ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

音痴

2007年04月13日 | 気にかかる
             肥後スミレ
          小さな小さなスミレです
          直径1cmあるでしょうか
            葉は大きいのです

「花散らし」の雨。予定通り強い雨と風のようだ。明日の朝は「桜の絨毯」が敷き詰められているだろう、なんて気象予報士の方。

本当に散っただろうか?でも短時間で止んだよ。もう一箇所どうしても行きたいところがあるのに。毎年願っていながら何故かいけない所が。昨日やっと「見頃になってきました」と電話案内が言っていたのに・・・。今年も駄目かな~。ご縁が無いのかな~。

          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

唱歌の学校からの帰り道、昨日の今日なので疲れているので楽な「さくら夙川」から乗ろうと(行きはいつもどおり西宮下車)先週とは違う道を通ってみた。先週の道は花が無くつまらない道でしたが、今日の道は花いっぱい、あちこちの庭や門前に沢山の花が咲いていた。同じ一角なのに、如何してこうも違うのでしょうか?お隣が綺麗な花を咲かせていると、私の家もと良い連鎖反応が起きるのでしょうか?そんなことを考えながら歩いていますと、アッという間に駅に着きました。

「ワン・ニャー・ブーブー・コケコッコー」と言うボイス・アンサンブルのお稽古を歌の間に挟んでしています。これは瞬発力の練習だそうで、小学1・2年生用だそうです。犬、猫、豚、鶏の鳴き声で出だしが輪唱のようにずれて出るのですが、一拍休んで相手の休符点に入りこんで、交互に入ったりと、半拍が入ったりと複雑に(私達にとっては)入り乱れているので、中々上手く合わない。4組に分かれているのですが、どうしても上手くいかない組がある。私の組ではない。「リーダーが居ると纏まって付いて行くのだけど」と言われる。やはり何でも芯が必要なんだ。

私は今「アルト」に助っ人に来ている。発表会の時だけ、順番に「ソプラノ」から3~4名貸し出される。もう8年になるのに、私達のクラスに「音痴」の方が居るのに初めて気付いた。「アルト」に居たのだ。だから気付かなかった。

何時もは席が離れているので分からないが、先日花見に行った時、隣だったのだ。
「何だか変だ」「何だか違う」という事は分かっていても堂々と歌う彼女が「音痴」だとは気付かなかった。私は歌うことが好きな癖に楽譜が読めない。だから、まだ覚えきらない時点では、自分が間違っているのだと思っていた。

所が先週、どうしても音の外れている人が居るという事で、何度も同じところを歌う羽目になった。突然彼女が「何処が外れているのか、それが分からない」と言い出したのである。普段から喋る人である。その時に彼女は自分が音痴だと知っているのだと気付いた。

先日のように遠慮せずに、違った音程で歌うのである。隣の人は堪ったものではないだろう。「カラオケ」では時々音痴の人に出会ったことはある。でもそれは5分間の辛抱である。しかしコーラスともなれば、表面的には多数の人に声でかき消されているかも知れないけれど、はた迷惑である事は間違いない。

編み物を指導している時も、編み目の揃わない人が居た。出来上がりもげっそりするほど穢い。でも編み物が好きでたまらないようだった。この場合は自分で着るのだから、人様の迷惑にはならないが、この人と同じような気持ちなんだろうか?「分かっちゃ居るけど、やめられない」って。

先生が言われるには他のクラスにも居るって。「余りきつくはいえないし・・・」そりゃそうでしょう、止められると困るんでしょう、先生のメシの種だものね~。

コメント (2)
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