さうぽんの拳闘見物日記

ボクシング生観戦、テレビ観戦、ビデオ鑑賞
その他つれづれなる(そんなたいそうなもんかえ)
拳闘見聞の日々。

「砂上の楼閣」と切り捨てられぬ、眩い輝き 辰吉、驚異の王座奪取

2020-07-07 11:25:39 | 辰吉丈一郎



ということで辰吉丈一郎の思い出、8回目になりました。
これからもとりとめもなく、辰吉について思い出し、何かを書くかもしれませんが、とりあえず今回で一区切り、ということで。



1991年当時、9月19日の試合がどうなるかが、人生最大の関心事だった(笑)私は、指折り数えて試合の日を待っていました。
この頃、大阪でホテルマンをやっている知り合いがいて、彼の務めるホテルに、何とグレグ・リチャードソン御一行様が宿泊していました。

電話で話したときに、たまたまそれを知り「どんな様子?」などと訊いてみたのですが、ボクシングになどさっぱり興味のない先方は

「昨日、ロビーで見かけた。細かった。」

という、中身も何も無い答えしか、返してくれませんでした。


ただ、その後、それではあんまりな、と思ったものか、この知り合いが知らせてくれたところによれば、取材に訪れた報道陣の大半が、公開練習などで見せたリチャードソンの技巧に感心しきりで「相当(辰吉とは)差がある」「ちょっと敵わないだろう」という意見だった、ということでした。

これらの声が多数派であったとて、普段、専門的にボクシングを取材している人たち(頭数で言えば少数派?)の意見はまた別だろう、と思いはしたものの、前月のマガジンに載っていたインタビュー記事における、王者リチャードソンの言が、改めて心中に甦ってきました。

王者は、その膨大なキャリアと、それに見合わぬ不遇を経て掴んだ王座を、その技巧によって守ることで、自らの誇りを満たさんとするだろう。
対して、数少ない試合数の中で、試行錯誤のさなかにあると見える若き挑戦者は、どのように闘うのだろう。闘いうるのだろう。
そんなことを思いつつ、試合の日が来ました。



初回、ゴングと同時に、辰吉の足取りが軽く見えました。
私が勝手に分類する「118のタツヨシ」だ、と思った瞬間、辰吉が左のジャブをバッ、バッと続けて放ちました。

その瞬間、辰吉が勝てるかどうか、を心配していた気持ちが、霧散霧消したのを覚えています。

この試合、辰吉が勝つ。
いや、単に勝つだけではない。
今から自分は、新しい時代の幕開けを目撃するんだ。

そう思ったのでした。



高いヒット率を誇る軽打と、速い足を持つ技巧の王者は、まさっていなければならないリードジャブで先制され、後退の足捌きに出るが、辰吉は前にのめる寸前の、ぎりぎりのバランスを保ちながら、速い左を軸に追う。
時折、右を強振し、ミスもするが、どうやらそれは織り込み済みらしく、緩まず倦まず、速いパンチを狙い続ける。

しかも、攻め続けながらも、攻めの足捌きというか「追い足」という言葉通り、しっかり足がついていって、前にのめらない。
前に出ていながら、バランスを乱さない上に、それでもリチャードソンがクリンチに出ようとすると、その直前、ひと息前のタイミングでボディブローが出る。
当時、見ていて思ったのは「これ、リチャードソンはもっとクリンチしたいはずなのに、普段の試合より、そのチャンスが少ない」ということでした。


一見、ベテラン対新鋭、老巧対果敢、という構図がリング上に描かれているように見え、TVの実況解説、ゲストの元野球選手も、その「絵」に沿った精神論...というにも及ばない「お話」を盛り付けていく。
しかし、実際に闘われているのは、戦前の評通り、一級品の技巧を持つ歴戦のボクサータイプが、戦前の評を遙かに上回る「備え」を持つファイタータイプにより「攻略」される、驚異的にハイレベルな試合でした。


リチャードソンは、辰吉が力んで振ってくるのでなく、速くて伸びるジャブを中心に攻めてくるので、自分の好きに足が使えず、追われて忙しなく、休めない展開。
年齢どうとかは関係なく、アウトボクサーにとり、一番嫌な、難儀な相手との闘いを強いられました。

それでも中盤、踏ん張って、彼にしては強打、強振といえる、アッパーカットを織り込んだコンビネーションで辰吉を打ち据える場面も作りましたが、このような「攻勢」に出ねばならなかったこと自体、この試合の展開が、彼の手を離れてしまっている証左でした。


8回、1分半くらいでしたか。リチャードソンが僅かにバランスを乱したところに決めた、辰吉の右ショートアッパー。
一見、地味に見えたかもしれませんが、後に故・佐瀬稔氏が「まさしく、天才の一打」と評したパンチで、リチャードソンの防御は「切り開かれ」てしまい、辰吉はここぞとばかり、持ち前の多彩なコンビネーションパンチで攻め込みます。

8回終盤、そして10回終盤の猛攻。
そのキャリアの中で、けっこういろいろと「やらかし」ていることでも知られるベテランレフェリー、トニー・ペレスが場内の大歓声に遮られ、ゴングの音を聞き取れず、その結果、数秒間余計に打たれるという不運にも見舞われた王者は、11回の前に棄権しました。



試合後、リチャードソン陣営が、辰吉の「アマチュア19戦、プロ8戦」のキャリアを「信じられない」と語ったとおり、この日のリングで辰吉が繰り広げたボクシングは、それまでに見た、色々な試合...それこそ中量級スターウォーズの4人や、タイソンのような海外の大スターの試合を含めて見ても、それに劣らぬ水準にあり、とてもではないが、こんな浅いキャリアのボクサーが成しえるものではなかった、と思います。

しかし辰吉丈一郎はそれを実現し、プロアマ合わせて300戦を優に超えるキャリアを持つ技巧派王者に対し、あらゆる面から見て100点満点に近い勝ち方で、その王座を奪いました。
その過程において、今にして思えば、心身共に相当な無理や無茶をしていたのだろう、とも思います。

少ない試合数で、対戦相手のレベルだけはあっという間に上がる。
その試合のたび、キャンプも含めたハード・トレーニングを繰り返す。
若い肉体は鍛錬の度に強くなっていくが、経験は試合の数だけしか積めない。
技術面でも、ある部分は突出して高度だが、当然あれこれ欠けた部分、手が回っていない部分もある。

トーレスもリチャードソンも、その欠落を突くだけの力は持っていた。
しかし、トーレス戦での苦闘を経て、辰吉はこと、ボクサータイプの攻略に関して、それこそ古今東西通じても、これほど見事なものは希ではないか、と思うようなボクシングを、この早急に組まれた大一番で、やってみせました。

それは、本人が嫌う表現なのかもしれませんが、やはり「天才」故の仕業、なのでしょう。
逆に、これは後年、本人が好んだ表現ですが、それ故に、これほど見事な「作品」がひとつ、出来上がったのだ、と。


そして、それは後の目から見れば「砂上の楼閣」そのものだったのかもしれません。
その後の辰吉丈一郎が歩んだキャリアは、残念ながら、それを証してしまっている。
そう言われれば、私は返す言葉を持ちません。

しかし、そう切り捨ててしまうには、あの試合の衝撃は、感動は大きく、辰吉丈一郎の放った輝きは、あまりにも眩いものでした。
今も様々に、辰吉丈一郎の闘いぶりを通じて、今の、未来のボクシングを思い、考える自分がいます。





この試合からもう29年が経ちますが、いまだに記憶の中に、細々とした試合展開が焼き付いています。
試合を録画したVHSテープは、DVDディスクに変わり、今はHDDへと引っ越していますが、改めて映像を見返すまでもない...と格好良く言い切る自信もないので(笑)一度見直してみたんですが、記憶と違っていた部分は皆無でした。

我ながら...ちょっと怖いような、しかし自分自身に呆れるような気持ちになりました。
これも、辰吉丈一郎の偉大故、というまとめ方は、無理でしょうか。そうでもないなあ、と思う気持ちでもありますが...。



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痩身の王者は憤っていた 辰吉、8戦目で世界挑戦決定

2020-06-30 08:25:21 | 辰吉丈一郎




ということで、とりとめもなく辰吉丈一郎の思い出、7回目。


辰吉丈一郎の世界挑戦は、誰がそうせないかんと決めたんや、という一般ピープルの疑問をよそに、当初予定?の7戦目からひとつだけ猶予が加わった末、8戦目で決まりました。
期日は9月19日、守口市民体育館。
辰吉が苦闘の末引き分けたトーレス戦から一週間後、91年の2月25日、難攻不落と目されていたメキシコの長身ラウル・ヒバロ・ペレスをスピードと手数で圧倒し、王座を奪取した痩身の技巧派、グレグ・リチャードソンへの挑戦です。

アマチュア歴270戦260勝15敗。レナードやスピンクス兄弟と近い世代で、USAゴールデングローブと、AAU選手権を制覇した、アメリカ軽量級屈指の名選手。
プロ転向後、日本の専門誌でも、選手紹介ページに早くから紹介されていた選手です。

初防衛のビクトル・ラバナレス戦も接戦、辛勝と伝えられましたが、映像見ると確かに苦しいところもあったものの、細身の代わりに、異様に足が速く、手数が出て、ヒット率も高い。
確かに悲しいくらいパンチ力に欠ける...ように見えるが、打ち込み体勢を取らないだけで、いざ鎌倉、と抜刀したときどうなのか、知れようはずもなし。

ここまでのキャリアで、スピード勝ち出来る相手には快勝するが、そうでない場合、苦しいところも見える辰吉にとり、相性的に、あまり良い的だとは思えませんでした。
しかし、強豪揃いのバンタム級歴代王者の中では、これでもまだ、与し易い部類ではある。それも事実だったのでしょう。


陣営はパショネス戦の前と違い「バンタム、ジュニアフェザーの両方で交渉」している、と報じられたとおり、どうでも世界戦を組まないかん、という前提で動いていたようです。
このときの王者は、WBAバンタム級がルイシト・エスピノサ、ジュニアフェザーは攻防兼備の強打ルイス・メンドーサ。
WBCバンタムがリチャードソン、ジュニアフェザーはというと、6月に畑中清詞を番狂わせで破ったダニエル・サラゴサでした。

ルイシト、メンドーサ共に圧倒的に強く、選択肢としてはWBC方面だったのでしょう。
もしここで、畑中に勝ったとはいえ、抜群に冴えた試合をしたわけでもないサラゴサと組んでいたら...若き122ポンドの辰吉丈一郎は、ひょっとしたら「老巧」の境地を極めきる前のサラゴサを圧倒していたのかもしれません。
しかしサラゴサには、他に闘わねばならぬ試合があり(畑中との再戦交渉もあったか)また畑中戦での負傷もあって、この年9月の再来日は不可能だったのでしょう。


そういうわけで、グレグ・リチャードソンの来日が決まりました。
スピードと手数、フットワークで辰吉の攻撃力を無力化せんとする技巧派に、辰吉はどういうスタイルで対するのだろうか、と思いつつ、辰吉世界挑戦決定を報じる専門誌を読んでいたら、恒例の王者来日前インタビューに、リチャードソンが取り上げられていました。



「(辰吉戦を決めたのは)私ではなくプロモーター」
「もう一試合だけ、私の試合の権利を持っているナチョ・フィサーの希望通りに闘うことにしました」
「ただひとつだけ納得出来ないのは、アメリカには長い間、いくら頑張ってもタイトルに挑戦出来ずにいるファイターが沢山いるのに、日本のファイターはボクシングの経験が少なくても簡単にタイトル挑戦の機会が得られるということです」
「私は長い間、沢山の授業料を支払ってボクシングを学び、今ようやく栄冠を手にしました」
「願わくば、私と闘う辰吉が少なくとも20戦くらいは経験しているファイターであってくれたら、私の気持ちも、もっと満たされたものになるでしょう」
「もし辰吉がアメリカにいれば、6戦くらいの経験ではとても...タイトルに近づくことさえ不可能でしょう」


インタビュー全般から受けた印象は、大言壮語も悪口雑言もない、実直な人柄の持ち主だ、ということでした。
試合の展望を聞かれ「ファイターには色々なタイプがあるけれど、私は喋るのが苦手です」「リングの上ではベストを尽くして闘い、より力のある者が勝ち残れると思っています」とだけ、答えています。

しかし、そういう人柄のボクサーであるからこそ、自身と比べ、あまりに短く、乏しいキャリアでタイトル挑戦の機会を得た日本人と闘うにあたり、隠しきれない思いを語らずにはいられなかった。
勝手に「若き挑戦者に、飄々と対する王者」の構図を思い描いていた私は、言わずには居れぬ、という風情で語られる王者の「憤り」に触れて驚き、動揺させられました。

試合の日、リングの上でぶつかり合う、ふたつの思い。勝利によって、その思いを遂げられるのはどちらなのだろう。
そして、優勝劣敗の掟は、いつも残酷に、その行く手をふたつに分かつ。
思いの深さを、切なさを、重さを一切、斟酌することなく...。


この一戦に賭けられたものの重さは、自分が辰吉丈一郎に託す、壮大な夢と、それ故の危惧だけではなかった。
当然ながら、反対側のコーナーに立つ者にも、等しく、いや、それ以上の思いがある。
それに気づかされた、とても印象的なインタビュー記事でした。



そして、この記事の中には、もうひとつ見逃せない、重大な記述がありました。
リチャードソンが、辰吉の映像は見たか、と問われたときの答えです。
「ビデオテープで2試合見た。チューチャード戦、トーレス戦」というのが、その答えでした。

この「選択」が何を意味するかは、おわかりいただけるかと思います。
今風に言えば「情報戦」とでもなるのでしょうか。
辰吉側は、敢えて、岡部繁戦やパショネス戦を見せることはしていない。今なら通じない手法ではあるのでしょうが。

闘いは、ゴングが鳴る前から、すでに始まっているのだ。そう思った記憶があります。





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様々な思惑見えた7戦目 終わってみれば「非凡」の一語

2020-06-21 09:35:27 | 辰吉丈一郎


ということで辰吉丈一郎の思い出シリーズ、6回目です。


アブラハム・トーレス戦の引き分けを受けて、辰吉の世界挑戦計画は修正を余儀なくされました。
対戦相手に選ばれたのは、当時WBAジュニア・バンタム級2位の比国人、レイ・パショネスでした。

トーレス戦の引き分けが評価された、と書くのも微妙な感じですが、辰吉はバンタム級でWBA11位、WBC16位にランクされていました。
世界挑戦が決まれば、言ってしまえばどうとでもなる位置までは来ているが、やはり試合内容からくる評価、及び本人の心身への影響も考え、もう一試合「挟む」選択がなされたのでしょう。

そういう試合の相手としては、トーレス級の強敵は避けたい。でもランキングは高い方が良い。
そんな都合のええ話ありまっかいな、と普通なら思うところですが、こういう難問を見事に解く能力に関しては、日本のボクシング関係者は、辰吉以上に天才的です。


レイ・パショネスはこの試合の時点で37戦、31勝(9KO)2敗3分。
対戦相手の中には、ローランド・パスクワ(後のWBCライトフライ級王者。チキータをKO)、コブラ・アリ・ブランカ(カオサイにKO負け)、タシー・マカロス(元IBFライトフライ級王者、ムアンチャイに敗れる)、エボ・ダンクアー(=エボ虎井、ガーナ人のライトフライ級世界ランカー。大鵬健文に判定負け)らに勝った星がありますが、いずれも下の階級ばかり。
バンタム級の強豪との対戦はない選手でした。

そういう選手と辰吉を闘わせるにあたり、陣営は当初、契約体重を117ポンドに設定する、と発表していました。
ジュニア・バンタム級での世界挑戦も、選択肢のひとつとして見据えた上で、という報道を見た記憶があります。

しかし、いざ試合当日になってみると、そんな話はなかったことになっていました。
いつ、バンタム級ジャスト、118ポンドの試合に変わったのか、はっきりとした発表を見た記憶がありません。
まあ、この辺は単に私の見落とし、記憶違いなのでしょう。



なんやかやと思うところはありましたが、試合が始まると、辰吉丈一郎は己の非凡な才能を、試合全般に渡り、これでもかと見せつけました。
スピード満点のジャブとフットワークでペースを握り、毎回のようにヒットを重ね、パショネスのパンチの大半に空を切らせる。
時に挑発的なパフォーマンスも見せつつ、多彩なジャブ、左ボディブローから上へ左右の返し、といったコンビネーションを決める。

中盤、何ラウンドだったか忘れましたが、バックステップを踏みつつ左ボディブローを決めたシーンには、思わず目を見張りました。
洋の東西を問わず、それまで見た試合の中では、あまり見たことのないテクニックでした。
前に出ようとしたパショネスが、ダメージと共に「驚き」をもって、一瞬、動きを止めてしまった姿を覚えています。


試合は大差の勝利に終わりました。
世界2位、という内実を持つ相手だったかというと違うでしょうが、少なくとも一定の水準以上にはある「比国王者」を、それこそ寄せ付けず完封して勝つ。
思えば、アマチュア19戦(18勝1敗)、プロ7戦目のボクサーの仕業ではありません。
しかし判定のコールを聞く際から、辰吉の表情に喜びはなく、試合後の取材対応時にも、陣営共々、感情的な言葉が飛び交った、と報じられました。


歳若い本人が、己の才能も含めた上で、高い理想を持つこと自体は仕方ないのかもしれませんし、それを頼もしいと見る見方もあるでしょう。
しかし陣営はというと、プロモーターは最短記録前提で動き、トレーナーは冷静に、地に足のついた態度で接することもない。
報道陣相手に「確かに倒せなかったけど、相手は世界の2位なんですよ!」と声を荒げた、という話が後日、伝わりましたが、あらゆる面で、この試合にまつわる状況を正しく認識していないな、と思い、げんなりしたものです。


この一戦は、キャリア浅く歳若い辰吉丈一郎の持つ才能、その非凡さを十全に見た一戦でした。
また、118ポンドに落としたときに共通する足取りの軽さは、岡部繁戦以来のもので、この辰吉なら、最初から無理に決め手狙いに出ず、きちんと相手を見て、試合を繊細に組み立てる良さが出せるのだ、と思えたことは、今後に向けて明るい材料でもあった、と思います。

しかし、その若く非凡な才能を、ボクシングの世界最高峰に到達させることより、ビジネスの算段を優先する者、そして辰吉の才能に「惚れ」ているが故に、冷静に立ち振る舞えない者で構成される陣営の姿が、様々に見えた一戦でもありました。


ファンとして、類い希なる才能の持ち主に対する期待と、それ故に?まとわりついてくるあれこれへの危惧を抱えつつ、辰吉の世界挑戦決定の報を「仕方ないこととはいえ...」という思いで、待ちました。
まあ、大方、ここに行くんだろうな、という気はしていて、その通りの相手に挑戦することになるわけですが、その結果と内容は、またしてもこちらの想像を遙かに超えた、凄まじいものでした。



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「学びの機会」は生かされたか? 6戦目で初のドロー

2020-06-15 08:15:29 | 辰吉丈一郎




ということで、辰吉丈一郎の思い出シリーズ、5回目。
運命の1991年に突入です。


前年、1990年12月にジュン・カーディナルを破り、早々に発表されたのが次の試合、WBA7位の南米王者、アブラハム・トーレスとの対戦でした。
期日は1991年2月17日、後楽園ホール。
格下相手のカードで、府立第一を埋めた選手が、現役世界ランカー相手にもかかわらず、ホールで試合をする。
その代わりに、TVは日曜昼間の生中継。
明らかに物事の「比重」が変わったのやなあ、と、当時ぼんやり思ったものです。


トーレスの戦績は確か13勝1敗か何かで、KOは少なく、5つ。
1敗はソウル五輪銅メダリストにして、後のWBA王者ホルヘ・エリセール・フリオに喫したもの。
それ以外に強敵との対戦はなかったようで、辰吉陣営にすれば、ランカーの中では楽な相手を選んだつもりだったのかもしれません。

しかし、このときのWBA王者はあのルイシト・エスピノサで、ランカーは上から順番に、イスラエル・コントレラス(後の王者)、畑中清詞(後に一階級上で王者に)、上記のフリオ、李勇勲と李恩植の韓国勢(当時、みんな強かった)が続き、6位がグレグ・リチャードソン(!)。
で、その次がトーレスですから、6戦目の選手と組むには、限界ぎりぎりのマッチメイクだった、と見るべきでしょう。

にもかかわらず、試合への流れは、けっこうタイトなスケジュールだったし、何より本人、陣営、報道や批評からも、厳しい予見はあまり出なかったように思います。
辰吉本人は「足使って当ててポイント稼ぐ、アマチュア風の選手」と切って捨てるような言葉を発していました。
後付けでなく、正直に「世界どうこうという選手を、そんな風に簡単に断じてしまえるものなのかなあ」と疑問に思ったのを覚えています。


実際、試合が始まると、トーレスは派手さこそないものの、締まった構えから、身体の軸をしっかり決めて回転させつつ放つ鋭いジャブで、辰吉を再三好打しました。
辰吉は相手を見ず、探ろうとせず、最初から外して強打狙い、という一段飛ばしの試合運びに出ましたが、何しろジャブを外せないものだから、攻めの糸口が掴めない。
それでも天才の証明というのか、目で外してヒットをとる場面を徐々に増やし、終盤の挽回もあって、試合自体は成り立ちましたが、僅差ながらクリアに負けている、という内容でした。

ドローの判定を受けて、辰吉は「自分の負け」と率直に語りました。
この言葉がどういう気持ちから出たものか、細かいところまではわかりませんでしたが、かなうことなら、率直に対戦相手の技量力量を踏まえた上で、自身の現状を客観的に見据えたものであってほしい、と思いました。
この試合で見たもの、体感したものと、率直な気持ちで向き合ってほしい。
自身の闘志、負けん気だけで、全てを塗りつぶしてほしくはない。そう思ったものです。

そして、それを「学び」として、今後に生かせるものなら、この天才がこの先、大成したときに、貴重な試練の一戦だった、あれがあったから...と振り返ることも出来るだろう、と。
しかし、後に振り返れば、この「学びの機会」が十全に生かされたか、というと、やはり疑問符を付けざるを得ないのですが。


あと、気になったのは、またも119ポンド契約の試合で、辰吉の足取りに軽やかさが感じられなかったことです。
打たれたり、疲れたりしたあとの話でなく、試合開始の時点でそうでした。
たった1ポンドの余裕が、これほど目に見えて、出来不出来の差になって表れるものか、と少々驚きでもありました。
若さやキャリア、当日計量の時代だったこと、色々要因はあったのでしょうが、この試合も厳しく、118で組んでいればどうなったのかな、と思ったりもしました。


さて、陣営は7戦目で予定していた世界戦を延期して、もう一試合、世界ランカーとの試合を挟む、という「軌道修正」に出ました。
しかし、7戦目が8戦目になったとて、時の王者はWBAルイシト、WBCは桁違いの長身で売ったラウル“ヒバロ”ペレスで、いったいどっちに挑むつもりなんやろう、と思ったものです。
こういうとき、選手に無理な減量を課して、一階級下で...という、いかにもな話が飛び出しやせんやろうか、と心配にもなっていたところ、次の相手は、何とも微妙なところを突いてきたな、という感じの選手が選ばれることになるのでした。




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格下相手とはいえ見どころ十分 「和製オリバレス」5連勝飾る

2020-06-09 05:40:30 | 辰吉丈一郎




辰吉丈一郎の思い出シリーズ、4回目。
相変わらずとりとめもないですが。


岡部繁戦勝利で、マガジンの表紙も飾り、一気にボクシング界のホープ、という表現以上の注目を集める存在となった辰吉ですが、結局、日本タイトルマッチはこの一試合のみでした。
当時、協会の内規で、世界王座挑戦資格は「日本王座獲得、及び指名試合クリア」が条件、と決まっていたので、初防衛戦は、1位の松尾隆と闘うのだろう、と思っていたら、実現しませんでした。
まず、松尾が眼筋麻痺を患って辞退。では2位以下のランカーと、となるところでしょうが、話がまとまらなかったのでしょう。

こういうとき、割と雑に「対戦希望者が現れず」「ランカーたちが尻込みした」なんて書き方が目についたりもしますが、ジム側がそう判断したとしても、選手自身の意志が反映されたものかどうかは、何とも言えない場合があることでしょうね。
当時上位だった尾崎恵一などがやっていたら、勝ち負けはともかく、どんな試合になっていたかな、と思いますが...。

で、こういう事態と平行して、上記の内規が「撤廃」されたと発表がありました。
この辺はもう、今さらつべこべ言う話でもないのでしょうが、いかにもタコにも、という感じです。


結局、辰吉の次の試合、デビュー5戦目は、比国9位のジュン・カーディナル戦、と決まりました。
今から思えば、実に景気の良い話ですが、なんとこの程度のカードで、府立の地下ではなく第一競技場が使われ、5千人以上の観客が入りました。
赤井英和には及ばずとも、世界チャンピオンでも無いボクサーとしては、規格外の注目度、集客力だと言えるでしょう。


試合自体は、童顔で小柄、健気に頑張るが技量力量の差はいかんとも、というカーディナルを、辰吉が余裕を持って打ち込み、2回にKOしました。
と、書いてしまえばそれだけの、格下相手の「片付け仕事」なんですが、単にそれだけではない、中身のある試合内容でもありました。

ジョー小泉氏が、辰吉のことを英文レポートで「浪速のジョー」Joe in osaka と書いても、欧米の読者には意味が通じない、ということで Japanese Olivares と書いたそうですが、言い得て妙だなあ、というくらい、左ダブル、トリプルを巧みに、強烈に上下に打ちわける攻撃が冴え渡った試合でした。

もちろんスピード、パワーの差は歴然でしたが、それでも果敢に闘う姿勢を見せるカーディナルを、前後に揺さぶって右カウンターで脅かし、ロープ際では上下の打ち分けで崩して仕留めた、その攻撃面における技巧の冴えは、この手の「片付け」的試合としては、望みうる中で最高クラスのものでした。

契約体重は119ポンドで、岡部戦ほどの軽やかさは感じなかったですが、このカードではその辺の不安が勝敗に影響することはなく。
格下相手にこれだけの内容を見せられるなら、そもそもキャリアの少ない選手なのだし、この手の試合をあと数試合やってから強敵と組む、というのが理想的だなあ、と思った記憶があります。

しかし例によって「最短記録」が大好きな日本ボクシング界の倣いというか呪いというか、この次に「あの選手」との一戦が組まれるわけですが...。



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和製レナード、いや、それ以上 壮大な夢の入口

2020-05-30 16:14:30 | 辰吉丈一郎



辰吉丈一郎の思い出、三回目です。


岡部繁戦は、当然TVで見たんですが、これが関西では数日遅れの録画放送。
結果は知った上で見ました。
なのに、30年経った今でも、その試合は「驚愕」そのものとして、記憶に焼き付いています。


岡部繁については、この試合まで映像を見たことはありませんでした。
ただ、専門誌の記事で見る限り、日本チャンピオンとして抜きん出て強いという内容や結果があるでなし。
もちろん弱いチャンピオンではないだろうが、さりとてサムエル・デュランより強いはずもない。
従って、不調でありながらもデュランに勝った辰吉が勝つだろう。そんな風に思っていました。

そして、報じられた結果もその通りでした。
想像を超えていたのは、その内容でした。


覚えているのは、一見して辰吉の身体の切れが、それまでの三試合と全然違った、ということでした。
無用な力みが見えず、下肢のバネが効いていて、膝が柔軟。
若干、前傾気味のバランスを、ぎりぎりのところで補正する。
その足捌きは、前後共に軽やかで、まるでキャンバスの上を浮遊しているかのように思えました。

初回は左を下げていたが、2回以降、ほどほどにガードも上がり、両肩は程良くリラックス。
構えた位置からジャブ、コンパクトな右が、適時、岡部を脅かす。

岡部は打てば敏捷に右を返され、下がれば上下に散らすジャブで追われる、という流れで、時折鋭いパンチを見せるも、劣勢は否めず。
4回、徐々に手詰まり感ありありだった岡部が、安易に出した左を、本当に最小限の幅でスリップした辰吉が、それまで右を返していたところ、突然の?左フック。
コンパクトに振り抜かれた一撃で、岡部が後方へ崩れていきました。

このとき、アリやレナードのように右手を回したシーンは有名ですが、私がより鮮明に覚えているのは、この後、それこそレナードばりに厳しい「詰め」の連打で二度目のダウンを奪ったあとの様子です。
中立コーナーに立った辰吉は、客席から投げ込まれた何か(パンフか紙テープか?)が足元に転がったのを見て、試合の邪魔にならないようにと、右足で軽くリング下に蹴落としました。

先ほどのパフォーマンス、猛攻、その直後、熱狂に包まれた場内で、この歳若いボクサーが、誰よりも一番冷静な貌を見せている。
その事実が、何よりも衝撃的、そして感動的でした。
初のタイトルマッチ、メッカ後楽園ホールのリング上で、この恐るべき才能の持ち主が、様々な「余計」を排して、真の強者たりうる境地に、足を踏み入れた。そう感じたのでした。

初めて練習映像を見てほぼ一年、やっぱり、辰吉丈一郎は本物だった。
そう思えた喜びは、その先に見た夢の壮大さは、今も心中から消えていません。

もう、三度目のダウンを奪う様子は、単なる付け足しでした。



このときの辰吉の試合ぶりは、もちろん相手との相性や力関係ゆえだと言えばそれまでですが、心身ともに一番バランスが取れていた、と思います。
慌てずに圧し、力まずに打っていきながら、同時に「強打」出来るパンチは何か、その選択肢を探りつつ、要所を押さえて得点していく。
終始冷静で、緻密で、なおかつ好機を得たら爆発的。

まさに和製レナードではないか、いや、そのキャリアの浅さを考えれば、レナード以上の天才ではないか。
こんな凄いボクサーが、日本に現れるとは。
この男こそ、日本の枠を超えて世界を驚愕させる、次代のスーパースターになる男だ。
そんな風に思ったものです。




====================


この試合については、ひとつだけ、長年、疑問に思っていたことがありました。
何故、岡部繁とその陣営は辰吉の挑戦を受諾したのだろう、ということです。

辰吉は確かこの試合の時点で日本1位ではなかったはずです。2位だったか。
何しろ、挑戦者コーナーのすぐ下の席に、当時日本1位だったサウスポー、松尾隆がいて、鋭い眼光を辰吉に向けていた覚えがあります。
(この松尾は、後に眼疾を患い引退しますが、次の試合で辰吉に挑んでいたら、サウスポーだったことも含め、健闘したんじゃないか、と思うくらい、好選手でした)

何しろ、岡部陣営が辰吉と闘うとしたら、大物ルーキーを倒して声名を高めよう、という理由しかないでしょうが、私にしたら、勝ち目の無いカードに、大事な選手を出す理由としては弱いなあ、という感じでした。

しかしこの試合から10何年も経って、関東のファンの方々とも、色々接することが増えて、友人も出来るようになり、その辺の疑問をぶつけてみたことがあります。
その友人が答えて言うには「それは、辰吉があんなに強いと思われてなかったからですよ。悪いですけど、また大阪から口だけの選手が出てきたな、くらいにしか思われてなかったんです」とのことでした。

あー...そういうことだったのかあ、と。
もちろん、そんな風には思ってなかった、という意見もおありでしょうが、一方で、一定以上の割合で、そういう断じ方がされていただろうことも、容易に想像が出来ます。


聞いてみれば他愛も無いというか、簡単な話でした。
そういう側面からも、あの試合は、痛快な試合だったのでした。
出来ることなら「その場」に居合わせて(当然、結果知らずに)あの試合を見てみたかったなぁ、と改めて思った次第、です。




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足取り重き、119ポンドの逸材

2020-05-28 09:20:02 | 辰吉丈一郎


辰吉丈一郎の思い出、とりとめもなく二回目。


デビュー戦のKO勝ちは、試合単体が録画中継されたわけではなかったはずです。
スポーツニュースや、スポーツバラエティ的な番組では、何度も取り上げられていましたが。

デビュー戦前のジムワーク映像で見た印象は、本当に凄い素材なので、適切な指導を受けて順調に伸びたら、どんなに凄いボクサーになるだろうか、というものでしたが、デビュー戦を見ると、正直言って余計な「粋がり」が目につき鼻につき、という部分もあり、そこはがっかりしたところでした。

相手との力量差を見て取ったら早速、両手を下げて、アゴを少し出して、余裕を見せる。
ちゃんと指導者が教育してないのか、それとも、どうにも手に負えないものを、これでもまだ抑えている方なのか。

いずれにせよ、これだけ凄い才能を秘めているのに、なんでこういう余計なものが入り込んでくるんやろう。
アリやレナードの「芸風」を悪く解釈しているに過ぎないんだろうが、もっと良いお手本をしっかり見て学ぶべきだ、と思ったものです。



二戦目は、これまた関西地方で試合自体の放送は見られませんでした。
これもニュースか情報番組かで、初回のダウンシーン、2回の逆転KOシーンを見たんだと思います。

初回、タイ王者チューチャード・ウアンサンパンの左ロングフックを食って尻餅、笑いながら立つ。
2回、タイ人の連打、その繋ぎ目を切り裂くように差し込んだ左ボディでKO。

この試合について報じた記事、確か Number のものだったか?専属トレーナー氏のコメントは

「(初回のダウンは)これほどのレベルの選手が、あんなチョンボをしたのが可笑しくて、笑ってしまいました」

という内容のものでした。

一読して、こういう人はすぐに外した方がええな、と思いました。
デビュー戦にも通じますが、これほどの素材、逸材ならばこそ、もっと強い相手と闘う日のことを見据える必要がある。
だが、歳若き本人は仕方ないにせよ、指導者や周囲が、文字通りの「指導」を怠っているのではないか。そういう印象を持ちました。




そして三戦目。
後に思えば相当な試練、難関たる一戦でした。

サムエル・デュランはこの試合の三ヶ月ほど前に、タイのサミン・キャットペッチをKOして、WBCインター王座を獲得したばかり。
このサミンというのは、デビュー戦でインター王座を獲得し、二戦目でデュランに敗れ初黒星、というキャリアの選手。
詳細は不明ですが、ムエタイのスターか、アマチュアの有力選手かどちらかだったのでしょう。
そういう選手を国際式に転向させ、少ない試合数で世界戦に持っていく。タイではよくあるパターンです。

ちなみにデュランは91年の11月にも、ムエタイからの転向選手であるオーレイ・キャットワンウェーをKOしています。
このオーレイは「アンダマンの真珠」と呼ばれたムエタイのスーパースターだったそうですが、この黒星により、国際式のキャリアをたった三戦で断念しています。

いわば、少ない試合数で世界を目指すホープの目論見を打ち砕くのが得意な?デュランを、これまた三戦目で迎え撃つ。
当初、ジム側は三ヶ月前の試合で負けたサミンの方と組むつもりだったのを、辰吉が「勝った方とやりたい」と言ったので、デュランを選んだ、とのことでした。
終わってみれば、辰吉本人も陣営も、おそらく、思う以上に危ない橋を渡った、という一戦になりました。


この試合、契約ウェイトは119ポンドだったと記憶しています。
動きがどうにも重く、果敢に攻めてくるデュランのパンチを外しきれない場面も。
しかし3回、相手の左を外して、次の右が来る前に左アッパー、という天性の一打が決まり、ダウン。
その後、デュランの反撃に晒され、危ない場面もあるが、7回に左右アッパーで倒し、KO勝ち。

全体を見て、たった三戦目の選手にしては、考え得る中で最強の相手をKOした辰吉は凄い、となる反面、最後は明らかにダウン後のパンチを効かせていたことも含め、どうにも印象の悪い試合でした。
はっきり言えば、辰吉の反則負けになっているべき試合でした。

そして、それを抜きにしても、強敵相手に見せたセンスや闘志は凄いが、調整を含めた経験不足も露呈した試合でした。
手を下げ、目を外す選手としては、もう少し身体に切れが欲しい。
119ポンドで組むと、足取りが多少重く見える。足から動いて外すのでなく、上体だけだと外しきれず、打たれる。
そこは心配な点でした。


この試合はフジ系列の関西ローカル、関西テレビで深夜放送されました。
当時、関西テレビは渡辺二郎、ローマン戦、そして六車卓也の試合を放送していた局で、その流れで辰吉の試合も取り扱ったのでしょう。
しかし、次の岡部繁戦における「爆発」以降、辰吉の試合は全て、日本テレビ系列での放送となります。

この試合放送における、関テレの番組作りは、相当熱が入ったものだったように思います。
冒頭の煽り部分では、人気アナウンサー桑原征平のナレーションが入り、解説は渡辺二郎、六車卓也が並ぶ。
ですが、そのナレーションは幼稚というか、有り体に言って馬鹿みたいな内容で、TV局というものにとっては、どんなに優れた才能であっても「浪速の」ナントカである方が大事で、それ以外は二の次、というものでしかありませんでした。

このあたり、今から思えば、優れた才能を取り巻く環境の貧困、その一端を見ていた(に過ぎない)のだろう、と思います。
そして、それは後に見ることになる様々なものの前触れでもあったのだ、と。


しかし、この次の試合で、そういう危惧は全て吹き飛び、再び、私は壮大な夢の世界へと引き込まれることになります。



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「優」でも「上」でもなく「違う」逸材 「動くタツヨシ」初見の衝撃

2020-05-24 08:12:30 | 辰吉丈一郎



辰吉丈一郎の名を知ったのは、87年の秋でした。
ボクシング・マガジンのアマチュア記事で、驚異的な才能を持つ若者が現れた、と読みました。
記事の文面が、普段の感じと明らかに違う、と思った記憶があります。
明らかに平静でなく、心が揺さぶられている状態で書かれた文章だ、と。



当時は今と違い、メジャースポーツの地位をとうに失っていたボクシングに関する情報は限定されていて、試合結果も翌日の一般紙で見て、内容については次の15日に出る専門二誌で知る、という状態。
この頃、関西在住の身には、国内の試合のTV放送といえば、世界戦くらいしか見る機会がなく、唯一、TV朝日系「エキサイトボクシング」が偶数月のみ流れていた、という時代。
それ以外は、新聞を見落としたり、載っていなかったりしたら、専門誌で結果知って、それが意外なものだったら「えー!」と、そこで驚いていたような始末です。

そんな頃でしたから、今と違って、専門誌を買うと、それこそ目を皿のようにして、隅から隅まで読んでいました。
アマチュアの記事も、試合ぶりを一切見ていない選手のことをイメージするのは難しいながら、それなりに読み込んでいた記憶があります。

そこで見た「辰吉」の名は、とても印象的なものでした。
何しろ「辰吉丈一郎」です。
なんという名前だろう、と思いました。アマチュア選手がリングネームをつけることもないだろうから、これ、本名か。信じられん、と。


マガジン87年12月号、沖縄国体についての、宮崎正博記者の記事には、

「この辰吉は評判通り、とてつもない新星である。ことに左ブローは見事の一言。素直なアップライトスタイルから、相手の動きを見切って実にスムーズにフック、アッパーを顔面、腹に叩き分ける。ボクシングを始めてまだ一年半というのが信じられない強さであった。10月の社会人選手権優勝を含めて、これまで16戦すべてストップ、棄権勝ちという戦績も十分にうなずける。17歳の若さだが、「来年のソウル五輪メダルが目標」というのも、まるっきりの夢物語とは思えないほどの逸材である」

とあります。

正直、何言ってんの、と思いました。
五輪メダルどころか、国際試合出れば負け、アジアの大会でも優勝選手がそうそう出ない時代に、プロジム所属の17歳が、国体で強かったからといって...と。

そして次のマガジン、88年1月号には、全日本選手権に出た辰吉が「右膝の負傷と発熱のため」不調で、一回戦で敗退した、という記述がありました。
今になってTV番組にも取り上げられる、アマチュア時代唯一の敗戦です。






この後しばらく、辰吉の名が目に入ることはありませんでした。
しかし89年に入り、ボクシング専門誌ではなく、出先の喫茶店か何かで、たまたま手に取ったスポーツ新聞の5面くらいに、それなりの大きさの文字で「辰吉」の名を目にしました。
詳細は覚えていませんが、全日本とかいう大きな試合ではなく、いわゆる市民大会?オープン戦的な?試合で、辰吉がボディブローで相手を倒し、プロデビューへ向けて試運転、というような内容の記事でした。

ああ、そういえば、マガジンの記者がえらく褒めてたアマチュアの選手がいたなあ、と思い出しました。
アマチュアのキャリアは切り上げて、19歳でプロ転向か。まあ、良い頃合いかもしれない。そう思っただけでした。

ところがこの頃から、関西のメディアのみならず、それこそ全国的な勢いで、辰吉丈一郎の名が、あらゆるメディアを賑わすようになりました。
デビュー戦も、試合自体のTV放送があったわけではない(はず)ですが、試合前からニュース番組などで取り上げられていましたし、二戦目(東京ドームでのKO勝ち)を待たずして、メジャーな雑誌などでも特集記事が見られるようになりました。
(このあたり、今から思えば、関西の大手であり、帝拳の系列にある大阪帝拳ジムの、隠然たる影響力の大きさを感じるところです)


この頃、動く辰吉、つまり映像で初めて辰吉を見ました。関西のニュース番組か何かで、ジムワークの様子が取り上げられたものです。

一目見て驚きました。まず、その肉体です。
シャドーする背中に、大きな筋肉が盛り上がり、両腕は一目見て明らかに長い。
背中だけ見たら、まるでカルロス・サラテのそれを切り取ってくっつけたみたいだ、と。

そして動きがリズミカルで、柔軟に外し、敏捷に打つ。攻防動作の繋ぎ目が、それまで見たどんな選手よりも「シームレス」に見える。
それこそレナード以上に滑らかではないか、と。後にホセ・ナポレスのビデオを初めて見たとき「辰吉や」と思ったくらいに、です。

なんという凄い才能か。衝撃的でした。圧倒される思いでした。
それまで見た、どんな優れたボクサーとも違う。少なくとも日本国内の、あらゆる好選手とも、チャンピオンとも「違う」。
優れているとも、上回る、というのでもなく「違った」こと。それが何より衝撃的でした。

このボクサーはいったい、これからどれだけ凄い試合を、ボクシングを見せてくれるのだろう。
その将来に、壮大な夢を抱いた最初でした。


その少し後に行われたデビュー戦。
韓国選手相手に、低いガードから目で外して、右ショートを差し込む、という危ないことを平然とやって、早々に倒してのKO勝ち、でした。
新人ボクサーがやるものとしては、あまりに不釣り合いなほど、高度で派手なボクシング。
しかし、それ故に、初めて映像を見たときには感じなかった「危惧」が、心中に生まれたときでもありました。



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先日のマガジン、辰吉生誕50年特集に触発されたこともあり、辰吉丈一郎についての思い出を書いていこう、と思っています。
続けて書くか、不定期になるかは自分でもわかりませんが(笑)、まあその辺は気まぐれに、とりとめもなく、ということで行きます。
ご笑読いただければ幸いです。


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晩夏

2020-05-21 07:04:42 | 辰吉丈一郎


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試合開始の時点で辰吉の足のバネが切れているのを見た時、心中僅かに残っていた勝利への期待は完全に消えた。
それ以後起こった事はほとんど全て事前の悪い想像と違わなかったと言っていい。

かつて辰吉丈一郎はボクサーとして豊壌の実りに満ちた天才だった。
しかしこの日の彼はすでに草木一本残っていない焼け野原だった。

3Rに何の確信も根拠もないのに早くも勝負をかけて打って出る姿を見て悲しみで胸が満ちた。
その有効打に乏しく短い攻勢を最後に目を覆いたくなるような劣勢が続き、7Rにやっと試合は終わった。

我が身のことだけを思うなら、辰吉は昨年の敗戦を最後に引退すべきだったのだ。僕は否応なしにそう気づかされた。
しかしそうすることが当然だと言わんばかりに闘われたこの再戦は、ただ単に辰吉一人の雪辱のためでなく、辰吉に何らかの思いを抱く全ての人間に対する最後の惜別の為に闘われたのではないかと感じた。
辰吉の意志は勿論別だろうし、あくまでこちらが勝手にそう感じただけの話だが。


かつて最後の4割打者テッド・ウィリアムスが何のセレモニーもなく無言で引退し、それに対して人々が不満を述べた時、ジョン・アップダイクは「神々はいちいち手紙の返事など書かないものだ」と言ったらしい。

ならば辰吉は神ではなく人間だった。良くも悪くも徹底的に人間だった。


試合が終わってもリングサイドは騒然としていた。
泣きながら辰吉の名を叫ぶ者がいれば、ビデオカメラを辰吉に向け「撮れた撮れた」と喜ぶ場違いな芸術家もいた。
それを横目で眺めつつ僕は別のことを思っていた。この日セミファイナルに出た若きフェザー級、洲鎌栄一のように、勇敢に闘い続けていくであろうボクサー達を、これからも応援していこう、と。

人の思いは様々である。
そしてこれほど多くの思いを引き寄せて闘えるボクサーは、二度と出ないとは言わないが滅多には出ないだろう。
その様々な思いの中心に、いつも辰吉がいた。
ありがとう辰吉。あなたは偉大だった。



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それほど頻繁に観戦に出かけられたわけではない時期だったこともありますが、色々と思い出のある観戦でした。

かなりの出費をしてリングサイドの席を取りました。5列目か6列目くらいでした。
アンダーに全日本新人王、洲鎌栄一の試合があって、その前だったか後だったか...試合の合間に、急に周りが騒々しくなりました。
どうしたんだろう、と思って周りを見、振り返ると、私の斜め後方に松本人志さんが着席していました。

笑顔は一切無く、思い詰めたような表情でした。それこそ一声も発せず、黙りこくっていました。
隣にはマネージャーらしき男性が一人だけ、付き添っていました。
何人かの観客が、サインや握手を求めてやってきましたが、マネージャー氏が「ひとりにすると際限なくなるので、お断りさせていただいてるんです。すみません」と丁重に断っていました。


そういえば、辰吉と親交があるという話だったなあ、忙しいやろうに、わざわざ大阪まで...と思って、前に向き直り、そのまましばらくアンダーの試合を見ていたのだったか、次の試合開始を待っていたのだったか...突然、私の肩越しに、後方から何か物が飛んできて、顔をかすめて足元に落ちました。
なんだと思って見ると、固く絞った小さいタオル状の布。いわゆる「おしぼり」でした。

振り返ると、後方の通路で、何人かの男女が、松本さんにカメラを向けて、笑いながら写真を撮っていました。
松本さんも一瞬、驚いて振り返ったのでしょう。そこを狙って写真を撮るために、おしぼりを松本さんに向けて投げつけたら、僅かに逸れて、光栄なことに、それが私に当たった、というわけでした。

世の中には、何とも独創的な発想の持ち主がいるものだ、と呆れかえっていると、松本さんが申し訳なさそうに、私に小声で「すみません」と詫びました。
同席していたマネージャー氏も「すみません、ご迷惑を...」と詫びるので「いえ、そちらは何もしていないんですから」と笑って返しました。

まあ、世の中には色んな人がいてはるわ、という話です。


そうこうするうちに、メインイベントが始まり、改めて書くまでも無く、目を覆いたくなるような辰吉の劣勢が続きました。
我々の席は、バックスクリーンを背にする位置だったので、ラウンドの合間に映るスロー映像を見るため、何度か、インターバル中に後ろを振り返りました。

するとその度、松本さんの姿が目に入りました。
両手で頭を抱え、文字通り、二つに折った身体を震わせていました。


ああ、この人はホンマに辰吉のことが好きなんやなあ。
有名人同士の、通り一遍の関わりではなくて、ホンマの友達なんや。

辰吉丈一郎が体現するものに、心底から惹かれ、それ故に、それが打ち砕かれる光景を見て、冷静でなどいられない。
その気持ちが、痛いほど伝わってきました。よくわかる、という気持ちでもありました。


試合が終わったあとの様子は、記事にも少しだけ書いたとおりです。
リングサイドは喧噪に包まれていました。
それから逃れるように、松本さんはマネージャー氏に促され、試合終了後、即座に席を立ちました。

辰吉丈一郎のボクシングそのものに魅了された者も、その個性に惹かれた者も、友人関係を築いた者も、「闘い」の苛烈さの前には、ただ平等に無力である。
それを目の当たりにした、数多の思いを、心を、私はあのとき、その内の一人として、見ていたのだと思います。


しばらく経って、帰路に着きました。
辰吉丈一郎がどうやってリングを去ったか、つい先刻、見たばかりのはずの、その後ろ姿を思いだすことが出来ませんでした。
今も、何故か記憶に残っていません。不思議です。




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夢は形を変えてゆく

2020-05-20 09:53:45 | 辰吉丈一郎



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本人がほのめかしたところによると、辰吉はウィラポンとの再戦に勝ち負けに関わらず引退するとかしないとか、とにかく大変な決意で臨むらしい。
いかにボクサーとして様々な特殊事情を抱えつつ存在する辰吉といえど、こういう進退のかけ方はやはり普通ではない。
彼がこうした極限の心理状態に背中を押され、過去に幾度か見せた悲劇的玉砕がまた繰り返されるのではないか、と悪い予感がする。

辰吉の力量も、以前のように特別視することはできない。
歴戦のダメージ。
10代の頃と同じ階級で闘うこと。
周知の眼疾。
加えて噂された走り込み不足の原因がそれ以外の故障だとしたら(膝か腰あたり?)今回の試合の勝算も乏しいと思わざるをえない。

しかし、キャリア初期の華々しい勝利、その代償である眼疾、そして敗北、強いられた引退誓約、海外での再起、それらの繰り返し、王座返り咲き、またも転落という苛烈なキャリアを経て、現在、彼の心がどうあろうと、ウィラポンを殴り倒す手伝いが出来るわけでもない第三者に何も言えることなどないだろう。
また、このような覚悟で闘ってきたからこそ、かつての天才を失いながらも三度の王座獲得を成したのだし、また四度目があるのかもしれない、とも思う。


遠い昔のような気がするが、かつて、誰もが辰吉に壮大な夢を見ていた頃があった。
専門誌には、ラスベガスのリングでネルソンやフェネック相手に四階級制覇を目指せ、という投稿が載った。
香川照之氏は「我々は遂にベガスの昼間の興行に出しても恥ずかしくない選手を手に入れた」と書いた。
好選手に対し辛口となるのが常のジョー小泉氏も、オリバレスやナポレスの名を引き合いに出した。

それが間違いだったと言いたいわけではない。
まっとうに見た夢が必ず実現するとは限らない、というだけの話だ。

彼は我々が勝手に思い描いたような夢を実現することはできなかった。
しかし彼が見せてくれたボクシング、そして激動のキャリアは、ある意味ではネルソンを倒して四冠制覇する事以上に、貴重で濃密なものであり、時に感じた怒りや悲しみ、失望や絶望をも含めて、僕は充分に素晴らしい夢を見せてもらったと思っている。


もちろん、8月29日の大阪ドームが新たな辰吉伝説の始まりにならないとは限らない。
だが、この試合をこの眼で見たいと思う心の奥底は、もう、そういうことではなくなってしまっているのだ...。



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これは1999年の6月頃に書いたものです。
再戦決定の報を知り、いてもたってもいられずチケットを予約したのを覚えています。

今読み返すと、なんというか...あらかた「覚悟」は決まっていたんやなあ、と。
もうちょっと希望的観測があっても良さそうなものですが。


記事のタイトルは、お察しの通り?尾崎豊「時」の一節を拝借したものです。
こんなことを明かすのはお恥ずかしい限りですが...若さ故の過ちというのかなんというのか。







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