lens, align.

Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

Pragma.

2021-10-12 22:27:52 | 日記・エッセイ・コラム


禅宗、仏教における倶舎論・浄土といった宇宙観は、畏ろしいほどにシステマティックに構築されていて、デファクトスタンダードとして克ち得た社会性を殻として、実効性を伴う観念的力学構造を以て、実在論・認識論の対岸にあるsolipsismへの反証として、覚知ならざる人の業を糾おうとしている。



───祖父が急逝した。

今夜は私一人でご遺体と夜を越すのだけれど、不謹慎ながら眼前の仏具・儀式には興味が尽きない。晩年の祖父も、趣味で仏学研究に傾倒した。直筆の写経の掛け軸を自慢げに披露してくれたこともある。長年、海上保安庁で上職を務めた彼には、本庁から今日になって叙勲の話も頂いている。


祖父はとんでもなく厳格な人として恐れられていたけれど、私は幼少時に悪ふざけをした時にしか叱られた記憶がない。政財界と付き合いもあり、仲間想いの人情家であった。海外旅行に料理、最新家電が好きと多趣味で、私の機械好きも祖父譲りなのである。保安艦の機関長を務めていたこともあったという。



近年の斎場は、『禅+ミニマリズム』という仏教的な類似概念に則ったモダン建築と、その機能を支えるハイテクが融合して、まさに近未来の建造物の様相を呈している。



祖父が残した公正証書遺言状に基づいて、私が遺言執行者として相続人代表を務めることになった。

戦前から船舶事業を興した曽祖父の代から、当家の家系図は複雑に絡まっており、この責務は非常に骨の折れる作業となることは容易に想像出来るので、法務局ないし司法書士に一任するつもりではある。




Où est mon étoile ?

2021-10-12 22:00:20 | 日記・エッセイ・コラム


『おもいで星がかがやくとき ("Où est mon étoile ?")』刀根里衣


葬儀会場に置いてあって読んでいたら、もう大変なことに…😭

死者は『何処か』へ行くのではない。
別れを受け入れて、時を動かすことが生の原動力。
大切な人が遺してくれたものは、抱えるものではなく、

押し出してくれるものなのだ。

Nor gates.

2020-02-17 02:02:02 | 日記・エッセイ・コラム

“Since brass, nor stone, nor earth, nor boundless sea, But sad mortality o’ersways their power...” - Sonnet LXV.

『真鍮や石、大地、そして無辺の海にさえ、死の悲しみは降りかかるのだから…』


失うことに本当に意味があるのなら、この痛みを伝える言葉は必要ないはずだった。私たちは正解を探すために生まれたのではないから。私たちは忘れ、過ち、怖れ、隠し、別れ、傷つき、償い、嘯きながら、また出逢う時を待ち続ける。





Moon.

2019-02-14 21:37:59 | 日記・エッセイ・コラム

(Photo by Ivan Kislov)


Once, we did run
How we chased a million stars
And touched as only one can




ようやく埋葬も終えたのでご報告。約10年間ともに暮らしたウサギが、先ごろ天寿を全うし、大好きなおやつと一緒にお月様へと還って行きました。お別れの夜は滲んだ空から小さな雪が舞って、雲間に半月が覗いていました。




心算はしていたつもりだけれど、うさぎの推定年齢が11〜12歳を迎えた頃から、家に着いて抱き締める1日1日が、もう当たり前ではなくなっていた。最期を看取ることが出来たのは奇跡で、そこに横たわる彼を撫でてあげると、いつもおやつをねだるみたいに、前足を掻く仕草をした。





私には君を失った「今」しか残されていないけれど、一緒に過ごした「今」は、この家のそこかしこに、光の残滓のように降り積もっている。たとえ私が忘れてしまっても、ここから決して書き換えようのない道標を刻んでいる。悲しさが深いほど、君を愛したのだと誇りにしよう。この夜は泣くには寒すぎる。




もしまた逢えたなら、今より一分一秒でも長く、愛情を注いであげたい。

おやすみ。






lean on sign.

2015-01-19 19:39:27 | 日記・エッセイ・コラム
人の共有する価値観を決定する尺度(「測度」と言って良いかもしれない)は、客観という名の、他人と交換可能な主観評価のインタラクションと、それによって記述・改訂されるコンテクストの参照の反復である。しかし、人が経験によって語りうることの蓋然性と真理を担保するものは定義できない。

どのようなネットワークにおいてもノード間は一対一で連結しているように、主観は遍在にして一つである。対話は恒にpeer to peerでしかない。次に考えるのは時間という測度だ。人の一生が100年程度であるとして、人の思考や評価測度の論理的蓋然性を保証するのは、その連結と言えるのか

私は甚だ疑問である。論理的蓋然性はニューラルネットワークにおける信号交換の挙動と同値かもしれない。それは知能に関わらず客観を担保し、コンポジットに個人差はあれど、獣も赤子も老師も哲学者も同じように完成されている。だから言語化され共有される客観的測度は、保存強度と同じ意味を持つ。

人類が一万年後に得た知識と、一万年を生きた1人の智慧にどのような違いがあるのか。そこが要点である。人という種の寿命は蓋然性を持って規定され、それに見合った知能を発現させているのかもしれない。


愛とは何だろう。目の前にいる唯一の交換不可能な存在への憧憬。永遠に孤独で誰にも規定されず、その評価測度を決めるのが私だけのもの。私以外の生きているものへの渇望。私のいないところであり、私のいるところ。

愛や渇望を口にする時、私はそれが衝動であることを知っている。性でありアトラクタであると言語化できる。あることを知っている。それと認められることを知っている。そして共有されうることを知るのである。

rubbish_talk.22

2013-03-17 17:48:49 | 日記・エッセイ・コラム
Chandra_x



「宇宙は自らの正体を知る為に心を造った」
ある学者がそう言った。

言葉と心。
意識が現象よりも上位でアプリオリであるはずがない。
しかし共振しているのだ。
混沌の渦を巻く量子が生命を縁取っている。
虚数で記述されるフラクタルが、
局所の振舞いを全体にフィードバックするように。

感情が胸の奥の虚無に向かって流れ落ちる瞬間、
心が芽生える。意識を抱く。
私たちは人に為り変わり、人に恋をする。
あたかも自らを擁する宇宙の相似であるように。
あの特異点を巡って、時に抗おうとする。
しかし私たちが宇宙の映しであるなら、
その心は孤独に還らざるを得ないのだ。
心は不可能性の軛でしかない。

だけど心は時に勝るのだ。
必然と反復こそが、事象を司るのだから。
宿命とは、それ自体が導線であって、
発火の瞬間まで自らを照らし出せないのだ。







rubbish_talk.20

2012-02-08 13:01:04 | 日記・エッセイ・コラム
□ 生命体の意識に根ざす「主観」は、自らの晒されている複雑性事象を認識する過程で、その情報負荷をコンパイルする圧縮過程で生じるのではないかというコルモゴロフ的思索を検証したい。時系列事象はタグ様に分別されて折り畳まれていく。断続的に反復される同一の刺激に無限の反応パターンを保存出来る。

たとえば人生において、同じ音楽を聴いた印象が、状況や経験によって変わるということ。ここに信号と応答差異の定量的分析の余地を見出す。


「音楽」のコルモゴロフ複雑性を圧縮率で計量するという仮説を紹介したことがあるけれど、その後の展開に期待したい | 音楽の美しさと複雑性: 情報圧縮率仮説 Complex simplicity is the best for music. http://t.co/NtfqgXQW




Penguinchan


□ ペンギンは、一度つがったパートナーを変えることはないという。



□ 豊かさは豊かさで買えるし、金は豊かさで買える。そして愛は豊かさで育つというのなら、愛は金で買える市場に並んでいる。

実際に、愛は金で買えるとは言わない。だけど、寵愛の選択基準に豊かさがあることの意味を忘れてはならないし、その努力を怠っては生存競争に負けて死ぬ。愛の味を知らなければ生きながら生き存えることは出来るかもしれない。でもそれを一度でも味わったなら、敗残したときに魂は死ぬ。


貧しさや逆境の中で育つ愛もあることは真理だけれど、人は未定義な豊かさを指向する生物であるが故に、例えどんなに愛し合っていたとしても、あなたの愛する人も、あなた自身も、常に競争に晒されている。人は豊かさの中に愛を評価せずにいられない。その誘惑を断ち切れない。「本当の愛」に値札はある



だけど、自分の何を犠牲にしても良いという愛は、それを実際に成し遂げた後においてのみ、たとえ愛で愛が返らなくとも、他の何にも代えられない価値を得る。私にとって、殉教者のみが勝利者なのだ。




□ 人間は性淘汰されても代替価値を選択可能な社会システムであるということ。実はそこにこそ、苦しみの根源がある。




□ 人間の命に値札はないよ。残酷なくらいに平等。だから皆こぞって持てる価値を差し出して、生存確率の高いパラメータを有する母集団に入ろうとするけど、だからといって自分という一個体のセーフティが保障されるわけじゃない。リスクは平等にふりかかり、そして生産の為の対価を担保するものはない








rubbish_talk.19

2012-02-05 03:32:53 | 日記・エッセイ・コラム


"HEART is the engine of your body but BRAIN is the engine of your life."


-ENIGMA / "Between Mind & Heart"



□ 私は刹那主義なのかもしれないけど、こと色恋に関しては、誰かを、その人物のステータスや「持てるもの」で値踏みをしたことは、ただの一度たりとて無い。惹かれた理由や魅力的な要素は幾らでも後付けできるけど、本当のところ理屈じゃなくて、「気付いたら好きだった」し、否定するにも理屈は通らない

(※ とは言っても、私自身は値踏みされるのは嫌な気はしない。寧ろしてくださいって勢い。)

人が価値観を行使して生きる世の中は、この宇宙にだって、人間の価値の尺度を担保する確かなものなんて、ただの一つも無いんだよ。その茫漠の中で奇跡的に出会えた唯一確かな感情を、そんな不確かな価値なんかとトレードオフするなんて勿体ない。愛はそれ自体で豊穣だけど、豊かさは愛を保障しないよ


でも、価値の尺度の定向性は感情を基盤にしているから、愛と量的価値のトレードは一応成り立つものではあると考える。可塑性を認めるかどうかという問題。


もっと踏み込むと、遺伝子を遺すために優勢な価値を選択するというのは、愛を喚起する本能の仕業ではあるが、だからといって本能それ自体は愛ではない。生命現象の体系上の機構としては愛と本能が一致する解釈が成り立つが、人間の定量的な主観の不完全性に立つと、愛とは本能を欺いて居座る何かである




□ 20歳にとって40歳はダブルスコアだけど、10年、20年経って、お互いの年齢は寿命という尺度に置いて少しずつ近づいていく。ゆえに、人間は経験量によって誰かより賢明になれるというのは全くの幻想であり、その程度は予め限界をアサインされている。




□ 組織体制に弊害があると分かっていても、型枠である組織構造そのものに意思決定が反映されないシステムって、それだけで自己撞着だよね。組織主導で論理性のもとにコンセンサスを導く場面で、組織の任期や体制そのものに根拠がないとか、政治のオープンフレームワーク化との歪みが必ず深刻化してくる。







rubbish talk_10. - 『概論:群と時間』闘争のカウントダウン

2010-09-06 15:06:54 | 日記・エッセイ・コラム
個、組織、国家、世界。これら「個」が形成する「集合」のパターンの推力は、それぞれに異なるパースペクティブに作用する単位時間によって、マクロな動態として得ることが出来る。


個人の行動・技能・組織力の結果が、組織の生産性・安定性・影響力に波及し、国家・民族レベルの規模にまで力学を波及させていく。そして「個」と「組織」のシステマに対して循環する影響力が顕在化し、相互作用させるに有効な単位時間があり、対象となる「群」の規模に依存した閾値ごとのエネルギー準位を伴う。



より「大きな群」の相転移には、より大きな単位時間とエネルギーが併存する。
より「小さな群」、あるいは「個」の変化には、それを「内包する群」の動力学的フィードバックの中で絶えず微視的な作用を引き起こす閾値を超えるエネルギーが注がれている。


依って政治とは、「個」個別の基盤たる「群」の規模ごとに働く実効時間の作用を評価して、有為な介入が可能であるように制御を試みるシステムに他ならない。


たとえば闘争のシステムであるが、「平和」が世界合意であると仮定して、武装解除どころか、核均衡のストレスの中、軍備増強が促されている要因は、それが権力構造拡大の力学である以上に、「軍事」というパラダイムに波及する実効性のある単位時間が、未だ過去の力関係の写像を引きずっているからであり、資本関係・思想・民族間など、あらゆるレベルにおける「群」の規模ごとに統合し難い「作用時間のズレ」が生じる為である。



象徴的な例としては「敵意の反射」がそうである。あなたが銃を持っていて、向かい合った相手に銃を突きつけられている。相手が何らかの要因で銃を降ろした瞬間、あなたの取る行動は自己防衛のために銃を構えるか降ろすかだ。そこに至る経緯にもよるが、「決定的な瞬間」の判断を作用する要素は、自己保存本能の反射により左右されやすい。


ここで致命的なのは二者間のディスコミュニケーションであるが、現実世界における多体間の相互作用においては遠大なほど複雑で、人の意思は到底及ばざるように思える。しかし肝要なのは「群の意思決定」に波及する一人一人の意志の持ちようなのである。


※ これは「知能」の定義に関わる認知発達の要素でもある。人間は環境適応の手段として「思考」の複雑化を進めたが、そもそも思考活動の複雑化は「群」の最適進化とは短絡しない。例えばタンザニアのある地域のライオンの群は、あるがままの知能で、社会のもたらす人間の生活行動の変化に適応し、その安全を脅かし続けている。

ライオンは、ただ自身を組み入れているシステムに従って「群」の構成要素を為していれば、群それ自体の振る舞いによって現状の最適解を導き出していく。ライオンの不幸は、人間を襲うという行為そのものが、自己保存の反作用としてリスクを還流しているという事実を把握出来ていないことだ。そしてこの地球において、適応環境の変化や闘争によって脅かされている人間にも同じことが言えるだろう。




『集合知』から『集合意思』へ。

問題は、世界秩序を脅かし、「群」の摂理と生成を瓦解する「作用時間のズレ」を、個々に有益な形で解消するシステムの構築には至っていないということだ。今や地球上をインターネットが網羅し、その空隙は僅かばかり埋まっているかのように見える。


或は、そんなシステムなど何処にもないのかもしれないし、それが自然の摂理に適うことであるという保証もない。現在は政治が、過去には宗教がそれを託され、結果として闘争が制御されていないのは、我々が既にそのやり方で、我々を突き動かす「時間」の流れ方に適応しているということも考えられる。事実、何者かの「生産行動」とは、どんな形であれ、何者からの「略奪」の裏返しに他ならないのだから。



そして「ファンド」が拡大した現在の資本経済は、時間軸を縦に取った「未来」の資源を食い潰し始めている。同時に、闘争の力関係(バランス)は未来に向かって更に強い拘束力を放っているのである。


バラバラなクラスタ(群)の意志反映の作用時間ベクトルに、非同期でありながら定向性と明示性を齎すソリューション。それこそが世界秩序を覆うリスクを減算する取っ掛かりであると私は信じている。それにはどういったやり方が考えられるか。今こそ議論を開始する必要性が問われるべきだろう。


rubbish talk_3. (コンサルティングの背景思想 ※ 補筆版)

2010-05-23 16:01:55 | 日記・エッセイ・コラム
Marineshadow
(IXY DIGITAL L2; Shutter Speed 6"; iPhoto.)



経営・マネージメント理論の多くで言われていることは、「要素への還元」。つまりマクロ的事象に対する分解と細分化の作用を基本概念に敷いている。しかし実際は、この社会で起こり得る、あらゆる複合的事象というものを分解していくと、実は全体との同一可換性を為さなくなることは、複雑系の数理モデルからも明らかである。


その上でコンサルティング・マナーが実効性を振るうのは、そうして抽出された方法論の一つ一つが、ある種の恣意的な文脈と現場との「辻褄合わせ」により、機能的に働く様を経験主義的に実証している風に見せかけているに過ぎない。アメリカにおいてコンサル側が投資銀行の力学に屈したのも必定と言えよう。

そして内部コンサルであれパッケージであれ、構築改編の執行者は常に対立を産む。企業に取ればソリューション以上に、内部統制のアリバイの意味合いが強い。


つまり技術論の部分以外に関しては、そのような詐術を読み解くか無視するかという姿勢を取ることで、自身の時間をもっと有効に投資できるはずであるが、既に人生を占める有限な領域への投資に忙しく、観察や考える時間の取れない人には箴言となるかもしれない。近年の資本主義経済の高度化に伴って、よりプログラム化された戦略的なポーター理論がドラッカーよりも好まれたのは、そういった理由もあるだろう。(或は『オルフェウス・プロセス』の理念など)


とはいえ、上のような「思想」と呼ぶべき言説は、マネージメントなどの目的を置いた二分法思考の外にあっては、人生における普遍的な価値と真理を単純化するアトラクターとも言うべき魅力を放っている。物事がアトラクターに沿って上手く運ぶように錯覚してしまうのは、それが実証されていないにも関わらず、経験的・確率的に「良い」ことだと知られるようになるからだ。

しかし経営戦略が定着・同様化した現実社会を見れば自明なように、それはゲームの勝敗を決する定式にはなり得ない。マクロ的事象を要素化する恣意的な「個の規定と個への要求」がパラドックスの瑕疵を孕んでいる為だ。


(※ 例の一つとして、経費によって維持されている目的に対して消耗を強いる矛盾=「減るものじゃないし」。しかし極端に言えば、「何もしない」という選択の戦略的価値は最先端の投資理論においても認められているし、逆に当初の目的を度外視した運用が意外な生産性に転換されることもある。)



多くの功績から学ばれた教訓、言葉の真性は、実はあらゆる「思想に先立つ」はずだ。太古の文明から人々が、そして社会が成功者の思想を財産として共有するのは、社会が成功を認めた者の言葉として取り上げられているからであり、彼らの言葉の受け止め方は、実はその因果性とプロセスに遡行して価値を見出されている節がある。


その本質を誰もが実行出来る訳ではないのは、環境や時間的要因よりももっと深刻な溝があるからである。強い思想に囚われたリサンプリングは、それが如何なる実践主義に基づいた方法論であろうとアンバランスを生じるのだ。(その振る舞いがフィードバックされた構造の複雑化に合わせて、ケースパターンの母数が乗数的に増加する。)

それでも尚、人々は「成果」を産むための「自己の信念」を捨てられるわけではない。ただ価値を求め過ぎるなということだ。或は自分が無意識に切り捨てているものの中にこそ、探し物があるかもしれない。



逆に「役に立たない知識に意味は無い」という理念について考えてみよう。意味は知識の文脈それ自体で作用する。役に立つ知識とは、それを道具として使役する価値があるということだが、データの集積が生産性にはならなくとも、生産性とは抽出データの相乗により成り立つものであるから、自ら関わらないに過ぎないものを、意味のない知識があるというのは妙な言い方だ。


医者には「医療知識と技術」の両方が条件とされることに代表されるように、これから先、社会は多くの新しい「テクノロジスト」を擁していくことは間違いないが、それに先立つのは彼らをマネージメントする方法論の議論よりもまず、最適化された「Development (開発の場)」の在り方と運用を見直すことだと、私には思われる。

(皮肉なことにコンサルティング企業は、クライアントの存在意義や案件自体を否定出来るものではないのです。)


舌と慰め

2010-04-30 13:06:22 | 日記・エッセイ・コラム
獣の間にエロスは媒介しないが、
獣性は人の内に認められる。

言葉を織り成し、知性の源泉たる舌の根によって
人は人と結びつき、ときにそれをお互いの慰めとして用いる。

性的な交歓としてこれを接続する場合は、
人を人足らしめているエロスと
獣性を露にする衝動の相克によって
我を失うような感覚に蹂躙される

そしてそれこそが、
エロスの目的として達せられるという事実となる。