豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

下北運河掘削計画

2002-07-25 22:53:47 | Weblog
7月25日(木)晴

    下北運河掘削計画

青森県の六ヶ所村は村内に六ヶ所の村落があるからつけられた名前だ。20年前は辺鄙で、貧しく、何もない、平和で美しい村だった。ここに原燃の処理施設と石油の備蓄基地が作られた。今では、広い舗装道路が何本も作られ、巨大な港が築かれ、得体の知れない建造物があちこちに見られる不思議な光景の村になった。村役場や公民館や体育館、郷土館や学校など立派な建物がたくさんできた。多くの人が農地や漁業権を売ってこの村を去って行った。残った村民の多くが「たまげた便利になった」と喜んでいるのであろう。人間は主義主張よりも生活のほうが重要なのだ。下北半島が原子力半島化しようとしていることに危機感を抱いた僕は対案として六ヶ所村の原燃反対派村長の寺下力蔵に「下北運河の掘削」を提案した。陸奥湾から太平洋に至る下北運河の掘削費用30億円も調達した。六ヶ所村はヤマセと呼ばれる西風の名所だ。陸奥湾の水位は太平洋より1m高い。運河を流れる水流を利用した水力発電と風力発電で国や企業に頼らない豊かな村作りを目指すことを提案した。しかし革新政党にしても革新首長に  しても反対運動の目的の実現よりも、運動そのものに利用価値があるらしかった。運動がなくなると彼らの存在意義も消滅する。それとも僕が危険人物であるからだろうか、彼らは「精一杯戦った」という満足感と、敗北こそ選挙民の支持を繋ぎ止める手段との判断からか、戦うポーズに終始した。

読書:「六ヶ所村の記録」鎌田慧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする