けを目撃するんだ。
そう思ったのでした。
高いヒット率を誇る軽打と、速い足を持つ技巧の王者は、まさっていなければならないリードジャブで先制され、後退の足捌きに出るが、辰吉は前にのめる寸前の、ぎりぎりのバランスを保ちながら、速い左を軸に追う。
時折、右を強振し、ミスもするが、どうやらそれは織り込み済みらしく、緩まず倦まず、速いパンチを狙い続ける。
しかも、攻め続けながらも、攻めの足捌きというか「追い足」という言葉通り、しっかり足がついていって、前にのめらない。
前に出ていながら、バランスを乱さない上に、それでもリチャードソンがクリンチに出ようとすると、その直前、ひと息前のタイミングでボディブローが出る。
当時、見ていて思ったのは「これ、リチャードソンはもっとクリンチしたいはずなのに、普段の試合より、そのチャンスが少ない」ということでした。
一見、ベテラン対新鋭、老巧対果敢、という構図がリング上に描かれているように見え、TVの実況解説、ゲストの元野球選手も、その「絵」に沿った精神論...というにも及ばない「お話」を盛り付けていく。
しかし、実際に闘われているのは、戦前の評通り、一級品の技巧を持つ歴戦のボクサータイプが、戦前の評を遙かに上回る「備え」を持つファイタータイプにより「攻略」される、驚異的にハイレベルな試合でした。
リチャードソンは、辰吉が力んで振ってくるのでなく、速くて伸びるジャブを中心に攻めてくるので、自分の好きに足が使えず、追われて忙しなく、休めない展開。
年齢どうとかは関係なく、アウトボクサーにとり、一番嫌な、難儀な相手との闘いを強いられました。
それでも中盤、踏ん張って、彼にしては強打、強振といえる、アッパーカットを織り込んだコンビネーションで辰吉を打ち据える場面も作りましたが、このような「攻勢」に出ねばならなかったこと自体、この試合の展開が、彼の手を離れてしまっている証左でした。
8回、1分半くらいでしたか。リチャードソンが僅かにバランスを乱したところに決めた、辰吉の右ショートアッパー。
一見、地味に見えたかもしれませんが、後に故・佐瀬稔氏が「まさしく、天才の一打」と評したパンチで、リチャードソンの防御は「切り開かれ」てしまい、辰吉はここぞとばかり、持ち前の多彩なコンビネーションパンチで攻め込みます。
8回終盤、そして10回終盤の猛攻。
そのキャリアの中で、けっこういろいろと「やらかし」ていることでも知られるベテランレフェリー、トニー・ペレスが場内の大歓声に遮られ、ゴングの音を聞き取れず、その結果、数秒間余計に打たれるという不運にも見舞われた王者は、11回の前に棄権しました。
試合後、リチャードソン陣営が、辰吉の「アマチュア19戦、プロ8戦」のキャリアを「信じられない」と語ったとおり、この日のリングで辰吉が繰り広げたボクシングは、それまでに見た、色々な試合...それこそ中量級スターウォーズの4人や、タイソンのような海外の大スターの試合を含めて見ても、それに劣らぬ水準にあり、とてもではないが、こんな浅いキャリアのボクサーが成しえるものではなかった、と思います。
しかし辰吉丈一郎はそれを実現し、プロアマ合わせて300戦を優に超えるキャリアを持つ技巧派王者に対し、あらゆる面から見て100点満点に近い勝ち方で、その王座を奪いました。
その過程において、今にして思えば、心身共に相当な無理や無茶をしていたのだろう、とも思います。
少ない試合数で、対戦相手のレベルだけはあっという間に上がる。
その試合のたび、キャンプも含めたハード・トレーニングを繰り返す。
若い肉体は鍛錬の度に強くなっていくが、経験は試合の数だけしか積めない。
技術面でも、ある部分は突出して高度だが、当然あれこれ欠けた部分、手が回っていない部分もある。
トーレスもリチャードソンも、その欠落を突くだけの力は持っていた。
しかし、トーレス戦での苦闘を経て、辰吉はこと、ボクサータイプの攻略に関して、それこそ古今東西通じても、これほど見事なものは希ではないか、と思うようなボクシングを、この早急に組まれた大一番で、やってみせました。
それは、本人が嫌う表現なのかもしれませんが、やはり「天才」故の仕業、なのでしょう。
逆に、これは後年、本人が好んだ表現ですが、それ故に、これほど見事な「作品」がひとつ、出来上がったのだ、と。
そして、それは後の目から見れば「砂上の楼閣」そのものだったのかもしれません。
その後の辰吉丈一郎が歩んだキャリアは、残念ながら、それを証してしまっている。
そう言われれば、私は返す言葉を持ちません。
しかし、そう切り捨ててしまうには、あの試合の衝撃は、感動は大きく、辰吉丈一郎の放った輝きは、あまりにも眩いものでした。
今も様々に、辰吉丈一郎の闘いぶりを通じて、今の、未来のボクシングを思い、考える自分がいます。
この試合からもう29年が経ちますが、いまだに記憶の中に、細々とした試合展開が焼き付いています。
試合を録画したVHSテープは、DVDディスクに変わり、今はHDDへと引っ越していますが、改めて映像を見返すまでもない...と格好良く言い切る自信もないので(笑)一度見直してみたんですが、記憶と違っていた部分は皆無でした。
我ながら...ちょっと怖いような、しかし自分自身に呆れるような気持ちになりました。
これも、辰吉丈一郎の偉大故、というまとめ方は、無理でしょうか。そうでもないなあ、と思う気持ちでもありますが...。