Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

身近に迫る「事業仕分け」の影響

2009-11-30 08:09:59 | Weblog
「マーケティング・リサーチの寺子屋」の最新投稿を読んで,意外と身近なところに「事業仕分け」の影響が及んでいることを知った:

「日本版CSI」は廃止か?!

ここで話題になっている「サービス産業生産性向上支援調査事業」には,よく存じ上げるマーケティング研究者が多数参画されている。そこで気になって,ある先生のブログを見ると,このことに関連するコメントが掲載されていた:

民主党の事業仕分け

自らが関わるプロジェクトの予算が削減されたり廃止されたりすることに,本当は忸怩たる思いをお持ちにちがいないが,非常に冷静に,客観的に事態の推移を見ておられるのはさすがである。自らの研究費が削られようとするとき,冷静でいられないのがふつうで,今回,期せずしてそうした姿を見せてしまった高名な科学者たちもいた。社会科学者は自然科学者に比べて,自らの研究の社会的側面に対して,科学的な見方ができるということだろうか。

上述のプロジェクトについては,仕分け人から,民間に任せればよい,という指摘もあったという。たとえば,企業横断的な顧客満足度調査は民間でもできないことはない(ブランド資産の調査など)。しかしその場合,誰もがその結果にアクセスできるかたちにはならないだろう。そのことが,中小企業が多いサービス産業の支援につながらないとしたら問題だ。もちろん,そうしたデータがサービス産業の生産性向上に役立つのかという論点が別にあるわけだが。

いずれ来年度の科研費の予算総額も決まるはずで,自分が研究代表者として申請したプロジェクトはもちろん,分担者として申請中のプロジェクトの行く末が気になる。これは「世論」と政策決定の相互作用を問うもので,参院選のある来年度に一回目の調査ができると大変うれしい。この研究は,世論の支持が大きい事業仕分けという仕組みを評価するうえでも,非常に有用なはずだ。しかし科研費の予算総額が減ると,採択はより難しくなるかもしれない。

それは個人的な思いだが,それを離れていえば,この際,科研費等の競争的研究資金のあり方を徹底的に見直してほしいと思う。期末に無理矢理予算消化することで,集計すると相当のムダが生じているはずだ。大型プロジェクトが開く豪華な国際会議はどこまで意味があることなのか。特定企業の利権化していると噂される超大型プロジェクトについては,その真偽を精査してほしい。一方,若手研究者の研究活動に資する費用は確保していく必要がある。

結局は,科学技術政策のグランドデザインはどうなっているのか,というよくいわれる議論に行き着く。そこで有識者を集めて・・・などとやっていると時間がかかりそうだ。ただ,それ以前に,常識の範囲でムダをなくし,フェアな配分の仕組みを作ることは可能ではないのだろうか。・・・偉そうなことを書いていると,来年お前の科研費が不採択になったのは,ムダをなくしフェアな配分を行なった結果だと宣言される目に遭うかもしれない。ああ・・・
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人と人とを試験管で混ぜてみる

2009-11-28 12:41:22 | Weblog
昨夜は消費者行動のダイナミクス研究会で,電通大の芳賀さんが日経リサーチ,KDDIと共同で開発した「クロスリファレンスリサーチ」の話を聞いた。これについて聞くのは,8月の行動計量学会以来。何度か話を聞くことで,この手法は画期的で革新的だが,そうであるがゆえに,その意義を正しく理解して活用することにも,発想の転換が必要なことがわかってきた。

この調査手法はケータイを用いる。最初にあるお題を与えられた対象者が書いたコメントが,ランダムに(制約をつけることは可能)他の登録された対象者に転送される。それを見た対象者がそこに加えたコメントが,さらに転送される。これが繰り返され,他者からあることばを受け取った消費者がどのように態度を変え,どのようなことばを発するかが観測される。

こうしたことばの連鎖は,従来であれば掲示板のレスやブログのコメントで観測された。そこでは,いうまでもなく連鎖は自発的に起きている。それを人工的に行うことで連鎖を加速化し,どういう変化が起きるかを実験的に測定する。態度変容をスケールで答えさえたり,当事者のプロファイルを事前に把握できたりすることが,自然なフィールド観察ではできない点だ。

これは,自然な状態では起き得ない人と人の(ことばのみを通じた)接触を人工的に作りだし,そこで起きる変化を観察しようとしているわけである。したがって,それはいわば,化学者が異なる物質を試験管に入れて,混ぜたり熱したりするのと同じだ。そこから,自然に任せておいては発見できないような,新しい意識やことばが生成される条件を探ることになる。

したがって,重要なのはマクロ的な観察よりは,これとあれがこういう条件で結びつくとこんな事象が発火しやすい,というミクロな観察である。あえていえば,個別事例を見ていくことが最も生産的で,次にアソシエーション・ルールのように局所的にしか現れないが普遍性のあるパタンを見つけることが有益になる。そして,これが新しい物質だと見抜く目も必要だ。

続いてぼくが発表した研究は,それとは正反対に,実データを用いながらも抽象的で,個人の異質性は最小限しか見ていない。どういうことばが行き交ったかという具体性もない。ただ,クロスリファレンスリサーチから得られたデータに,このモデルを当てはめることもできる。というのは,そこでは個人の態度変容と他者との接触が詳細に記録されているからだ。

この研究では,Goldenberg, Libai, Muller らが考えたエージェントモデルを,2時点で観測された会話ネットワークの拡大と態度変容の双方に適用しようとしている。昨夜の時点では,実証分析としてはまだ完成していない(いま,まさに計算を続行中だ)。苦労しているのは,データの時点が2つしかないこと。その欠落を調査対象者の数で補おうとしている。

クロスリファレンスリサーチでは,個人間の関係は外側から決められるので,われわれのモデルを内生変数が1つ(態度または採用)に縮小することになる。そこを,何時点にも及ぶ態度変容のデータに適用すれば・・・。しかし,それで何がわかるの?といわれたら返すことばがない。もう少し意味のあることがわかるような拡張,それが今後の課題である。
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縮小する音楽市場で成長するには

2009-11-26 23:49:19 | Weblog
本日の授業では,音楽小売業界大手でマーケティング部門を率いるSさんをゲストにお招きした。冒頭,この市場が大幅に縮小し,オンラインからのダウンロードを加えても,往時の水準に遠く及ばないことが示された。ミリオンセラーも限られるようになった(しかもそのほとんどは,芸歴が長いアーティストだ)。その一方で,新たにデビューするアーティストの数は激増している。業界として,試行錯誤が続いているといえるかもしれない。

Sさんの会社は,そのなかで見事なCRM戦略を展開している。コミュニケーションを顧客にカスタマイズすることで効果は何倍にも跳ね上がるという。こうした実践は画期的であったが,それが浸透すればするほど,より大きな効果を出し続けることは難しくなるだろう。しかし,臆することなく新たなイノベーションに挑もうとされている。これこそクリエイティブ・マーケティングの典型例だ。その根底に,音楽は人を幸せにするという信念がある。

音楽に対するニーズが減っているとは考えにくい。音楽は「ながら」が最も容易にできるコンテンツなので,他のメディアやコンテンツと共存しやすいはずだ。しかし,事実として市場が縮小しているのは,どういう変化が背後にあるのだろうか?もっとも,大型二輪市場が縮小しているのに,独り売上を伸ばしたハーレーダビッドソンの例もある。この厳しい市場環境下で利益を増加させる戦略が可能かどうか。それに貢献する研究が求められる。

ぼく自身は,以前からの持論である,ロングテール論と顧客ポートフォリオ論の組み合わせで,何か見えてくると思っている。来年の大きなテーマとなる(他のいっぱいのテーマとともに)。あらためてその思いを強くした。
 
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泣きたい

2009-11-26 00:46:41 | Weblog
いま,いろんな意味で「泣きたい」気分である,泣いてすむなら,いくらでも泣きたいところだが,それで金曜夜の研究会での報告や来週末の学会本番で「許してもらえる」はずがない。しかし,泣くことでリフレッシュできることは確か。直面する「山」を越えたら,「泣ける映画」を見て泣きたいと思う。

BRUTUS 12/1号で「泣ける映画」1位に選ばれたのはフェリーニの『道』。「恋愛」部門1位は『シェルブールの雨傘』。とりあえず,若き日のカトリーヌ・ドヌーブを眺めながら泣いてみたい。上位5位に2つ中国系の映画が入っている。『初恋のきた道』と『欲望の罠』だ。中国映画の勢いは止まらない。

BRUTUS (ブルータス) 2009年 12/1号 [雑誌]


マガジンハウス


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泣くためには,昔懐かしい風景を見て思い出に浸るという手もある。昭和の記憶を持つ人々は,以下の雑誌をぜひ買うべきである。表紙が象徴するように,この特集は昭和の集合住宅から始まる。そして,風俗,流行,「スタア」,食品,クルマ,家電製品などが網羅される。これで680円はムチャクチャ安い。

男の隠れ家 2009年 12月号 [雑誌]


朝日新聞出版


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経済学における「物語」の可能性

2009-11-24 23:46:56 | Weblog
アカロフ-シラー『アニマルスピリット』は,三省堂書店本店で長らく平積みされるなど,一般向け経済書として売れている。この本を一言でいうなら「行動マクロ経済学の構築に向けたマニフェスト」であって,決して「行動マクロ経済学入門」ではない。訳者の山形浩生氏は「本書が想定している読者は・・・既存のマクロ経済理論にどっぷり浸かり、それを空気のように当然のようなものと思っている人々となる」とあとがきで述べている。

したがって,マクロ経済(学)に関する一定の知識がないと,読むのに苦労する部分があるだろう。しかし,単に行動経済学に関心のある読者にとっても,「物語」(story)という概念を経済学に持ち込もうとすることは興味深いはずだ。企業や消費者,あるいは政策決定者の意思決定が「物語」に支配されるという見方は,シャンクのスクリプト論のような,認知科学の流れに連なる。いうまでもなく経済学者も「物語」にとらわれている。

ただ,この本はマニフェストなので,本書で経済における「物語」概念が十分整理されているわけではない。この部分については,既存研究はほとんど引用されていない。つまり,行動経済学の研究のなかでも,物語論はまだまだ未開拓であると推察できる。難しいのは,経済への見方をすべて物語に吸収させてしまうと,究極の相対主義になり,経済学の「客観性」を担保できなくなることだ。そもそもそんなものはないと割り切れればよいが。

アニマルスピリット

ジョージ・A・アカロフ,ロバート・シラー

東洋経済新報社


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なお,著者の一人アカロフは情報の経済学の発展に貢献した第一人者であり,ノーベル経済学賞を受賞している。随分前に,認知的不協和の理論を経済モデルに導入した彼の論文を読んで感銘を受けた記憶がある(以下の本に所収)。それは,心理学でよく知られた現象を,経済学の枠組みで表現した研究であった。しかし,『アニマルスピリット』を読むと,最近のアカロフは経済現象を心理学の枠組みで捉えることを目指しているように思える。

こうした大物が行動経済学について語り,やはりノーベル賞受賞者で,経済学者のなかの経済学者という印象のあるソローが賛辞を送っているのを見ると,つくづく時代は変わったと思わざるを得ない。

ある理論経済学者のお話の本

ジョージ・A. アカロフ

ハーベスト社


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学生の企画プレゼンから学んだこと

2009-11-21 08:27:37 | Weblog
昨日は,2年生のゼミで「企画演習」の中間発表をした。プロモーションの課題を設定,学生たちをチームに分けて,リサーチとプラニング(企画)を競ってもらう。ぼくにはプロモーションの知識も企画経験も乏しいので,専門家の全面協力をお願いした。うち一人は,ぼくが最初に担当したゼミの出身者である。2年生はまだ「マーケティング」を体系的に勉強していないし,事前に簡単に基礎知識の講義をしただけだ。泳いだことのない子どもを,いきなりプールに落としたようなものだ。

ただ,企画やプレゼンの能力は必ずしも教わるものではなく,成人近くになればそれなりに身についてくるといえる。そこで,彼らなりに頑張ってプレゼンしてくれたが,多いのは次のようなパタンだった:
1)一応課題に関連して調べてきたことを列挙する。ネットの時代だから,それなりの情報が集められている。
2)突然,ターゲットが設定される。ある意味で常識的な判断に基づいているが,リサーチの裏づけやロジックに欠ける。
3)またまた突然,課題解決策が披露される。これまた常識には沿っているが,ターゲットへの洞察から語られているわけではない。

こうした発表を聞きながら,午前中聴いた,数理脳科学の世界的権威,甘利俊一氏の講演を思い出した。氏は,いわばニューラルネットワークの延長として脳を理解することを目指しておられる(とぼくは理解した)。最初にプログラムありきではなく,ニューロンの並列的な相互作用から,意識や感情の生成を説明しようとする立場だ。人間の意思決定の多くは,無意識的なボトムアップのプロセスから生まれる。学生たちのプレゼンは,まさにそうしたプロセスを忠実に反映していると感じた。

プロのプランナーもまた,そうしたプロセスで企画を立てているものと思う。つまり,ふだんの生活も含め,情報のシャワーを浴びる。そうするとある時点で,意識的・論理的な操作なく,ボトムアップ的にターゲットや解決策が思い浮かんでくる。それは,多くの発想法やその認知科学的研究で語られる普遍的な人間の発想プロセスなのだが,プロはそこからが違う。点としてのアイデアをつなぐように,情報を用いてロジックないしストーリーを構築する。それで企画に説得力が出てくる。

さらにいえば,ロジックとして無意識の発想プロセスを外在化することで,それが次のより深い発想を刺激するというトップダウン的な効果もあると思う.優れたプランナーほど,このボトムアップ(無意識)とトップダウン(意識)のプロセスを,うまく繰り返しているのではないだろうか。したがって,今後学生に何か教えるとしたら,その1つはトップダウン的なプロセスに関わるものだろう。テンプレート的な制約なども,次の無意識的発想の準備として意味を持つように思う。

企画とプレゼンを学生時代に体験することは,将来,いわゆるプランナーという職業を選ばないとしても,すごく役立つことのように思える。卑近なことをいえば,就職活動は自己プレゼンであり,これから成長する人材としての自分を企画することから始まる。何がしかクリエイティブな人材として生きていくとしたら,人生は企画とプレゼンの繰り返しになる(いうまでもなく,フォーマルなプレゼンという形をとるかどうかは別として)。仕事を離れた生活においても,多分そうだ。

それが重要であればあるほど,介在する教師の役割も重要になる。アイデアを生むのは学生で,教師は産婦人科医ないし助産婦にすぎない。周囲の環境を整えることがその役割だ。スポーツのコーチが名選手ではなくてもよいのと同様,自らが優秀なプランナーである必要もない。ただし,優れた企画とプレゼンがどういうものかを知っておく必要がある。その意味で,たとえば,最近の最先端の企画書がどう書かれているのかを見て回りたい気がしている。いずれ時間ができたらぜひそれを。
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ブッダとイエスが共同生活する国

2009-11-19 13:30:16 | Weblog
民主党の小沢幹事長がキリスト教は排他的で独善的であると語り,仏教はそうではないと称賛したとことが話題になっている:

小沢氏「キリスト教は独善的」 仏教は称賛

これに対するコメントとしては,

小沢幹事長の自重を望む - 松本徹三

が非常に示唆に富んでいる。そこでは,小沢氏の発言内容が正しいかどうかよりも,日本の政権党の大幹部がこうした発言をしたことが欧米で報道されたとき,どういう反響が起き得るか考えたのかと問うている。小沢氏がそのへんに頭が及ばなかったとしたら,いまや地球が非常に小さくなったこと,そして世界では宗教が政治に対して重い意味を持つことを,あまり理解していないことになる。

多くの日本人は宗教に関して「寛容」だから,それもしかたないことかもしれない。なんせブッダとイエスが狭いアパートで仲良く共同生活しているのだ。宗教をめぐって戦争やテロを繰り返している世界のことを理解できないのは当然だ。そういう日本の風土にどっぷりつかったぼくもまた,以下のコミックをおおいに楽しんでいるくちである。今朝通勤電車のなかで,思わず声を出して笑ってしまった。

聖☆おにいさん 1 (モーニングKC)
中村 光
講談社

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ただ,この本を仏教やキリスト教に対して原理主義的な信仰を持つ人が多い国(つまり日本以外)で出版することができるだろうか。このマンガに(いまのところ)ムハメッドは出てこないが,もし同じような調子で登場し,日本人の(たとえそれが微笑ましいものとはいえ)笑いの対象となったとしたら,イスラム教徒はそれを許すだろうか。そう考えると,小沢氏の国際感覚の欠如は他人事ではない。
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日本のBスクールはどこに向かう?

2009-11-17 09:10:34 | Weblog
昨日の日経・経済教室に,一橋大学のクリスティーナ・アメージャン氏による「金融危機後のビジネススクール 倫理や社会起業重視へ舵」という論文が掲載されている。それによれば,世界のビジネススクールにおいて,最近,大きな変化が起きているという。具体的には,グローバル化,研究への注力,社会起業の重視,教授法の多様化といった変化なのだが,そのなかで最も重要なものとして,グローバル化があげられている。

グローバル化を端的に示すのは,ここ数年,欧州やアジアのBスクールのなかで,米国の一流校に伍する高いランクに評価された学校が増えてきたことだ(ただし,日本の学校は該当しない)。アジアのBスクールでは欧米から招聘されたトップクラスの学者が教鞭をとる一方,欧米のBスクールでは中国,韓国,インド出身の教授や学生が増えている。つまり,これらのトップスクールでは,国境を越えて同質化が進んでいるのだ。

日本についてアメージャン氏は次のように書く:
こうした本質的変化を前に、日本のビジネススクールは驚くほど影が薄い。グローバルランキングに姿を見せず、一流校の博士課程には日本人学生がほとんどいない。日本人研究者による論文が世界の一流専門誌に掲載されることはまれで、日本企業や経済の研究もめったに見かけない。的を得ているかどうかは定かでないが、日本人学生は消極的で学習意欲に乏しく、英語でのコミュニケーション能力が低い、と評価されている。中国人や韓国人学生と比べると、とりわけそうした点が目立つ。
いやはや,日本の教員や学生はダメだし,日本企業や経済もダメとくれば,全く救いようがない。しかし,日本にも英語を公用語としたBスクールはあるはずで,アメージャン氏の属する一橋大学ICS がその代表格だ。都心の一等地に豪華な教授陣を集めながら,なぜ他のアジアのBスクールより評価が低いのか?これは嫌味ではなく,トップランナーの課題を理解することが,他の日本のBスクールにとっても有用だと真摯に思う。

日本の大学にグローバルなBスクールを運営するノウハウがないとしたら,欧米の一流Bスクールにとって参入する機会が生まれる。それが起きないのは,すでに強力な競争相手がいるからか?文科省の規制が強すぎるのか?それとも,英語でビジネス教育を受けようという需要が,そもそもあまりないのか?それやあれやを含めて,グローバルなBスクールは日本を魅力がない市場だと評価し,本格的に参入してこないのだろう。

そうなると,日本のビジネス教育や研究はますます独自の道を歩むことになりかねないが,世界から孤立することなく,世界に貢献する余地はあるとアメージャン氏はいう:
日本の企業や大学が経営学教育の世界的潮流から取り残されるのは、世界的にも損失である。日本企業は、環境技術、顧客サービス、品質管理、サプライチェーン・マネジメントなどの分野で多くを世界に教えてきた。新たな経済モデルが模索される今日、日本型資本主義は、その長所短所を含め、新しいヒントを示すことができるだろう。
日本企業独自の強みを研究・教育することで,日本のBスクールが世界で存在感を発揮できる。上に挙ったテーマのうち,マーケティング研究者に最もなじみ深いのは「顧客サービス」だろう。そこをどんどん研究すればよいことになるが,日本企業はむしろ,サービスの生産性や収益化で劣っていたのではなかったか。研究自体も欧米に追随しているだけのように見えるが,日本企業に強みがないなら,それも当然だ。

日本のBスクールの生き残りは,日本企業の強みを探すことと裏腹の関係にある。ものづくりの現場はすごいが「本社」が弱いという構造が,日本のBスクールのグローバルな発展を阻んでいるのもしれない。多くの日本のBスクールはミドルの教育か,せいぜい国内市場向けのトップの教育を目指していると考えれば,それでもいいじゃないかという気もする。また,ぼく自身にできることがあるとしても,せいぜいその程度だ。

もう少し前向きにいうと,日本企業の強みを見出し,またそれを確立するような研究を行ない(そこで可能なら現場との恊働も欠かせない),それを国際的に発表していくことが,長期的に見て,日本のBスクールを強化するための王道だと思われる。それを意識して研究に邁進しよう・・・というまとめ方はあまりに優等生的だが,いまはそれしか思いつかない。
どこかで同じようなことを書いた記憶がある。たぶん「あの」申請書だ・・・
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単位取得退学と「修了」

2009-11-16 08:19:38 | Weblog
いま,履歴書を書く必要に迫られている。といっても転職するのではない(仮にそうでも,そうとは書けないが・・・)。来年度から同じ大学の別の組織で教えるのに,履歴書を出す必要があるというのだ。最終学歴も記入しなくてはならない。ぼくの場合「・・・大学院博士課程単位取得退学」と書くことになる。「単位取得」して「退学」というのは,一般の人には意味不明だろう。単位が足りないから「退学」したんじゃないかとふつう思うだろう。

大学院に縁のある人なら知っているが,これは大学院在籍中に学位論文を提出して,学位を取得するにいたらず,学位論文以外の必要な単位だけとって「退学」したことを意味する。ぼくのいた研究科の場合,退学後一定期間内に学位論文を通すと,課程博士を取得できる(その期限を越すと「論文博士」になる)。で,何とか期限に間に合わせ,授与された学位記には「・・・課程を修了し、学位を授与されたことを証明する」と書かれていた。

ということは,ぼくは「修了」したことになるのか?前任校で教員DBの自分のページを見たとき,学位取得年次に「博士課程修了」と記載されていたので,ますますわからなくなった。その後履歴書を書く必要が生じたとき,念のため出身大学院の事務室に問い合わせると,最終学歴は「単位取得退学」と書くのが正しいという。DBに「修了」と記載されていたのは,大学の入力担当者が学位取得=課程修了と早とちりしたせいかもしれない。

このDBの記載内容は,現在の勤務先にもそのまま引き継がれていた。しばらく放ったらかしにしていたが,最近ようやく訂正した(ただし,ReadD にはまだ反映されていない)。どうでもいいことのようだが,「単位取得退学」なのに「修了」だと称しているかのような記載によって,万が一にも「学歴詐称」だと後ろ指をさされるのはいやだからだ。現実には,「修了」という肩書きはかなり適当に使われており,気にしない人は気にしない。

もちろん,大学への就職等で重要になるのは,学位を取っているかどうかである(といっても,文系でそうなったのは最近のことだ)。海外の場合,研究者の履歴を見ても,学位をいつどこの大学で取ったかしか記されていないことが多い(むしろ審査した教員名が書かれていたりする)。したがって,「単位取得退学」という概念は,日本特有なのかもしれない。ちなみに自分のHPには,欧米流に(?)学位の取得年次のみ記載している。

不思議なことといえば,本の著者経歴などを見ていると,「退学」「修了」の年次は記されているのに,学位の取得年次は記されていないことが多い。これは,たとえば中小企業診断士や管理栄養士の資格を持っている著者が,その取得年次を著者経歴に書かないのと同じことかもしれない。一方,学歴としては,いつ「退学」「修了」したかの年次が重要となる。それは,入社(省)年次を重視する年功序列制と関係しているのだろう。
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事業仕分けと研究者の説明責任

2009-11-15 11:08:04 | Weblog
事業仕分けで,次世代スーパーコンピュータの開発予算が「凍結」されたことが議論になっている。毎日によれば「これまで545億円を投入・・・10年度概算要求で約267億円。最終的に計約1230億円が必要とされる」。この金額の税金投入を是とするか非とするか,という問題である。

仕分けの様子を多少詳しく報じているのが産経で,少し長いが引用すると,
この日、口火を切ったのは蓮舫参院議員。その後も「一時的にトップを取る意味はどれくらいあるか」(泉健太内閣府政務官)「一番だから良いわけではない」(金田康正東大院教授)「ハードで世界一になればソフトにも波及というが分野で違う」(松井孝典・千葉工業大惑星探査研究センター所長)などと、同調者が相次いだ。
 文科省側は「技術開発が遅れると、すべてで背中を見ることになる」と防戦したが、圧倒的な「世界一不要論」を前に敗北。同研究所の理事長でノーベル化学賞受賞者の野依(のより)良治氏は「(スパコンなしで)科学技術創造立国はありえない」と憤慨していた。
という様子。野依氏と同様に怒っているのがサイエンスライターの竹内薫氏だ。竹内氏のブログの一部を抜粋してみる:
科学技術に関して、こんな無知な仕分け人が全てを決めしまうとは・・・「理系」内閣がいきなり亡国へ向かうとは残念なことだ。

誰かが蓮舫議員にはっきり「バカは休み休み言え」と諌言すべきではないのか。この人に、日本の将来にとって欠かせない科学研究と、そうでない科学研究を区別する能力はない。

連日、テレビで仕分け人の発言を聞いているが、「自分にわからないものは要らないもの」という短絡的な決めつけが目に付く。この人たちは、全知全能の神様のつもりなのだろうか。
いうまでもなく,仕分け人たちは「全知全能の神様」ではないが,では専門の科学者は「全知全能の神様」なのだろうか?この1230億円の支出が生み出す科学上の成果や経済効果を事前に正確に述べることができるだろうか?なぜ,科学者の間で判断が分かれているのだろうか?

結局,誰も全知全能でないなかで,最後に納税者が意思決定することになる。世界一のスパコンを望むなら,彼らを説得するしかない。以前なら有力政治家と官僚への根回しでよかったが,そうでなくなった。成果について確定的なことはいえないので,真摯に夢を語るしかない。最後は賭けになる。

同じことを経営者は株主に行なっているし,政治家は有権者に行なっている。ところが,「自分がわかるものは要るもの」といわんばかりに「無知な」素人を軽蔑するだけでは,「全知全能の神様のつもりなのだろうか」ということばが自らにかえってきかねない。それは大変残念なことだ。

その点で,サイエンスライターの森山和道氏の日記に書かれていることが印象的だ:
・・・仕分けされてる側の危機感のなさが目立つ。そもそも聞かれている側は「必要かどうか」を問われてるという側面もあるが、それ以上に「投資している税金というコストに見合ってるのかどうか」を質問されているのだということを理解してなかったのではないか。
・・・ともかく「仕分け」が今年の流行語になりそうだなー。会社とかで普通に使えそうな言葉だし。深海地球ドリリング計画やIFREEの予算が削られようが次世代スパコンの予算が凍結されようが、今のところ、その程度の関連しか僕のような一般人にはない。良い悪いではなく、一般人にとってはその程度なのだ。ということをもう一度しっかり念頭において、科学や技術がなぜ必要なのか、研究成果とはかくかくこういう性格のもので、現在こういう成果が出ていて、それはこんなふうに位置づけられているんだ、だからカネをくれ、オレたちもしっかり使う、ということを、単純明快論理的に、かつ、雄弁に語る気概が欲しかった。
多くの研究者にとって,これは対岸の火事ではない。周知のように,科研費などにも見直しのメスが入っている。多くの研究者にとってこれは困ったことである。しかし,納税者としての立場からいうと,いまの制度が万全とも思えない。毎日は以下のように報じている:
仕分けに同席した財務省が競争的資金について、文科省だけで24制度、国全体では8府省47制度もあると指摘。1人の研究者が10種以上の助成を受けている例まで紹介した。仕分け人は「明確な役割分担ができていない」「3000億円以上もなぜ必要か説明されていない」などと批判。予算額を縮減し、制度を一元化するなどの結論でまとまった。
制度が複雑すぎで,かつ特定の研究者や組織に助成が集中する傾向があるというのは,そうだと思う。もちろん,それがおかしいとは一概にいえない。ただ,巨額の助成を受ける研究者ほど,今後より大きな,開かれた説明責任を負うことになる。そこにサイエンスライターに期待される役割も出てくるだろう。
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ロジャーズ普及理論の落とし穴

2009-11-14 18:04:44 | Weblog
今日,商業学会関東部会で桑島さん,福原さんの「映画視聴行動に関する 社会ネットワーク分析」にコメントした。これは,映画の観客(厳密には映画批評サイトの投稿者)をロジャーズの採用者類型にしたがって分類し,彼らの間のネットワーク(お気に入りとしての登録)を調べたもの。いくつか細かい話以外に,前から気になっている,ロジャーズのモデルそのものに対する疑問を投げかけてみた。

ロジャーズの採用者分類は,全採用者の革新度(採用時期を用いることが多い)が正規分布すると仮定して,標準偏差を基準に全採用者を5つに分ける(すなわち,イノベータ,初期採用者,初期多数派,後期多数派,遅延者という分類だ。訳語は人によって異なる)。その分け方や性格づけをめぐっていろんな議論があり得るが,ぼくが気になっているのは,こうした分類を何をベースに行うか,である。

こうしたロジャーズの分類法は広く普及し,IT業界における事業戦略を論じるとき必ず言及される,ムーアのキャズム理論にも継承されている(ただし,初期採用者をビジョナリー,初期多数派を実利主義者と呼ぶなど,用語法が変えられている)。ムーアの有名な主張は,ビジョナリーと実利主義者の間に大きな溝(キャズム)がある,というものだ。多くの起業がキャズムを超えられずに失敗するという。

キャズム

ジェフリー・ムーア

翔泳社


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しかし,ロジャーズの分類を適用するには,潜在的な採用者の規模(普及の上限)を決める必要がある。そしてほとんどの場合,実際にどこまで普及したかの数字をあてていると思われる。それを相対的に5つに分類するわけだから,必ずイノベータから遅延者まで存在することになる。したがって,初期採用者まで普及したが,初期多数派には普及しなかったというキャズムの議論は成り立たない。

キャズムだけでなく,普及が潜在的上限に達しないで終わることを認めると,ロジャーズが示した各採用者分類の性格を他の事例に適用できなくなる。彼が分析したのは実際の普及が潜在的な上限まで達したケースだとしても,われわれが現実に直面するケースがすべてそうとはいえないからだ。採用時期で相対的に5分割された採用者が,ロジャーズの分類に対応している保証はないということだ。

そこで,潜在的な普及の上限を,実際の最終的な普及率とは別に与える必要がある。すぐに思いつくのは,類似の事例を使うことだ。たとえば,携帯デジタルオーディオプレイヤー(iPod)の普及の上限を,携帯テーププレイヤー(ウォークマン)から類推する,など。ただ,本当にそれらが「類似している」とどう証明するかが難しい。両者の間で背景となる時代が違うことも問題となるだろう。

なかなかうまい方法が思いつかないので「ないものねだり」ともいえる。しかし,普及についてミクロ的なデータが蓄積されてくると,そこから「別にあり得た世界」をシミュレーションできるのではという夢が生まれる。それができれば,本当の意味での潜在的な普及の上限を設定でき,キャズムを論じることができる。それだけではなく,ロジャーズの採用者分類を適用することも意味を持つようになる。
 
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逃走に当たっての最初の一歩

2009-11-11 23:04:22 | Weblog
英国人女性の死体遺棄事件で手配されていた市橋容疑者が逮捕された。逃走期間は2年7ヶ月。なぜ見つからなかったのか,どうやって生活していたのか,テレビや週刊誌はいろいろな「謎」を取り上げるだろう。しかし,この事件でぼくが気になるのは,非常にくだらないことだが,容疑者が警官に夜職務質問を振り切って逃げたとき,裸足であったということだ。したがって,最初に何とか靴を手に入れないと逃走は始まらない。

手持ちのカネがあったとして,裸足のまま靴屋にいけば,怪しまれて通報されるのがオチだ。しかし,そのへんに靴が落ちているとはほとんど考えられない。すると,どこか民家に忍び込んで靴を盗んだのか・・・。身長の高い容疑者に合った大きなサイズの靴がないと困るはずだ。どうやったのかわからないが,この最初の難関を越えたことで,逃走が軌道に乗ったのだ。おおげさにいえば,その一撃のあと,経路依存性が働き始めた。

逆にいえば,簡単に靴が見つからなければ,裸足で歩き回っている怪しい男がいる,として早期に捕まっていたかもしれない。・・・どうしてこんなくだらないことを長々と書くかというと,ぼくはたまに,街なかを裸足で歩いている自分に気づき,早く何とか靴を手に入れなくてはと焦燥に苛まれる夢を見るからだ。なぜ靴がないことへの潜在的恐怖感をもつのかわからない。実際に裸足になって困った実体験はまったくないからだ。
 
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騙されてもいいという心理

2009-11-09 09:18:52 | Weblog
結婚詐欺とその周辺で起きている不審死をめぐる事件について,週刊文春11月12日号に「こんな『男おひとりさま』が狙われる」という記事が載っている。そこで,自らも「男おひとりさま」である野末陳平氏が,以下のような教訓をあげている:

1.この世には優しい女はいない
2.老いた自分に寄ってくる女はいない
3.口上手な女は怪しい

「これを忘れたら騙されます」という。なるほど,このことを心に刻んでおけばよいのか,というと,そう簡単にはいかないと思う。以前,誰かのエッセイで,ロシア(旧ソ連?)で美人スパイのハニートラップに遭った人物の話が紹介されていた。そのとき,こんな自分にこんな女が寄ってくるはずがない,と思いつつも,騙されてもいい,すべてを失ってもいい,という気持ちになった,ということが書かれていた(本人の経験として,ではないが)。

ただ,その結果「すべてを失った」その方は,いまは大いに後悔しているという。いま.眼前に目が眩むような報酬を提示されると,人間は長期的な時間選好から予測される判断とは決定的に異なる行動をとることが,行動的意思決定論の研究で示されている。そのとき,自分がそんなにモテるはずがないという判断は無視される。嘘でもいい,騙されてもいい,という悪魔の囁きに心がしたがってしまう。それは,その時点では甘美な経験なのである。

ハニートラップや結婚詐欺には遭遇したことがなくとも,「騙されてもいい」と思って女性のため高価な買物や接待をした経験は,多くの男性にあるはずだ(騙されているというより,男が勝手に騙されたがっているケースのほうが多い?)。にもかかわらず,婚カツ詐欺にかかった男性を鼻先で笑っているような男に対して,あまりいい感じはしない。ましてその人物が,人間の心理や行動に関わる研究をしている場合など,その想像力の欠如が嘆かわしい。
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筑波大学での集中講義(予定)

2009-11-08 02:01:59 | Weblog
筑波大学で「マーケティングと消費者行動の複雑性」と題する集中講義を行なうことになった。この特別講義は,昨年池上高志さんを招いて行なわれており(ぼくも聴講した),それを考えると荷が重いが,研究を色濃く反映した講義をするという魅力に惹かれてお引き受けした。今回 Complex'09 で20分ほど話した内容を核にして,基礎から先端の話題まで延べ 750分 かけて講義することになる。

1. 消費者選択モデルと限定合理性

 選択モデルの基礎(離散的選択モデル)
 選択モデルの応用(コンジョイント分析)
 限定合理性(非補償型選好,文脈効果,可塑性など)

2. 消費者行動の相互依存性

 消費者間相互作用の諸研究
 複雑ネットワークと情報伝播
 クチコミマーケティングの理論と現実

3. イノベーションの普及

 古典的普及モデル:Bass と Rogers
 エージェントベース・モデルの貢献
 革新的な新製品の開発と消費者による受容

学部(学類)学生が対象だが,院生や進学希望者も視野に入れた専門的な講義をしたい。なぜなら日程が以下のとおり,初日がクリスマスイブの前日で祝日なので,ふつうの学生は来ないだろうから。もう帰省している学生だっていそうなこの日に,集中講義にわざわざ出て来る学生が何人かはいることを期待したい。また秋山さんが進化経済のMLに流してくれたので,他大学(明治からも!)から来る学生がいればうれしい。

 12月23日 (水・祝) 13時45分~
 01月06日 (水) 13時45分~
 01月20日 (水) 12時15分~
  詳細はこちら

これに先立ち,11/14~15に和泉潔さんによる「人工社会・人工経済入門」という集中講義もある(詳細はこちら)。ファイナンスにおけるエージェントモデルに興味がある人はこちらがお薦めだ。和泉さんには立派な教科書がある。今回の講義を機に,自分も教科書的なものを書けないかなと思う。ただ,それは研究時間とトレードオフの関係にあるのが悩ましい。
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Complex'09 @中大駿河台 4日目

2009-11-07 23:55:03 | Weblog
Complex'09 の最終日。朝9時には間に合わなかった。いくつかキャンセルが出ていて,岩永さんの発表に運良く間にあった。そのあと聴講した組織論のセッションで,サムスン経済研究所の方の発表を聴く。何でも複雑系研究グループがあって,組織管理やマーケティングの研究をしているという。マーケティングについてどんな研究しているのか聞けばよかったと,あとになって後悔している。

そのあと聴いた,井上さんの企業の調達ネットワークの研究が興味深い。自動車産業とソフト産業を比較すると,前者の調達ネットワークがより階層的なのは予想通りだが,同時に開放的でもあるのは常識と異なる。これは産業の成熟度を反映しているのではないか,と指摘される。分析に用いられたのは p*モデルで,複雑ネットワークというよりは社会ネットワーク分析の系譜に属する。

マーケティングの複雑系的研究はファイナンスに比べて量的に劣るが,研究の奥深さ,愉しさでは断然上なはずだとぼくは勝手に信じている。なぜなら,マネーゲームは人生の手段にすぎないから(目的になったら終っている)。儲けたカネでみんな何がしたいかというと消費でしょう。だから,それを研究するのが究極の悦びなのだ・・・という屁理屈に賛成してくれる人こそわが同志である。

閑話休題。午後は同じ神田駿河台の歯医者に。治療した奥歯にときどき痛みを感じるが,神経を治療するとなると,こないだ入れたばかりの金歯を廃棄することになる。それは埋没費用(sunk cost)なので,今後の意思決定では無視するのが合理的なはずだが,ぼくは「せっかく■万円を投じたのだ。少しぐらい痛くても我慢しよう」と考えから逃れられない。脳がそのように命じているのだ。

行動的意思決定論を学ぶのは,自らのバイアスに気づいて,合理的意思決定ができるようにするためだ,といわれることがある。しかし,そうは簡単にいかないことが,自分を省みてもわかる。埋没費用にこだわる思考は,進化において何らかの意味で適応的だったから,人間の頭にこびりついているのだろう。それはもはや無用となった過去の遺物なのか,深いレベルでの合理性があるのか。

本屋で岩波書店の『科学』10月号を購入。昨夜松下先生からお聞きした,國仲寛人,松下貢「社会・物理 複雑系の統計性──新しい社会科学の発展に向けて」という論文を読むためだ。そこでは,対数正規分布を複雑系のデフォルトとする「社会物理学」が提案されている。社会心理学の立場から社会ネットワークを研究する吉田さんもまた,対数正規分布を支持していたことを思い出す。

科学 2009年 10月号 [雑誌]


岩波書店


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