国会に端を発して巷を騒がせている宇宙人の話題ですが、一部の好事家にとどまらず、それなりの見識を持った人々の間でも愉快な論争がネット上で繰り広げられています。
宇宙人問題というのは、ある意味象徴的なテーマで、実はあらゆる「議論」の普遍性に通じる問題を包しています。宇宙人の存在の肯定、否定に関わらず、「(いるorいない)可能性の話」をしているにすぎないのに、同様に「不確かな推論」を持ち出した主観で「それはありえない」とか「そう考えないとおかしい」と断定調で水掛け論をする人々に限って、攻撃的な論調を繰り広げがちなように見受けられるのが興味深いです。
と、これだけで言いたいことが終わってしまった(笑)
当然、「推論の確かさ」は議論において一定の優位性を持ちますが、そこには彼の推論が実証されているか、あるいは「確からしい」という社会的に構築された論理性のレベルがあり、その人の主張を評価できるのは、アカデミックな共通認識のみであって、誰かの恣意的な推論ではありえません。
つまり、「同等の可能性のレベル」の議論の掛け合いは問題ないけれども、より「確からしい(曖昧さの少ない)」推論に対して、実証性レベルが下位にある推論をもって「前者への否定」とすることは、主張の内容とは無関係に意味をなさない。
例えば、「人間原理」について、人間が存在する世界を現象した微小な可能性に必然を求めるか、偶然と切り捨てるか、「神がやったと考えないとおかしい」と考えるか、各々の主張の説得力は、実は目に見えている論旨の表層とは無関係に、その人の論理の組み立ての仕方に依存します。
(※・・・「誰が考えても確率的にありえないから何かの意志が存在するに違いないだろ、常識的に考えて」というバカげた戯れ言をセントラルドグマにしているID論者は、そもそも議論のステージにあがる資格を持っていない。人間の尺度を思い込みで定義して絶対視しているのは己の方である故に、自然主義者が人間の尺度に囚われているとする矛盾で既に破綻している。逆に「インテリジェントデザインが介入する余地はある」とすることは、そもそも定義する前提が超越的だが、実は論理に叶っている。しかしそのような存在は際限なく定義可能な為、ID論者の自然主義否定のスタンスは、その理論体系に照らしても異質でしかない。
仮に人間をデザインしたそのような知性が存在したとしても、彼らの偏向性と恣意性が何ら注がれるわけではない。全く無関係である。事実、ID論の支持者には議論もまともにできない理系コンプレックスの論客が多い。そして耄碌した理系が唱えているからと言って妄信している。このような有害な思想体系がアメリカの学校で教えられている現実は嘆かわしいものがある。聖書に合理性を強いることこそ神への冒涜に等しくはないのか。さもなくば宗教資本の入り込むトロイの木馬を仕込んでいるようなものである。)
以上の追記については、私が参加しているBio-InformaticsのMLで、バイオ関連研究者へのインテリジェント・デザインに対する意見を募る「調査」がアメリカで行われていることが報告されたことに薄ら寒いものを感じた為、私自身の見解を明確に表明しておいた。
・もっと深刻なキークエスチョンの乖離
「人間原理についての必然性の否定派」・・・確率に支配された宇宙は試行回数が有限であり、有り得なさそうなことは宇宙の年齢を考えると起こりえないと考えるのが自然。だから人間が誕生したのは単なる偶然であり、それ以上の意味はなさそうだ。(偶然=事象は離在する飛び飛びの値に働く関係性の認識?)
※言外の否定・・・「決定論者は、起こりえなさそうな現象が実際に起こることの説明ができていない。」→確率的にありえなさそうなのに起きたから「必然」であると意味付けるのはナンセンスである。現象の生成には何らかのプロセスがあり、不可逆、不確定性のある人間の時間尺度では確率という形で認識可能なのだ。
「人間原理についての偶然性の否定派」・・・宇宙は一部、あるいは全体に必然性を内包しているらしい。重要なのは宇宙の現象の仕方である。そもそも時間の存在そのものが因果の必然性の支配の可能性を示唆するものではないか。時間は人間と言う存在を相補的に担保する遡行的な認識形態である。
※言外の否定・・・「確率論者は、起こりえなさそうな現象が実際に起こることの説明が出来ていない。」→事象の必然性は人間にとっては確率で「計測」できるというだけで、ありえなさそうなことが起きたことを「偶然」で片付けるのは、現象の生成のプロセスに言及できない弱みを抱えている。
[→両者の問題はエルゴート仮説(※遙かに長い時間尺度を取ると、微小な事象は等しい確率で実現する)とフラクタル次元の適用を経由して解決できるかもしれない。ポアンカレ周期(=有限な宇宙時間)の壁は、最近話題になっているランドール博士の無限次元仮説で克服できるかもしれない。]
実はこの両者、主張の中身は単なるネガポジの関係にあり、共通了解が大きく重複しているにも関わらず、お互いに言外の意味を取り違えたまま、お互いの「言ってもいないこと」を勝手に仮想して攻撃対象にしてしまっているのですね。ここでは推論内容を限定しましたが、現実の議論はもっと不確かな情報や思い込み、感情論の応酬で、議論の枠組みと方向性が歪に壊れてしまいます。このブレの大きさは宇宙論特有の問題であると言えます。
こうした議論の罠にはプロの科学者も陥りがちで、偉大な天才科学者が当時の方法論で一万年、あるいは百年先の未来まで覆ることの無い万物の真理を見抜けたかと言えば、決してそうではないということも自明なことでしょう。(特定の論理の指向性は、現在到達可能な認識の枠組みに限定されている)案外専門外のことには不用意で無責任な発言が多いのも、ホーキングやセーガン、ドーキンスの例をとって見るまでもなく、日常至る所で繰り返されている光景です。
最後に、カントが自身の超越論的哲学で否定した「結果の出ない無意味な論争」には真実を求めるのではなく、何がその論争を取り巻く人たちにとって有益なのか、その実効性を鑑みるためには、ナンセンスで議論を掻き回すだけの「否定」は有害なノイズでしかないというのが、私の主張です。
宇宙人問題というのは、ある意味象徴的なテーマで、実はあらゆる「議論」の普遍性に通じる問題を包しています。宇宙人の存在の肯定、否定に関わらず、「(いるorいない)可能性の話」をしているにすぎないのに、同様に「不確かな推論」を持ち出した主観で「それはありえない」とか「そう考えないとおかしい」と断定調で水掛け論をする人々に限って、攻撃的な論調を繰り広げがちなように見受けられるのが興味深いです。
と、これだけで言いたいことが終わってしまった(笑)
当然、「推論の確かさ」は議論において一定の優位性を持ちますが、そこには彼の推論が実証されているか、あるいは「確からしい」という社会的に構築された論理性のレベルがあり、その人の主張を評価できるのは、アカデミックな共通認識のみであって、誰かの恣意的な推論ではありえません。
つまり、「同等の可能性のレベル」の議論の掛け合いは問題ないけれども、より「確からしい(曖昧さの少ない)」推論に対して、実証性レベルが下位にある推論をもって「前者への否定」とすることは、主張の内容とは無関係に意味をなさない。
例えば、「人間原理」について、人間が存在する世界を現象した微小な可能性に必然を求めるか、偶然と切り捨てるか、「神がやったと考えないとおかしい」と考えるか、各々の主張の説得力は、実は目に見えている論旨の表層とは無関係に、その人の論理の組み立ての仕方に依存します。
(※・・・「誰が考えても確率的にありえないから何かの意志が存在するに違いないだろ、常識的に考えて」というバカげた戯れ言をセントラルドグマにしているID論者は、そもそも議論のステージにあがる資格を持っていない。人間の尺度を思い込みで定義して絶対視しているのは己の方である故に、自然主義者が人間の尺度に囚われているとする矛盾で既に破綻している。逆に「インテリジェントデザインが介入する余地はある」とすることは、そもそも定義する前提が超越的だが、実は論理に叶っている。しかしそのような存在は際限なく定義可能な為、ID論者の自然主義否定のスタンスは、その理論体系に照らしても異質でしかない。
仮に人間をデザインしたそのような知性が存在したとしても、彼らの偏向性と恣意性が何ら注がれるわけではない。全く無関係である。事実、ID論の支持者には議論もまともにできない理系コンプレックスの論客が多い。そして耄碌した理系が唱えているからと言って妄信している。このような有害な思想体系がアメリカの学校で教えられている現実は嘆かわしいものがある。聖書に合理性を強いることこそ神への冒涜に等しくはないのか。さもなくば宗教資本の入り込むトロイの木馬を仕込んでいるようなものである。)
以上の追記については、私が参加しているBio-InformaticsのMLで、バイオ関連研究者へのインテリジェント・デザインに対する意見を募る「調査」がアメリカで行われていることが報告されたことに薄ら寒いものを感じた為、私自身の見解を明確に表明しておいた。
・もっと深刻なキークエスチョンの乖離
「人間原理についての必然性の否定派」・・・確率に支配された宇宙は試行回数が有限であり、有り得なさそうなことは宇宙の年齢を考えると起こりえないと考えるのが自然。だから人間が誕生したのは単なる偶然であり、それ以上の意味はなさそうだ。(偶然=事象は離在する飛び飛びの値に働く関係性の認識?)
※言外の否定・・・「決定論者は、起こりえなさそうな現象が実際に起こることの説明ができていない。」→確率的にありえなさそうなのに起きたから「必然」であると意味付けるのはナンセンスである。現象の生成には何らかのプロセスがあり、不可逆、不確定性のある人間の時間尺度では確率という形で認識可能なのだ。
「人間原理についての偶然性の否定派」・・・宇宙は一部、あるいは全体に必然性を内包しているらしい。重要なのは宇宙の現象の仕方である。そもそも時間の存在そのものが因果の必然性の支配の可能性を示唆するものではないか。時間は人間と言う存在を相補的に担保する遡行的な認識形態である。
※言外の否定・・・「確率論者は、起こりえなさそうな現象が実際に起こることの説明が出来ていない。」→事象の必然性は人間にとっては確率で「計測」できるというだけで、ありえなさそうなことが起きたことを「偶然」で片付けるのは、現象の生成のプロセスに言及できない弱みを抱えている。
[→両者の問題はエルゴート仮説(※遙かに長い時間尺度を取ると、微小な事象は等しい確率で実現する)とフラクタル次元の適用を経由して解決できるかもしれない。ポアンカレ周期(=有限な宇宙時間)の壁は、最近話題になっているランドール博士の無限次元仮説で克服できるかもしれない。]
実はこの両者、主張の中身は単なるネガポジの関係にあり、共通了解が大きく重複しているにも関わらず、お互いに言外の意味を取り違えたまま、お互いの「言ってもいないこと」を勝手に仮想して攻撃対象にしてしまっているのですね。ここでは推論内容を限定しましたが、現実の議論はもっと不確かな情報や思い込み、感情論の応酬で、議論の枠組みと方向性が歪に壊れてしまいます。このブレの大きさは宇宙論特有の問題であると言えます。
こうした議論の罠にはプロの科学者も陥りがちで、偉大な天才科学者が当時の方法論で一万年、あるいは百年先の未来まで覆ることの無い万物の真理を見抜けたかと言えば、決してそうではないということも自明なことでしょう。(特定の論理の指向性は、現在到達可能な認識の枠組みに限定されている)案外専門外のことには不用意で無責任な発言が多いのも、ホーキングやセーガン、ドーキンスの例をとって見るまでもなく、日常至る所で繰り返されている光景です。
最後に、カントが自身の超越論的哲学で否定した「結果の出ない無意味な論争」には真実を求めるのではなく、何がその論争を取り巻く人たちにとって有益なのか、その実効性を鑑みるためには、ナンセンスで議論を掻き回すだけの「否定」は有害なノイズでしかないというのが、私の主張です。