原谷苑
手前が「御室桜」(白)奥が「紅しだれ」
上品に紅白競演
桜は何時のころから私の心に入りこんできたのだろうか?「桜が咲いた。綺麗だね」位だった。平安神宮の桜は、谷崎潤一郎の「細雪」の舞台であるから、本からの興味で見に行ったので、桜自身に興味があったわけではない。毎年、市内の桜で満足していたし、遠出と言っても夙川の桜で満足だった。
水上勉の小説「桜守」のモデルといわれる笹部新太郎氏は大学時代から桜に興味を持ち「桜の神様」と言われる人になった。研究の拠点は、兵庫県宝塚市、現JR武田尾駅付近の亦楽山荘(えきらくさんそうの名は漢詞から名づけた)だった。山荘といっても建物ではなく桜の演習林のことである。此処は笹部氏が桜の品種保存や接木の研究用に作ったものだ。
笹部氏は「ソメイヨシノ」を余り好まなかった。「染井吉野」は「吉野桜」を東京染井の植木屋さんが売り出し、成長が早く丈夫な為たちまち全国に広がり、「山桜」「里桜」が廃れていった。それを心配した笹部氏が「山、里桜」の保存に心血を注いだ理由である。
笹部氏を有名にしたのは、何といっても、御母衣ダムの底に沈む予定の樹齢400年と言う桜の老木の移植である。笹部氏は依頼を受けて、現地調査に行きもう一本の老木を見つける。誰もが無理だといった桜の移植を成功させた。桜1本は42トン、もう1本は38トン、一ヶ月掛けて、一本の枝も折らない様に(桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿)と移植した。移植は成功し「荘川桜」として、翌年から、今尚,美しい花を咲かせている。昭和35年、笹部氏73歳の時である。御母衣ダムの側は何度か通ったことがあり、老木を目にした事があるが、花の時期に行ったことは無い。
笹部氏の手に掛かった桜は「造幣局の通り抜けの桜」「夙川の桜」「仁和寺の御室桜」等有名な桜もそうである。2,3日前に新聞報道があったが、「仁和寺の御室の桜」が背が低いのは「何故か?」と言う研究がされるそうです。
山、里桜が30種5000本の植わった亦楽山荘は笹部氏の死後荒れたらしい。今は宝塚市の所有で「桜公園」と名づけられ、現在は「桜守の会」が月二回の手入れをしている。
西宮権現平桜は本家は居ないが笹部氏が残した苗から、西宮植物生産研究センターなどの尽力により、戦時中に伐採された、途絶えた桜がバイオ技術で甦ったのである。「この桜こそ今日の日本の桜の品種改良の基盤となる」と笹部氏は言っている。今この桜は、夙川、甲山付近にもあるそうだ。西宮市の至るところに植えられていると言う。8年間も西宮に通いながら知らなかった。桜は西宮は夙川などに固まっていると思っていたが、「至るところにある」と言う事は私の思い違いを意味するのだろうか。
カスミサクラとオオシマサクラなどの里サクラの交配種が「笹部桜」である。
「笹部桜」は皇居吹上御所の内庭に5本あるそうだ。宮内庁は皇族への献上品は大抵断るのであるが、植物に関心の深い昭和天皇が何かの本で「笹部桜のことを知っておられて「笹部が作った桜なら貰っておこう」と言う事で受け取られたそうだ。
亦楽山荘は「山荘めぐり」と名づけ1.1キロ自然種の山桜ガ続いている。此処も又行ってみたいと思っていた所だ。兵庫県は我が県であるし、近いのだから行き易いだろう。
原谷苑の散策中、フッと亦楽山荘のことを思い出したのである桜の種類は違っても、この様に自然林の様かな~って。来年の一押しはここかな~。
手前が「御室桜」(白)奥が「紅しだれ」
上品に紅白競演
桜は何時のころから私の心に入りこんできたのだろうか?「桜が咲いた。綺麗だね」位だった。平安神宮の桜は、谷崎潤一郎の「細雪」の舞台であるから、本からの興味で見に行ったので、桜自身に興味があったわけではない。毎年、市内の桜で満足していたし、遠出と言っても夙川の桜で満足だった。
水上勉の小説「桜守」のモデルといわれる笹部新太郎氏は大学時代から桜に興味を持ち「桜の神様」と言われる人になった。研究の拠点は、兵庫県宝塚市、現JR武田尾駅付近の亦楽山荘(えきらくさんそうの名は漢詞から名づけた)だった。山荘といっても建物ではなく桜の演習林のことである。此処は笹部氏が桜の品種保存や接木の研究用に作ったものだ。
笹部氏は「ソメイヨシノ」を余り好まなかった。「染井吉野」は「吉野桜」を東京染井の植木屋さんが売り出し、成長が早く丈夫な為たちまち全国に広がり、「山桜」「里桜」が廃れていった。それを心配した笹部氏が「山、里桜」の保存に心血を注いだ理由である。
笹部氏を有名にしたのは、何といっても、御母衣ダムの底に沈む予定の樹齢400年と言う桜の老木の移植である。笹部氏は依頼を受けて、現地調査に行きもう一本の老木を見つける。誰もが無理だといった桜の移植を成功させた。桜1本は42トン、もう1本は38トン、一ヶ月掛けて、一本の枝も折らない様に(桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿)と移植した。移植は成功し「荘川桜」として、翌年から、今尚,美しい花を咲かせている。昭和35年、笹部氏73歳の時である。御母衣ダムの側は何度か通ったことがあり、老木を目にした事があるが、花の時期に行ったことは無い。
笹部氏の手に掛かった桜は「造幣局の通り抜けの桜」「夙川の桜」「仁和寺の御室桜」等有名な桜もそうである。2,3日前に新聞報道があったが、「仁和寺の御室の桜」が背が低いのは「何故か?」と言う研究がされるそうです。
山、里桜が30種5000本の植わった亦楽山荘は笹部氏の死後荒れたらしい。今は宝塚市の所有で「桜公園」と名づけられ、現在は「桜守の会」が月二回の手入れをしている。
西宮権現平桜は本家は居ないが笹部氏が残した苗から、西宮植物生産研究センターなどの尽力により、戦時中に伐採された、途絶えた桜がバイオ技術で甦ったのである。「この桜こそ今日の日本の桜の品種改良の基盤となる」と笹部氏は言っている。今この桜は、夙川、甲山付近にもあるそうだ。西宮市の至るところに植えられていると言う。8年間も西宮に通いながら知らなかった。桜は西宮は夙川などに固まっていると思っていたが、「至るところにある」と言う事は私の思い違いを意味するのだろうか。
カスミサクラとオオシマサクラなどの里サクラの交配種が「笹部桜」である。
「笹部桜」は皇居吹上御所の内庭に5本あるそうだ。宮内庁は皇族への献上品は大抵断るのであるが、植物に関心の深い昭和天皇が何かの本で「笹部桜のことを知っておられて「笹部が作った桜なら貰っておこう」と言う事で受け取られたそうだ。
亦楽山荘は「山荘めぐり」と名づけ1.1キロ自然種の山桜ガ続いている。此処も又行ってみたいと思っていた所だ。兵庫県は我が県であるし、近いのだから行き易いだろう。
原谷苑の散策中、フッと亦楽山荘のことを思い出したのである桜の種類は違っても、この様に自然林の様かな~って。来年の一押しはここかな~。