ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

タイメシ

2007年04月09日 | 今日この頃
                カラー
           園芸種のピンクもあるはず
         何処へ? 黄色の様に消えたかな?

今日は楽しみにしていた「タイメシ」(魚のタイではなく、バンコクのあるタイです)のランチを食べる日。以前の3人にプラス3人で、今日は6人のグループ誕生の第一回目。

3人のときはいつも3人がお互いに話していたけれど、6人ともなれば、3対3、4対2、2対2対2と会話グループの波が広がる。4時間がアッという間に過ぎていく。

タイの現地で「タイメシ」は食べた事があるが、あまりに記憶に無い。「タイ舞踊と夕食」と言うプランでは確かに食べた記憶はあるけれど・・・

一体4泊5日間何を食べたか記憶が無い。「たいすき」はたべた。「シーフード」を調理してくれる所でぶったくられそうになった事があった。う~ん、記憶が戻らない。

とても落ち着きのあるお部屋。11時開店で、私達が一番乗りかと思いきや、若い女性グループの先客あり。バイキング形式なので自分の好きなものを取れるのが良い。お代わりの時、再び同じものを取るほど気に入ったお味の食べ物が並んでいた。デザートを入れて3回立ち上がった。

ティールームに移動、お喋りを楽しむ。現在も同じメシを食っている3人、他クラブに移行した1人、勝手に卒業した2人と現在は様々、風変わりな同窓会?

次は8月末、和食と決めて、名残惜しいが、さようなら。

来週から5月に掛けて、過っての仲間の集まりが3っつある。皆、昔の仲間が懐かしいお年頃らしいわ。

          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

作詞家の阿久悠さんは言う。
『愛情の証明は小さなことを忘れないでいる記憶力の誠意だ』
「愛情とは、他人ーー家族を含むーーの言葉をきちんと聞く誠意と、それを忘れないで居る記憶力だ ・・・中略・・・ 会話はこの前提で成立するのである。言うだけで、聞くと覚えるが無いと、愛情には育たないし、記憶力の誠意の無い会話は、不信の増幅にしかならない」

一寸難しいと思うけれど、何となく納得する。

長年共生した夫婦愛って、淡々としたものであるけれど、確かに小さなことを忘れないで居る記憶力はある。何気ない優しさや、反対に傷つけられた事も、全て記憶の底に沈んでいる。この心の宝物を、惜しげもなく捨てて、自由に生きようとするのが「熟年離婚」だ。私の周りでは余り聞かないが、マスコミがはやし立てるように、そんなに多いのだろうか? 私はそんな愚かな女性は多くないと思っているのですが。

今日のグループにも当てはまるのは勿論である。本日は私が一番の年長者である。其の上年齢差は大幅である。夫々の人と夫々の想い出がある。そして其の思い出は普段は私の心の底に沈んでいる。フッと浮かび上がる事がある。それは「懐かしい」と言う感情である。

花の盛りを過ぎたとはいえ夫ある身、いかに懐かしくとも、異性の友人に単独で声を掛けることの出来ない年代である。

其の点、同性の友人は「懐かしさ」だけで呼びかけることが出来る。私の場合「会いたいな~」と思えば、何気なく打診してみる。呼んでもらうのを待つ事はまず無い。でも世の中には呼ばれるのを待つだけの人も居るのである。たまちゃんと私が其の関係で、長い付き合いの間に、一度も誘われた覚えが無い。いつも私が誘って会っている。ご夫婦の間では如何なんだろう。いつも受身なんだろうか?18日に会うので聞いてみようかな。

                   
コメント (2)
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