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経営・マネージメント理論の多くで言われていることは、「要素への還元」。つまりマクロ的事象に対する分解と細分化の作用を基本概念に敷いている。しかし実際は、この社会で起こり得る、あらゆる複合的事象というものを分解していくと、実は全体との同一可換性を為さなくなることは、複雑系の数理モデルからも明らかである。
その上でコンサルティング・マナーが実効性を振るうのは、そうして抽出された方法論の一つ一つが、ある種の恣意的な文脈と現場との「辻褄合わせ」により、機能的に働く様を経験主義的に実証している風に見せかけているに過ぎない。アメリカにおいてコンサル側が投資銀行の力学に屈したのも必定と言えよう。
そして内部コンサルであれパッケージであれ、構築改編の執行者は常に対立を産む。企業に取ればソリューション以上に、内部統制のアリバイの意味合いが強い。
つまり技術論の部分以外に関しては、そのような詐術を読み解くか無視するかという姿勢を取ることで、自身の時間をもっと有効に投資できるはずであるが、既に人生を占める有限な領域への投資に忙しく、観察や考える時間の取れない人には箴言となるかもしれない。近年の資本主義経済の高度化に伴って、よりプログラム化された戦略的なポーター理論がドラッカーよりも好まれたのは、そういった理由もあるだろう。(或は『オルフェウス・プロセス』の理念など)
とはいえ、上のような「思想」と呼ぶべき言説は、マネージメントなどの目的を置いた二分法思考の外にあっては、人生における普遍的な価値と真理を単純化するアトラクターとも言うべき魅力を放っている。物事がアトラクターに沿って上手く運ぶように錯覚してしまうのは、それが実証されていないにも関わらず、経験的・確率的に「良い」ことだと知られるようになるからだ。
しかし経営戦略が定着・同様化した現実社会を見れば自明なように、それはゲームの勝敗を決する定式にはなり得ない。マクロ的事象を要素化する恣意的な「個の規定と個への要求」がパラドックスの瑕疵を孕んでいる為だ。
(※ 例の一つとして、経費によって維持されている目的に対して消耗を強いる矛盾=「減るものじゃないし」。しかし極端に言えば、「何もしない」という選択の戦略的価値は最先端の投資理論においても認められているし、逆に当初の目的を度外視した運用が意外な生産性に転換されることもある。)
多くの功績から学ばれた教訓、言葉の真性は、実はあらゆる「思想に先立つ」はずだ。太古の文明から人々が、そして社会が成功者の思想を財産として共有するのは、社会が成功を認めた者の言葉として取り上げられているからであり、彼らの言葉の受け止め方は、実はその因果性とプロセスに遡行して価値を見出されている節がある。
その本質を誰もが実行出来る訳ではないのは、環境や時間的要因よりももっと深刻な溝があるからである。強い思想に囚われたリサンプリングは、それが如何なる実践主義に基づいた方法論であろうとアンバランスを生じるのだ。(その振る舞いがフィードバックされた構造の複雑化に合わせて、ケースパターンの母数が乗数的に増加する。)
それでも尚、人々は「成果」を産むための「自己の信念」を捨てられるわけではない。ただ価値を求め過ぎるなということだ。或は自分が無意識に切り捨てているものの中にこそ、探し物があるかもしれない。
逆に「役に立たない知識に意味は無い」という理念について考えてみよう。意味は知識の文脈それ自体で作用する。役に立つ知識とは、それを道具として使役する価値があるということだが、データの集積が生産性にはならなくとも、生産性とは抽出データの相乗により成り立つものであるから、自ら関わらないに過ぎないものを、意味のない知識があるというのは妙な言い方だ。
医者には「医療知識と技術」の両方が条件とされることに代表されるように、これから先、社会は多くの新しい「テクノロジスト」を擁していくことは間違いないが、それに先立つのは彼らをマネージメントする方法論の議論よりもまず、最適化された「Development (開発の場)」の在り方と運用を見直すことだと、私には思われる。
(皮肉なことにコンサルティング企業は、クライアントの存在意義や案件自体を否定出来るものではないのです。)
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