斑入り額アジサイ
花をつけるまでは斑がはっきりしているが
花を付けると斑ガ目立たなくなる
「バルトの楽園」を見てきた。平成15年11月19日歩き遍路を結願した後、1番霊山寺のお参りに行く途中、鳴門市のドイツ館に立ち寄った。その俘虜所の映画だと言うので今日の封切りを楽しみに待っていた。
バルトとはバルト・ドイツ人の事である。バルト・ドイツ人とはバルト海南岸の現エストニア、ラトヴィアに殖民したドイツ人の事である。
ドイツ館で私の永年の疑問が解けたのである。年末に歌われる「第九」あれの初めて歌われたのは何処か?その時期になると何時も頭の隅にその事が浮かんでいたのだ。ドイツ館で「ここが発祥地」と書かれているのを見て驚き且つ喜んだ。
映画の内容については私が過って書いたドイツ館訪問の文章を転記します。映画はほぼそのままの内容だから。使われている音楽については「第九」は終わりの部分だけで、初めから多い部分は「シュトラウスの美しき青きドナウ」だった。ドイツが誇るドナウだからだろうか? 日本の名曲も出てきたよ。ドイツに帰国する先生に中学生が感謝の気持ちを込めて歌う「仰げば尊し」です。阿波踊りも出てきたね。ドイツ人、日本人入り混じって踊っていた。実際にもそうだったんだろうね。
心に残った台詞「人は信頼されると、その信頼を裏切らないように努力する」だった。本当にそうですね。今の世の中「人を信じてはいけない、疑ってかかれ」ですね。恐い世の中ですから。「人を信じていいよ」といえる世はいつくるのかしら。
平成15年11月20日
私は昨夜から「鳴門市ドイツ館」に行きたいと思っていた。二年前歩き始めて時、山手の高台に白い建物が見えていた。寄りたいとは思ったが、遍路第一目だったので諦めて通り過ぎた。
「鳴門市ドイツ館」は坂東俘虜収容所『BANDOU』の跡地である。日本軍隊では戦争で敵国に捕らえられた状態を『捕虜』と言い、捕虜になった敵国で拘束されている状態を『俘虜(フリョ)』と言うそうだ。
第一次世界大戦が始まると日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃した。敗れたドイツ兵士約5000人が俘虜となり、日本各地に送られたが、その内四国の徳島・丸亀・松山に居た約1000人が1917年~1920年の3年間を坂東俘虜収容所で過ごした。坂東俘虜収容所長の松江豊寿(後に第九代若松市長)は会津の生まれで、「ドイツ兵も国の為に戦ったのだから」と言う広い心で接した。収容所内では文化事業や商業活動も盛んに行われ、有名なエピソードは此処が「ベ-トーヴェンの交響楽九番」がドイツ兵による「徳島オーケストラ」が初めて演奏した場所である事です。有名?私は知らなかったから考えていたのだけど・・・
いま、日本で実施されている保険の機構はこの「坂東俘虜収容所」で実施されていたものを下敷きにしたものだそうだ。収容所はレストランやボーリング場等80軒もの店小屋が建ち並び、テニスや海水浴、演劇等の活動、そして広報紙の発行が行われて、開放的で活気に溢れていた。ドイツ兵の持っていた菓子作りや農産物の栽培加工、建築設計等の技術は地域の人々に伝授され、住民は「ドイツさん」と呼び心通う交流が行われていた。ドイツ兵は収容所の近くに11の橋を(ドイツ橋)を造り、現在も2っ(コンクリートで作り直されている)残っている。
故郷ドイツの帰ってからも、彼らは「坂東俘虜収容所」を偲んで「バンドー会」を作り、集まって徳島の思い出を語り合っているそうだ。
ドイツ館の一階には売店があって、ドイツらしい質実剛健といった感じの、木製の色んな玩具が売られていた。お菓子類も豊富に売られていた。クッキー類を3種類買って帰って、もう買えないからと少しずつ食べた。所が、神戸の輸入品店にどっさり山積み・・・あ~ぁ重いのに徳島から買ってきて損してしまった。自分が大都会の住民である事をすっかり忘れていた故の失敗である。
あれから早3年が過ぎようとしている。二年がかりで9回に分け、年齢の事を考慮して春秋に二度ずつ歩いた四国・・・時には切ないほど懐かしくなる。お遍路さんに対する四国の人の優しさがどんなに励みになった事か。私は最後にこう記している。
とうとう終わってしまった
長かったような、短かったような1300キロ
日本の四季を身近に感じた2年間でした
色々な事が、又、素晴らしい人達との出会いがありました
それがたとえ一期一会の出会いであっても
ふっと思い出した時、私の心は感動で温かくなる
遍路に出てよかったと・・・
花をつけるまでは斑がはっきりしているが
花を付けると斑ガ目立たなくなる
「バルトの楽園」を見てきた。平成15年11月19日歩き遍路を結願した後、1番霊山寺のお参りに行く途中、鳴門市のドイツ館に立ち寄った。その俘虜所の映画だと言うので今日の封切りを楽しみに待っていた。
バルトとはバルト・ドイツ人の事である。バルト・ドイツ人とはバルト海南岸の現エストニア、ラトヴィアに殖民したドイツ人の事である。
ドイツ館で私の永年の疑問が解けたのである。年末に歌われる「第九」あれの初めて歌われたのは何処か?その時期になると何時も頭の隅にその事が浮かんでいたのだ。ドイツ館で「ここが発祥地」と書かれているのを見て驚き且つ喜んだ。
映画の内容については私が過って書いたドイツ館訪問の文章を転記します。映画はほぼそのままの内容だから。使われている音楽については「第九」は終わりの部分だけで、初めから多い部分は「シュトラウスの美しき青きドナウ」だった。ドイツが誇るドナウだからだろうか? 日本の名曲も出てきたよ。ドイツに帰国する先生に中学生が感謝の気持ちを込めて歌う「仰げば尊し」です。阿波踊りも出てきたね。ドイツ人、日本人入り混じって踊っていた。実際にもそうだったんだろうね。
心に残った台詞「人は信頼されると、その信頼を裏切らないように努力する」だった。本当にそうですね。今の世の中「人を信じてはいけない、疑ってかかれ」ですね。恐い世の中ですから。「人を信じていいよ」といえる世はいつくるのかしら。
平成15年11月20日
私は昨夜から「鳴門市ドイツ館」に行きたいと思っていた。二年前歩き始めて時、山手の高台に白い建物が見えていた。寄りたいとは思ったが、遍路第一目だったので諦めて通り過ぎた。
「鳴門市ドイツ館」は坂東俘虜収容所『BANDOU』の跡地である。日本軍隊では戦争で敵国に捕らえられた状態を『捕虜』と言い、捕虜になった敵国で拘束されている状態を『俘虜(フリョ)』と言うそうだ。
第一次世界大戦が始まると日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃した。敗れたドイツ兵士約5000人が俘虜となり、日本各地に送られたが、その内四国の徳島・丸亀・松山に居た約1000人が1917年~1920年の3年間を坂東俘虜収容所で過ごした。坂東俘虜収容所長の松江豊寿(後に第九代若松市長)は会津の生まれで、「ドイツ兵も国の為に戦ったのだから」と言う広い心で接した。収容所内では文化事業や商業活動も盛んに行われ、有名なエピソードは此処が「ベ-トーヴェンの交響楽九番」がドイツ兵による「徳島オーケストラ」が初めて演奏した場所である事です。有名?私は知らなかったから考えていたのだけど・・・
いま、日本で実施されている保険の機構はこの「坂東俘虜収容所」で実施されていたものを下敷きにしたものだそうだ。収容所はレストランやボーリング場等80軒もの店小屋が建ち並び、テニスや海水浴、演劇等の活動、そして広報紙の発行が行われて、開放的で活気に溢れていた。ドイツ兵の持っていた菓子作りや農産物の栽培加工、建築設計等の技術は地域の人々に伝授され、住民は「ドイツさん」と呼び心通う交流が行われていた。ドイツ兵は収容所の近くに11の橋を(ドイツ橋)を造り、現在も2っ(コンクリートで作り直されている)残っている。
故郷ドイツの帰ってからも、彼らは「坂東俘虜収容所」を偲んで「バンドー会」を作り、集まって徳島の思い出を語り合っているそうだ。
ドイツ館の一階には売店があって、ドイツらしい質実剛健といった感じの、木製の色んな玩具が売られていた。お菓子類も豊富に売られていた。クッキー類を3種類買って帰って、もう買えないからと少しずつ食べた。所が、神戸の輸入品店にどっさり山積み・・・あ~ぁ重いのに徳島から買ってきて損してしまった。自分が大都会の住民である事をすっかり忘れていた故の失敗である。
あれから早3年が過ぎようとしている。二年がかりで9回に分け、年齢の事を考慮して春秋に二度ずつ歩いた四国・・・時には切ないほど懐かしくなる。お遍路さんに対する四国の人の優しさがどんなに励みになった事か。私は最後にこう記している。
とうとう終わってしまった
長かったような、短かったような1300キロ
日本の四季を身近に感じた2年間でした
色々な事が、又、素晴らしい人達との出会いがありました
それがたとえ一期一会の出会いであっても
ふっと思い出した時、私の心は感動で温かくなる
遍路に出てよかったと・・・