Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

JAWS2007@沖縄・宜野湾

2007-10-29 21:04:29 | Weblog
那覇に着いて感じたのは,ここは光り輝く場所だということ。いまだに半袖で過ごせる暖かさ。湿気もない。今朝,那覇の「県庁北前」からバスに乗って30分強,沖縄コンベンション・センターへ向かう。JAWS2007に参加するためだ。参加申込者は150人だという。見たところそんなにいるとは思えないが,すでに沖縄の別の場所にいるか,メインイベントのある明日に登場するのだろう。沖縄に来て,どこにでもある,こぎれいな会議室で3日間過ごすなんて!

会費は情報工学系学会の非会員で当日登録だと26,000円! 受付の人に領収書にハンコが押していないが大丈夫かと聞くと,これまで問題になったことはないと,むっとした顔で返答をいただく。どこの先生(あるいは学生?)か知らないけれど,どうしてそんなに高飛車な言い方をするんだろう・・・と思う。相手が知り合いだったとしたら,もうちょっと親切な対応をするのだろうか・・・。まあ,明日あなたと会っても,顔も覚えていませんから,どうでもいいことですが。

この学会では,いろいろな制御やらリコメンデーションをする「実用志向の」エージェントと,対象を理解するためのシミュレーションを構成する「研究志向の」エージェントの研究発表が並列で行われている。ぼくは後者のみ聴講した。オークション,囚人のジレンマ,計算組織論,人工化学,複雑ネットワーク・・・それぞれ20分前後の発表を理解することは難しい。そもそも学会発表は,同じ領域を発表者と同程度(かそれ以上に)にその領域を深く研究した者でないと理解できないのでは・・・。

そういう意味では,誰でも理解できる発表は,よほど底が浅いか(つまり価値がないか),あり得ないほど天才的で明晰であるか,そのいずれかだろう。自分の研究がそのどちらでもないとしたら,当人が愛してやまない細部の議論を20分に詰め込むことを断念し,その研究の本質的価値,つまり,どこにサプライズがあるかに十分時間をかけて,つまり繰り返し伝えるしかない。同じことが,授業についてもいえるかもしれない(先日のアレは・・・と反省)。

マーケティングは愛か?

2007-10-27 11:25:57 | Weblog
日本のマーケティング学者の草分けの一人,村田昭治慶応大学名誉教授の有名なことばに「マーケティングは愛です」というものがある。最初に聞いたときは,一種のジョークか,あるいは怪しげなカルト教団の教えのように感じた。ぼくはむしろ,マーケティングに対する科学的アプローチを目指す研究者たちに興味を持った(ただし,村田先生も,日本マーケティング・サイエンス学会の立ち上げに貢献されたと聞く)。

それから時を経て,日本のマーケティング・サイエンスの先頭を走ってきた先生から,「最近,マーケティングは愛だということが,だんだんわかってきた」と聞いたとき,若い頃ほどの違和感はなかったものの,実感としては理解できなかった。だが・・・恐ろしいものである・・・最近ぼくもまた,「愛」という切り口の重要性に気づき始めたのだ。それは,加齢が必然的にもたらす,普遍的な現象なのだろうか・・・。

だが,ぼくが教室で「やっとわかった! マーケティングは愛なんだ!」と叫ぶ前に,「愛って何ですか?」という学生の質問に答える準備をしておく必要があるだろう。マーケターが他のマネジメントの専門家と本質的に異なるのは,最終的な目標が利益や企業規模の成長率ではなくではなく,顧客の喜びや感動におかれている点だろう。相手が喜ぶことをうれしいと感じるのが「愛」だとしたら,マーケティングは愛なのだ。

さらにいえば「マーケティング・サイエンスもまた愛」でなくてはならない。そもそも,マーケティング・サイエンスなどなくても,現場のマーケターは困らない。サイエンスが欠かせないバイオやIT業界とは決定的に違う。金融工学とも違う。マーケティング・サイエンスは,いわば押しかけ女房のようなものであり,一方的に愛を注ぐしかない。顧客を幸せにしようと思っているマーケターを,どうすれば顧客ともども幸せにできるのか。そういう研究でないと意味はない。

だから,同分野の研究者しか読まない論文誌への掲載が最終目的のごとく行動することは,マーケティングに関する限り全く価値がない。まして,さらに閉じた世界である学会発表なんて・・・。だが,いまぼくの最重要課題は迫り来る学会や研究会での発表であり,最も渇望しているのは論文を書く時間を確保することだ。そこに愛はないのか・・・せいぜい自己愛しかないのか・・・いや,そうではない。いまは,いつか「愛の世界」に到達するための,長い迂回プロセスにいるのだ。それまではじっと我慢・・・。

ぶつくさ

2007-10-26 02:08:05 | Weblog
全く「雑用」がない一日の半分を,金曜の教材作りに費やす。サービスマーケティングの序論めいたものを書く。夕食はその打ち合わせ。会計学とのコラボに関して,自分の非力さと怠慢を痛感。ミスドのコーヒー代で済むとは思っていない。研究室に戻って依頼原稿を書き終える。明日からいよいよ「研究」を・・・。

大昔に書いた「論文」の照会。いま読むと恥ずかしさで顔から火が出る。やはり,未熟な時期に単著を書くのは間違いだ。そして,世界レベルの研究を知らないで書くことも・・・。もっとも,それを知ればいいというものでもない。久しぶりに MIT の Hauser のウェブページを見たが,何だかんだいってすごい業績だ・・・。

焦りの季節

2007-10-24 23:46:27 | Weblog
「銀行」調査票を同僚と打ち合わせ,調査会社へ見積もり依頼。随分時間がかかってしまった・・・調査設計は一種の回路設計であり,細かなロジックに気をつかう。製品が複雑になるほど調査票も複雑になる。前職では,社内にあらゆる業種・分野の専門家がいて,たちどころに問題が解決した。その点で組織の知というものはすごい。

そのあと,大学院生による大学院進学説明会で司会を務める。教員代表として登場してくれた同僚の才気溢れるスピーチに感心する。彼のいう「一流の心」とはなんだろうか・・・「虚学」ではない「実学」とは・・・いまの職場に来てよかったと思うのは,切っ先鋭い知性も持つ(そして人間性にも優れた)若き同僚たちとの出会いである。

院生たちも,集まったアングラたちに,熱く大学院の魅力を語り,また冷静にその得失を語ってくれた。B3とM1~2は年齢的にさほど変わらないのに,その間に大きな成長が見られる(B1とB3の間もそうだが)。彼らの成長速度は,ある年齢を超えたオヤジには驚愕でしかない。

年末が近づくにつれ,焦りを感じ始める。再来週に部会発表があり,それまでに複雑ネットワーク上のクチコミ伝播シミュレーションを進展させる必要がある。そのあと,自由記述データを用いた非補償型モデリングのリベンジが待っている。そして,決して忘れることは許されない「あの」データ分析も・・・。それ以外にいくつかあって,修論,卒論の提出も・・・。

全部こなせるのだろうか・・・という不安のなか,来週沖縄出張があり,モーターショーも始まる。

本日買った雑誌:

pen No.209「1冊まるごと,現代アート入門!」 ・・・影響受けてます。
まっぷるマガジン No.473「沖縄へ出かけよう」

Creative Management

2007-10-24 11:29:02 | Weblog
昨日は東京への往復の間,佐藤悦子『SAMURAI佐藤可士和のつくり方』読了。本屋に並んで平積みされている,ご主人の著書『佐藤可士和の超整理法』と合わせて読むと,佐藤可士和あるいはサムライが立体的に理解できるだけでなく,親しみや好意がわいてくる。悦子さんは,可士和さんの単なる「マネージャー」であるだけでなく,ブランディングを心がけているというが,まさにそれを体現した「メディアミックス」である。

この本には「あり得ない!」という著者のことばが随所に出てくる。広告会社の営業や外資系化粧品会社のPRを経験した彼女の「常識」が,天才的なクリエイターの行動に制約を課すことで,アートとビジネスを結びつけた新しい試みを生んでいる。ビジネス上のパートナーであることと夫婦であることの間に,特に切り替えが必要とは思わないと彼女は言い切る。可士和氏自身,彼女がいることで360度の視野が手に入ったという。

クリエイティブにマネジメントが必要なことはいうまでもない。ふつうクリエイター組織には管理・支援スタッフがついているし,広告会社であれば,クリエイターと営業,マーケなどのスタッフがお互いに縦割り組織に属しつつ協働している。それがどこまでクリエイティビティを生み出すマネジメントになっているかは,結局,ミクロな関係がどうなっているかに依存する(さらにそこに愛が必要かどうかまではわからないが・・・)。

ちなみにこの本は,カバーを取ると銀色の本体が現れる。そうした見えないところへのこだわりが,著者の本領なのだろう。

1冊読む間に9冊本を買う

2007-10-23 11:37:16 | Weblog
本日届いた本

リチャード・R・ネルソン,シドニー・G・ウィンター『経済変動の進化論』慶應義塾大学出版会・・・ 修士論文を書いている頃読んで,決定的影響を受けた本。いま頃なぜ翻訳が出たのか・・・。改めて読む,というより所蔵しておきたい。

ニコラス・ハンフリー『赤を見る』紀伊国屋書店・・・ 『内なる目』は面白かった(その次の著作は買ったものの読まないまま)。訳書の副題「感覚の進化と意識の存在理由」にはそそられる。面白いに違いない本・・・多分。

ダニエル・ピンク『ハイコンセプト』三笠書房・・・ だいぶ前から書店に平積みされていた。『フリーエージェント社会の到来』の著者であり,気にはなったが,結局買わなかった。だが,脳科学塾で何人かの方が絶賛するので注文。

D・キム・ロスモ『地図的プロファイリング』北大路書房・・・ 副題は「凶悪犯罪者に迫る行動科学」。事件が起きた以上,犯人は必ずどこかにいる。製品が売られている以上,顧客は必ずどこかにいる・・・とはならない悲しさ。

渡辺三枝子『新版キャリアの心理学』ナカニシヤ出版・・・ ホランドの「職業選択の理論」を手早く理解するため購入。もちろん原典に当たるべきだが,新刊書としては絶版,わが大学図書館では長期貸し出し中。amazonのユーズド商品を発注済み。

金明哲『Rによるデータサイエンス』森北出版・・・ Rでできるデータ解析手法がかなり広範に紹介されている。なかには「集団学習」なんていう,聞いたことがない手法がある。この種の本を買っているだけではダメなのは重々承知。

わくわく,どきどき

2007-10-21 23:55:03 | Weblog
フジテレビ夜9時の「プレミアA」に日産のゴーン社長が登場,今週末から始まるモータショーで発表される,復活した GT-R を紹介していた(・・・もはや「スカイライン」というブランドから切り離されている)。番組のなかで安藤優子キャスターが,大学時代のカレシが(当時はスカイラインの)GT-R で校門まで迎えに来てくれたというエピソードを語っていた。そして,彼が好きだったのか,彼が持っている GT-R が好きだったのか,と照れ気味に自問して見せた。

クルマも恋愛も,人を「わくわく,どきどき」させる。その2つが同時に重なった場合,どちらが原因で結果なのかわからなくなるが,その連合が思い出として強く残ることは間違いない(自分に過去そんなことがあったのかどうか,最近ではよく思い出せない歳になってきた・・・)。最近,若者がクルマ離れしているというが,クルマが「わくわく,どきどき」感を生まないということだろう。GT-R は団塊の世代がターゲットだろうけど,若者にもアピールするだろうか。

ひょんなことから,エンタメの選好形成の研究について考えることになった。この「ひょんなこと」が意外と神の啓示かもしれない(偶有性・・・?)。エンタメは,映画であれ音楽であれゲームであれ,まさに「わくわく,どきどき」が本質だ。狭義のエンタメを超えて,クルマであれ家電であれシャンプーであれ「わくわく,どきどき」という軸で見ると,もっと見通しがよくなるのでは。だとすると,かなりポテンシャルの大きな視点を獲得したかもしれない。早くそっちに行かなくては・・・。

だが,そんなことよりも,自分の生活で「わくわく,どきどき」できたほうが,もっと幸福であることは間違いない。

整理=問題解決

2007-10-20 20:05:07 | Weblog
佐藤可士和の超整理術』読了。最後に著者は,整理と問題解決は別次元の話ではなく,「同じベクトルでつながっている」と述べる。整理のプロセスは,要素にプライオリティを付け,プライオリティが低いものを捨てることだから。確かにそうかもね・・・部屋のあちこちに、様々な書類や書籍が雑然と積まれている状態では,効率よい仕事はできない。それは優柔不断さの表れであり,問題解決能力の低さを示しているのかもしれない・・・と反省。近々研究室の大整理に取り組もう。

昨日は,まず金融サービス調査の調査票設計で専門家の意見を伺う。次いで,選好形成の調査や分析について共同研究者と打ち合わせる。人と話すことで論点が整理され,自分では気づかない視点を与えられ,見通しがよくなる。佐藤氏は,整理(問題解決)のプロセスは「状況把握」「視点の導入」「課題設定」だという。たとえば,引いて見ることで,新たな視点が獲得される。自分としては,一人で没入せずに,人と対話することで視点を転換することが重要だと思う。

最後に修論の打ち合わせ。データは徐々に整備されつつあるので,そのあとの分析をどう進めていくかが勝負になる。そこでも「視点」をどう持つかは非常に重要だ。検証される価値のある仮説を立て,適切な分析手法を適用し,うまくいかない場合の迂回策を考える。ぼくレベルの指導教員は,学生とともに狭い視点に落ち込みがちなので,要所要所で第三者から(建設的な)コメントが得られることが望ましい。そうした環境をつねに整えておくこと・・・これも今後の課題である。

中年童貞 vs. おひとりさま

2007-10-17 22:33:22 | Weblog
昨日は「クルマ」の調査票にようやく目途がついた。もちろんこれからが本番であり,どれだけ調査できるか,まだまだゴールは遠い。夜は丸の内で開かれた,MBFのパーティに出た。参加者の多くは大企業のビジネスパーソンたちだが,そのなかに同じビルにオフィスを持つ,若い起業家たちが混じっていた。彼らは知らない面子ばかりのパーティで,積極的にネットワークを広げようとしていた。ビジネスでの成功を目指す人は social でなくてはならないようである。

行きの電車で読んでいたのが,渡部伸『中年童貞』。一部の男性が「恋愛市場」から完全に疎外されている。これは少子化を加速させる大問題だと著者は指摘する。なぜ女性と付き合えないかというと,容姿や経済力の問題もあるにせよ,最終的にはコミュニケーション能力の欠落に行き着くという。それについては,ぼくにも共感できる部分がある。パーティで,面識がない女性になかなか声をかけにくい。単なる社交でしかないのに,つい遠慮してしまう。

一方,帰りの電車で読んだ上野千鶴子『おひとりさまの老後』は,その正反対の極にある。実際,上述の本で,上野氏はコミュニケーションできない男の苦悩がわかっていない「強者」だと非難されていた。彼女にすれば,そんなの関係ねえ,という感じだろう。女性はずっと未婚でいるにせよ,離婚するにせよ,あるいは夫と死別するまで暮らすにせよ,最後はひとりで生きることになる(シングルアゲイン!)。そのとき,まさにコミュニケーション能力が活きてくるのだ。こちらはあくまで前向きで,たくましい世界。

それはともかく,今日はいくつか軽めの会議があって,夕方から「サービス」調査票の仕上げ作業。早く終えて,学会に向けた研究を開始せねばならぬ。あと,あれやこれやも。

今日届いた本:
大塚裕子,乾孝司,奥村学『意見分析エンジン:計算言語学と社会学の接点』コロナ社

「生成的」社会科学

2007-10-15 22:37:37 | Weblog

今日は卒論打ち合わせ一件。アフィリエイト広告に関するエージェントモデルの骨格がだんだんできてきたが,シミュレーションはまだまだ先である。どこに面白さが現れるのか,いまのところ見当がつかない。

今日届いた本:

Joshua M. Epstein, Generative Social Science: Studies in Agent-Based Computational Modeling, Princeton University Press  ・・・人工社会研究の第一人者といっていいだろう著者の論文集。有名なアナサジ・インディアンの移動に関するシミュレーションを始め,多種多様な分野への応用が集められている。

彼のいう generative social science とはどう訳せばいいのだろう。「生成的」ではおかしいだろか? 生成的とは,シミュレーションはやってみなきゃわからない,疑似進化プロセスのなかで,瓢箪から駒が出てくるのを狙う,というと大誤解だろうか。

駅ビルで讃岐うどんを食べ,駐車券にスタンプを押してもらおうと思ったら,その金額では足りないという。そこで本屋に行き,昨日あたりから気になっていた次の本を買う:

有田隆也,心はプログラミングできるか:人工生命で探る人類最後の謎,ソフトバンク・クリエイティブ ・・・こちらは人工生命の研究者による啓蒙書。二色刷で参考書のような印象。副題を見て一瞬「人類の最後はどうなるかという謎に対するシミュレーション」かと思ったが,「人類にとって最後の謎である心を研究する」ということのようである。そりゃそうだ。

佐藤哲也,未来を予測する技術,ソフトバンク新書 ・・・著者は地球シミュレータの研究者とのこと。「経済・社会現象のシミュレーション」について言及している箇所がある:

(諸々の理由で経済・社会現象の)・・・正確な予測モデルを作ることはできない。しかし逆にだからこそ,誰もが手頃に参入できる,興味あるシミュレーション分野であることも事実なのだ。

どうせ不正確なんだから,好き放題できる? はい,そうさせてもらってます(苦笑)。これをもって生成的(generative)と呼ぶ,などというと,ふざけすぎか。

一方,「サービス」満足度調査のため,あがってきた調査票に手を入れる。このままでは「専門家」に見せられない。「今夜」中に終わらせることができるのか・・・この作業は,あんまり「生成的」でない気がする。


また停電

2007-10-13 23:41:27 | Weblog
この土日,大学が停電のため,研究室が使えない。その間サーバも停止。メールは一切来ない。最近,停電やサーバ停止が多いように感じる。こういうことでさえ,悪い予兆のように感じてしまう。

統計手法はどこまで必要なのか

2007-10-12 23:19:30 | Weblog
今日の実習では,各チームが質問紙調査の分析結果を競い合った。仮説を立てて分割表へのカイ2乗検定など基礎的な検定を行うグループ,いろいろな図表を作って直観的な解釈を積み重ねていくグループ,ロジスティック回帰など多くの手法を動員しすぎて迷路に迷い込んでしまったグループ・・・やはりいろんなアプローチが現れて面白い(だが9チームの発表を順に聞くのは正直いってキツイ)。

最後に教員から決定木を使った「荒っぽい」分析を紹介する。多数の変数があるとき,当りをつけるのに便利な手法ではあるが,多くの有用な情報が無視される可能性があることを述べる(ああでもない,こうでもない・・・)。学生たちは今後経営工学を学ぶなかで,より「高度」な分析手法を習得していく(はず)。だがそれによって,どんな価値ある情報が得られるようになるだろうか・・・。

今冬のJIMSでは,CRMをテーマとしたセッションが企画されている。予定される演題を見ると,CRMというよりは,単に消費者パネルデータの分析というテーマにしたほうがいいような印象を受ける。分析手法の「高度化」は,実務家にどんな福音をもたらすのだろうか。一流学術誌でさえ,掲載された手法のほとんどが実用化されることなく終わる(いわんや・・・)。99%が捨てられても,1%が使いものになれば御の字かもしれない。その1%のために,99%が必要かどうかが問題だ。

いずれにしろ,優れた1%のおかげで統計手法やデータ解析手法は進歩し,統計パッケージに反映され,実務家の利用に供せられる。この秋,SPSSはバージョンアップする。新たにニューラルネットが可能になるが,この手法を使ったことがなく,使う予定もないぼくには関係ない。一方,多重共線性があっても平気な Partial Least Square 回帰というのは,ちょっと気になる。回帰分析の悩みが一つ減るのだとしたら魅力的だ。

どこまで,いつまで新たな手法を追いかけていけばいいのだろうか? 平均的なマーケティングの実務家にとっては,基本的な検定手続きいくつかと回帰分析,主成分分析あたりで十分ではないかと思うことがある。それじゃあ40年前の多変量解析であり,あまりに古すぎるというなら,もう少し付け加えてもいいかもしれない。何を加えるべきかは,立場によって異なる。幸い,実務家を対象に統計学やデータ解析を教えるわけではないので,結論を急ぐ必要はない。

研究のためには,オリジナルの分析手法が必要となる場合がある。たとえば非補償型の選択ルールは,既存の統計手法では扱いにくい。そこで,二度と使われない99%の側の手法が1つ増えるが,しかたない。とりあえず,自分の研究用に必要なのだ。一般へ普及したいなら,回帰のような普及した手法で近似的に解を出す方法などを考えるべきだが,それは次のステップだ。それが学術的に評価されるかどうかはわからない。

大学は実務家に何を教えることができるのか

2007-10-11 23:57:12 | Weblog
今日,企業で研究に従事されている方からもらったメールに,サービスを大学で研究できるのだろうか,という疑問が書かれていた。某大学で非常勤をしたり,別の大学の研究グループとコラボレーションしている方であり,大学の実態にも通じている。一方,企業出身とはいえ,5年近く大学で暮らしているぼくには,見えなくなったものもあるかもしれないと,少し反省する。

さるプロジェクトの申請で,ORやデータ解析を駆使してイノベーションを起こす人材を育成する,と提案したところ,ある審査員から,そういうアプローチでイノベーションが起こせるはずがない,という批判を受けたそうだ。金融工学では数学を駆使してイノベーションを起こしている。マーケティングのような人間くさい領域では,そんなことは無理なのか・・・そんなことはない,グーグルでは,Ph.D.たちが結集して画期的なサービスを生み出しているではないか。

とはいえ,日本の大学はスタンフォードと同じではない。アカデミズムと実践の乖離が依然として大きいまま,産学協同や社会人向け教育が推進されている。退職した企業経営者や経営幹部を教員に受け入れるだけでは十分でない。米国のように,大学と企業の間をつねに人が行き来している風土が必要である(・・・なんて書くと,お前は企業に戻る気があるのか,戻って役に立つと思うのか,と指弾されそうだ)。

今日の脳科学塾では,参加している実務家の方々からのプレゼンが行われた。脳科学というものを手がかりに,それぞれが考えるブランド戦略や組織マネジメントが次々と語られる。彼らが知りたいのは,ビジネスを遂行する上での運転スキルや交通法規のようなものだろうか? それとも,夢をかなえる魔法の杖だろうか? そうではなく,どうもご自分のなかにある漠然たる思いを,もう少し確たるものとして明確化したい,ということのように感じた。

その際必要となる知識は,多少論理的な厳密さや実証的基盤を欠いたとしても,洞察に富み,発想を刺激してくれるものだと思われる。そうしたことばは,偉大な哲学者や天才的芸術家から発せられることが多い。科学のことばは,むしろ逆の作用をするおそれさえある。だとすると,科学志向の大学教員は,どうすれば実務家の思いに役立つことができるのか。彼らの思いを学界で受け入れられる論文にすることだろうか。それが可能として,それだけでいいのか・・・答えは出ない。

相転移を起こそう!

2007-10-10 21:24:09 | Weblog
昨日,久しぶりに東大本郷キャンパスに行く。来年から,博士課程の授業料を実質ゼロにするという。総費用10億円! まさにトップ企業によるダンピングだ・・・そんなことしなくても競争力がありそうなのに・・・トップ企業ほど危機意識,競争心が強いということか・・・競争相手は国内ではない,とのことのようだが。それはともかく事務の方は,いつになく親切であった。

そのあとMMRCで打ち合わせる。ここの院生の皆様も,来年から学費がタダになるんだ・・・。そのあと西に向かい opinion dynamics の勉強会。マックをウィンドウズ・マシンとしてだけ使っている例を見て驚く。ただ,ノート型とはいえかなり重く,ふだんの持ち歩きには向いていない。キーノートで学会報告したい気持ちは大であり,そろそろと思うのだが・・・。

夜は,複雑ネットワーク研究の第一人者である増田さんを研究会にお招きして,ネットワーク上の情報伝播そして進化ゲームの研究についてお聞きする。最初に増田さんは,複雑ネットワークが十分複雑なので,そのうえでのエージェントの行動はなるべく単純化して,何が起きているかを明確に理解すべきだと語る。どきっとする。

情報伝播は,感染症モデルで分析できる。そこにネットワーク構造を入れた研究が進んでいる。一般にスケールフリーネットワークでは感染が早いが,例外もあるという。また,ウィルスとアンチウィルスを扱うモデルでは,ベキ指数がある臨界点を超えた瞬間,パラメターの効果が大きく変わる。このような臨界点は,多くのモデルで3とか2.5とか,きりのいい数字であるという。美しい!

複雑ネットワーク上の進化ゲームでは,利得に参加コストを入れることが提案される。利得がすべて正値の場合,ハブほど大きな利得を得ることが自明になるからだ。参加コストの導入は,ランダムグラフでは結果に影響を与えないが,スケールフリーになったとたん,大きな影響を与える。ある段階で,ハブほど損をする状況が生まれるのだ。

複雑系の研究の醍醐味は,一つには,より単純なモデルから,何らかの相転移を導くことだろう。今朝届いたメールには,増田さんからぼくらの論文へのコメントが添えられていた。彼ほどの才気がなくても,頑張って,ささやかながら面白い結果を出そうという意欲がわく。午後の会議で秋山さんと,昨夜のセミナーを振り返る。そのあと,長い会議を経て,修論,卒論の打ち合わせ。

今日届いた本:

佐藤可士和『佐藤可士和の超整理術』日本経済新聞出版社 ・・・これを読んで,ぼくもクリイティブになろう。

Raymond Pettit: Learning from Winners: How the ARF David Ogliby Award Winners Use Marketing Research to Create Advertising Success, Advertising Research Foundation ・・・副題の如し。いつか教材に使えるかも。

Gad Saad: The Evolutionary Bases of Consumption, Lawrence Erlbaum ・・・消費への進化心理学的アプローチ。文中に数表が少ない。つまり,進化心理学では実験やデータ解析はあまり行われず,基本は「お話し」だということ。それが悪いというのではない。

Peter Diamond and Hannu Vartiainen: Behavioral Economics and Applications, Princeton University Press ・・・各章を眺めるが,すぐに読みたいところがない。なぜ注文したか忘れたが,おそらく執筆者やコメンテータの名前に惹かれたのだろう・・・。

匂いが生むアディクション

2007-10-08 10:59:25 | Weblog
映画「パヒューム」は,人間の知覚と選好(嗜好)について,いろいろ考えさせる。傑出した嗅覚を持つジャン=バティスト・グルヌイユは,悪臭に満ちたパリの魚市場で産み落とされる。悪臭が彼の能力を生んだわけではない。魚と蛆虫がうごめく場所から高貴な香水が漂う場所までの匂いのスペクトラム・・・彼はそのすべてを吸収し,最後に元の場所に戻る。

少年時代のグルヌイユは,ありとあらゆる事物の匂いを吸収する。遠く離れた場所にある岩石や水のなかの蛙の卵まで,その匂いを知覚し,記憶し,学習する(ただし,ことばと対応づけることなく)。悪臭も含めて,すべてが愛でられるように・・・悪臭は本来生理的に回避反応を起こさせるが,人間はそれすら好むことができる。したがって,そこには強い,排他的な選好はないように思える。

グルヌイユが初めて強いポジティブな選好を形成するのは,なめし革職人の親方に連れられて,パリを訪れたときである。最初は果実の香りに引かれて,それを売り歩く少女のあとをつける。その匂いは彼女自身の匂いと混合している。グルヌイユは彼女の匂いに関心を持ち,不幸な出来事を起こし,その後の「探求」の契機になる。

グルヌイユは香水の調合師として雇われることに成功し,雇い主に富をもたらす。グルヌイユ自身の動機は,匂いを永遠に保存する方法を獲得すること。そして女性,とりわけ美しい女性の匂いを保存し,究極の香水を調合することだ。そのために多くの女性が殺される。彼の探求は,貴族の美少女ローラの匂いを収集することで終結する。

ローラとの出会いもまた匂いから始まる。だが,無粋なことをいえば,美しい女性の識別につながる特別の匂いがあるとは思えない。性別や若さは匂いに現れ,香水は身分や富裕さの識別を可能にするが,それだけで美しさは特定できない。美しい女性を選択的に襲うことは,視覚的な信号なしにはあり得ない。

最初にグルヌイユが女性を殺したとき,きっかけは果実の香りが好意を引き起こしたと思われる。そのあとその女性の体臭に関心を持ち,彼女を誤って殺したあと,その身体をくまなく嗅ぐことで,視覚に基づく選好が精細なレベルの嗅覚と連合された。その後,それは匂い自体への選好へ転移していったと考えられる。彼は嗅覚に帰結させることでしか,選好形成を完結できないのだろう。

他のモダリティから発した選好であっても,嗅覚と結びつくことによって,感情の深部に根ざすようになる。そこから強いアディクションが生まれる。意識やことばが関与しないほど,嗜好として強く持続すると考えられる。その意味で,味覚や触覚もまた同じ効果を持つだろう。そうでないとしても,マルチモーダルな知覚が連合することの効果は大きい。

最近,アディクションこそ,マーケティングにおいて関心を持たれるべき選好形成のメカニズムを理解するうえで,重要な鍵になると考えている。アディクションには,元々心理学や精神医学の研究がある。その対極として,アディクションを合理的な選択とみなす Gary Becker の立場があり,中間に行動経済学の研究があると思われる。

ぼくも何かにアディクトする。視覚,聴覚だけでなく,味覚,嗅覚,触覚など全感覚を総動員して対象を愛で,学習する。そのためには,ふだんからつねに「鼻」をうごめかせ,あらゆる信号を見逃さぬように首を振り振り歩いていく必要がある。