ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

明日の記憶

2006年06月29日 | 今日この頃
            ゼラニューム
         さし芽でどんどん増える
     この八重は少し確率が悪いが咲かせている

主人は昨日から明日まで2泊3日で「強羅温泉」に行っている。会社のOB会に出ようとしない主人を関東に住む後輩の若い方達が「XXX会」と称して一年に一回呼んでくださる。主人もその日をとても楽しみにしている。天気も上々楽しんでいる事でしょう。

そこで今日は私は「明日の記憶」を見に行った。何とも悲しいと言うか辛い映画であった。この間はこの劇場で「寝ずの番」を見たのであるから、えらい違いである。ご夫婦もちらちら来ておられたが、圧倒的に女性二人組みである。この映画を夫婦で見る勇気は私には無い(ダイジェスト版を読んだので、一人で見よう決めていた)。お互いに当事者になるかもしれない相手が隣に居るのには耐えられない。隣が気になって考える事も出来ない。

隣の席は母娘だった。嫌な予感的中。よほど後ろの空席に替わろうかと思った。見ている内に何度替わっとけば良かったと後悔した事か。小声ではあるが母が娘に話しかける。母がまず泣くので私はつい我慢してしまう。そんな事ありませんか?私は隣の涙を感じると返って冷静になってしまう。

若年アルツハイマーのお話なんですが、現役時代と言うのが本人も部下も辛いですね。退職を勧めなければならない上司の友人も辛いね。自分の目を掛けていた部下の告げ口もつらいね。アルツハイマーのことは書物で読んでいて理解していたつもりでも、それは私の理解であって、身近に病者が居ない私の理解には限度があった。現実に動く映像として見せられると言葉が無い。

友人に1人居る。もう何年経っただろう。彼女ももう何も判らなくなっているのだろうか。「外出は無理です」とのご主人の言葉でクラス会に出てこれなくなって、数年は経つ。男の子3人だったと思う。もうすでに家を離れているだろう。ご主人1人で見ておられるのだろうか。仲良しさんのちよこさんに訊ねても、状態を聞きにくいから連絡を取っていないと言う。彼女と重ね合わせてしまって私にとっては辛い映画だった。

主人公が「私が私でなくなっても・・・」の言葉に「私が居ます。私がず~とそばにいます」と共に泣き、後の暴言暴力に「貴方がしたんじゃない、病気がさせたんだから」そ~言っても長い年月堪えきれずに妻も永年の恨みを吐き出す。病人も何もわからなくなれば(トップシーン)未だしも、まだらボケの時が本人も周りも一番辛く悲しいだろう。

働き盛りであると言う事が苦しみ悲しみを深くしている。妻の永年の恨みの言葉の中に「貴方は家庭を省みなかった」「娘が高校時代ぐれた時も貴方は無関心私1人で耐えた、彼女が第一志望の大学に落ちて部屋に閉じこもっていた時も、貴方は酔っ払ってソファで眠っていた。娘も『お父さんは私の事を思っていない』と言っている」と言う台詞があった。

多かれ少なかれ会社人間の夫は家庭を顧みないようにみえる。我が家も主人が家で晩御飯を食べるのは年に数日、接待と称して毎晩午前様だった。土日はこれまたゴルフウィドウ。でもそれで文句を言った事は無かったと思う。私は私で何か楽しみを見つけていたからだ。唯もし私がボケたら、やはり思いっきり罵るのではないかな~と心配になる事はある。心に蓋をしていても理性が無くなれば噴出す恐れはあるわけで、ボケたくない理由の一つでもある。出来るなら心に納めたままあの世とやらに持って行きたい。

腹の立つ事も一杯あったけど、今となれば助け合うのはお互いしか居ないのだから。熟年離婚した人にはこの気持ちはわからないだろうな~。

  ☆明日6月30日~7月2日までお休みいたします。















コメント (11)
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