Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

働かないアリに意義がある

2011-09-20 16:45:40 | Weblog
2:8(ニッパチ)の法則ということばがある。2割のアイテムが8割の売上をもたらすとか,2割の社員が8割の収入をもたらすとか・・・それはアリの世界にも当てはまると聞いたことがある。生物学者である本書の著者の研究によれば,3割のアリしか働いていない現象が観察されている。

働かないアリに意義がある
(メディアファクトリー新書)
長谷川英祐
メディアファクトリー

2:8の法則の話には続きがあって,働くアリたちを取り除くと働かないアリのなかから働くものが現れるという。しかし,誰かリーダーが指示しているわけではない。個々のアリは局所的な情報しか持っておらず,その相互作用によって分業の再編成が起きる。まさに複雑系の世界なのである。

働かないアリは永遠に働かないのではなく,コロニーを安定的に維持するために待機している。ところが種によっては,生涯「働く」ことなく,ただ寄生しているだけの個体がいる。なぜそんなことが許されるのか・・・その謎を解き明かす原理として,血縁選択や群選択といった進化理論が紹介される。

著者は何度も,フィールドワークの大変さと重要性を強調している。フィールドワークの結果,既存の進化理論では(いまのところ)十分に説明されない現象が発見されている。だから生物学には研究すべきことが多く残されていると著者はいう。進化理論も進化しなくてはならないということだ。

生物界においてすら,進化は 100% 完全な適応を実現するわけではない。Nelson-Winter との出会い以来,ぼくは進化論的アプローチに魅力を感じ,マーケティングの研究においても有望だと思っているが,進化は完成することがなく,つねに継続しているという視点を忘れないようにしたい。

経済変動の進化理論
リチャード R.ネルソン,
シドニー G.ウィンター
慶應義塾大学出版会

行動計量学会@岡山理科大学

2011-09-15 09:00:35 | Weblog
社会情報学会が終わると今度は岡山に移動し,行動計量学会へ。日程の都合上,初日しか参加できなかったが,お目当ての特別セッション「人間行動と物語」は期待通り刺激的であった。最初に竹村和久先生(早稲田大学)が「動的フレームとしての物語と意思決定」と題する報告。

最初に以下の本が紹介される。「鶴の恩返し」のラストシーン(姿を見られた鶴が去っていく)を外国人は理解できないが,そうした「物語」を繰り返し聞いてきた日本人には,それが日常の行動に潜在的に影響しているのではないか。つまり,物語とは動的なフレーミング効果であると竹村先生は考える。

日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書)
北山修,橋下雅之
講談社

そこで竹村研究室で蓄積されてきた知見が動員される。上述の考えを数理モデル化すべく,言語表現であるフレームが焦点を決めるという設定で状況依存型焦点モデルを適用。さらに画像の解析に用いる特異値分解に基づくデータ解析。着々と研究が進められているようで今後が楽しみである。

二番手は羽鳥剛史先生(愛媛大学)による「物語と選好形成」。「選好形成」をモデル化する際「選好の選好」(二次選好と呼ぶ)を仮定することが多い。そうした見方は,Schelling (self-comand), Sen (Ranking of Ranking), Hirshman (反省的選好変化) 等によってすでに提起されているという。

羽鳥先生の発表が面白いのは,すでに実験が行われていることである。簡単にいうと内村鑑三の『代表的日本人』を通読させると二次選好が影響を受け,被験者の傲慢性が低下するという結果が得られた。物語は人々に特定に行動を起こさせる力を持つ。その効果がどれだけ持続するかが気になる。

最後に藤井聡先生(京都大学)が「意思決定における物語の役割」と題する報告で,心理学の流れに物語の役割を位置づける。言及されるのは Brunner,Slovic,Gergen & Gergen,Schank & Abelson,Gibson 等々。心理学で扱ってきた態度も信念もイデオロギーも,つまるところ物語だと。

藤井先生はそれをたった1枚のスライドで猛烈な勢いで熱く語る。気になったのは,Akerlof ではないが,経済政策に関する議論も物語だというと一種の相対主義に陥り,論理実証的な議論がなされなくなるのではという点。それについて,自ら政策論争にも関与されている藤井先生に尋ねてみた。

藤井先生のお答えは,多くの経済学者は自己の依拠する「物語」を自覚しておらず,まずそこを明らかにすることに意義があるということ。もう1つは,もちろん論理実証的な議論は必要で,それは人々を熱狂させはしないが,熱狂を抑制させることがリスク心理学の研究でわかっているということ。

物語と意思決定の研究はまだ着手されたばかりのようだが,大いなる可能性に富んでいると感じた。物語的な意思決定と事例ベースの意思決定の関係など,いろいろな論点が頭を駆け巡る。残念ながら岡山はここまで。・・・次の目的地は,早稲田大学理工学部で開かれる SICE2011 である。

日本社会情報学会@静岡大・浜松

2011-09-12 08:15:29 | Weblog
静岡大学・浜松キャンパスで開かれた日本社会情報学会全国大会に参加した。会員ではないが「社会シミュレーション~モデルの粒度と現象の接合を探る」と題するワークショップにお誘いを受けたのである。発表者は,今年1月に開かれた社会情報システム学シンポジウムとほぼ同じである。

オーガナイザーは岡田勇先生(創価大)と太田敏澄先生(電通大)。岡田さんの挨拶のあと,社会学者である遠藤薫先生(学習院大)による「シミュレーションと社会 - その二つの様相」と題する基調講演が行われた。冒頭に東日本大震災を受けた,リスク社会論のベックらによる議論が紹介される。

今回の大震災では津波の被害や放射性物質の拡散に関するシミュレーションが注目された。一方,原子力発電の安全対策に関するヒューマンエラー,放射能汚染やそれに伴う風評被害を考えると,それを扱う社会シミュレーションがあってもおかしくはないが,現実にはそこまで到達していない。

社会学におけるエージェント・シミュレーションは抽象度の高いゲーム理論の研究にとどまっており,遠藤先生はそこに不満を感じておられるようだ。もちろん,自然科学と同レベルの科学性を求めることはできない。そこで長尾真『「分かる」とは何か』における「理解」の概念が参照される。

「わかる」とは何か (岩波新書)
長尾真
岩波書店

高名な人工知能研究者である長尾先生によれば,理解には論理規則に基づくものと経験に基づくものがあるという。遠藤先生は,社会シミュレーションが依拠すべき「理解」の概念は後者であるという。すなわち,個別状況の疑似体験の積み上げによる理解を目指すべきであると。

さらに遠藤先生は,こうしたシミュレーションによる経験的理解は,子どもが社会化する過程において観察されるほど,実は一般的なことだと指摘。それを受けて,自らシミュレーションする主体をシミュレーションする社会シミュレーション・・・というようなことを考えるとなかなか刺激的だ。

次に登壇されたのが,予測市場の研究と実践で有名な佐藤哲也先生(静岡大)。選挙結果の予測を精緻な計量モデルでやろうとしてもうまくいかない。それよりは人々の直感・感覚を生かした予測市場のほうが正確だという。一つの理由はまさに,有権者の意思決定が直感的であるということだ。

予測市場で正確な予測を行う参加者は,多くの場合全体の5%程度だという。それはどういう特徴を持った人々なのか,カテゴリを超えてよい成績を収めるのか(何らかのスキルがあるのか),いろいろお聞きしたいことがあったが,学会事務局としての仕事がお忙しいようで途中退席された。残念!

そのあと鳥海不二夫先生(名古屋大)が予測市場のエージェント・シミュレーションについて報告。予測者間に情報格差があった場合のほうがアンケートに比べて予測精度が高いという,逆説的な結果が得られた。山本仁志先生(立正大)の「社会的ワクチン」の研究も同様のサプライズを含む。

最後にぼくがマーケティング・サイエンスの立場から,ということで Fagiolo の Empirical Validation に関する議論や Rand & Rust の近著について紹介。前者の主張を一言でいえば,いかに興味深い Stylized Facts を見つけてそれをできるだけ簡単なモデルで再現するか,になるだろう。

一方,Rand and Rust はマーケティング・サイエンスの研究者に対して,いかに一流論文誌に載るような Agent-Based Modeling (ABM) の論文を書くかを啓蒙するもの。その分野で正統的なモデル(たとえば Bass モデル)に依拠しつつ,その限界を補完する形で徐々に拡張することを薦める。

このあとの発表者全員の議論で,こうした戦略について話題になった。エージェントモデルを幅広い分野に適用している工学的立場(たとえば寺野隆雄先生)にとってみれば,そんな戦略は論文投稿上の方便でしかない。狭い学問的コミュニティにとらわれない発想を持つことも確かに重要だ。

ABM という未成熟の手法について学際的な経験の交流はきわめて重要,しかし最後は各自がどういう研究をするかに行き着く。駅前の居酒屋での打ち上げでは,鰻の刺身をいただく。それなりに美味しかったが,やはり鰻は蒲焼きがベストかも。長期間の淘汰を生き抜いてきた食習慣は偉大なり。

The History of Jobs & Apple

2011-09-08 15:39:40 | Weblog
スティーブ・ジョブズがアップルの CEO を辞し,秋には本人も認める伝記が出るということで,ジョブズとアップルを回顧・総括する気運が高まっている。そこを狙ったこのムック,ジョブズやアップルを崇拝するぼくのような人間は反射的に購入してしまう。選択の余地などありはしない。

The History of Jobs & Apple 1976~20XX
【ジョブズとアップル奇蹟の軌跡】
(100%ムックシリーズ)
晋遊舎

本書に掲げられた数々のアップル製品を見ていると,自分が就職してからの日々が懐かしく思い出される。最初の約5年はそもそも PC あるいはワープロがなく,手書きで報告書やら企画書を書いていた「先史時代」。OASYS や PC98 との短い付き合いを経て,85年頃 Macintosh に出会った。

VWのビートル,あるいはスバル360 のように,最初の Macintosh は非常にコンパクトでシンプルなフォルムで,それゆえある種の完全性を備えていた。そのうえでExcel をマウスで操作する先輩社員のドヤ顔をいまでも覚えている。しばらくして職場に Mac SE や Mac II が次々導入されていった。

統計ソフトはコマンドをキー入力する形式からすべてマウスで操作するようになった。企画書は MacDraw を使い,誰もが美しく仕上げられるようになった。ぼく自身も Mac の GUI を生かした消費者調査やデータ分析のシステムを開発するプロジェクトに携わった。「輝ける時代」であった。

ところが,いつの頃か,歴史は再び暗黒期に向かう。Windows の勢力が拡大し,会社の情報システムとの整合性といった理由で職場から Mac が追放され始めたのである(クリエイティブ部門だけ例外であった)。最初は抵抗したものの,結局は長いものに巻かれる卑しい性根で Win に転向する。

そして「暗黒時代」が続く。ジョブズ復帰後,iMac の登場もぼくの凍てついた心を溶かすことはなかった。しかし,暗黒の支配から抜け出ようと再び決意させたのは MacBookAir の登場だった。それを見た途端,Windows の魔法が一気に解けた。一気に「再生の時代」に向かったのである。

かつて Mac を愛用していた時代,苦しめられたフリーズはいまほとんどない。最近まで使っていた Windows より少ないぐらいだ。そして,単に使いやすいというより,なめらかで美しい操作性。フォントの美しさ。「ユーザー経験」ということばこれほど似合う製品は他にないと思う。

かつて Windows に転向したとき,デーや解析やシミュレーションを行ううえで,ソフト的にもハード的にも Wintel が優れていると自分を納得させた。しかし,いまや超強力な MacPro のうえで,ぼくが研究に使う主要なソフト(MATLAB,SPSS 等)を動かすことができる。

本書の副題に 1976~20XX とあるように,ジョブズとアップルの歴史はまだ終わっていない。そう信じている。

そうそう,こちらも Macintosh の歴史を回顧するのには必携・必読の文献である:

Macintosh Museum
柴田史彦
アスキー


津波と震災

2011-09-03 11:22:47 | Weblog
著名なノンフィクション作家,佐野眞一氏は 3.11 の1週間後,三陸の被災地に取材に向かう。そして書き上げたのが『津波と原発』である。第一部では,言語を絶する大津波でかろうじて生き残った人々の証言が報告される。その内容は TV や新聞の皮相な報道をはるかに超え,胸を打つ。

第二部は,それより1ヶ月あとに行われた福島原発の周辺への取材である。こちらは「見えない」部分が多く,様々な主体や要因が絡んで複雑である。原発を推進した財界人,誘致を積極的に進めた政治家たちが一方的に糾弾されるわけではない。そのような単純な正邪二元論を著者はとらない。

見たくない事実から目を背けることも,誰かに責任を被せて糾弾することも,3.11 という未曾有の衝撃に対する真摯な対応とはいえない。佐野氏が批判するのは,その衝撃があっても何も変わっていない言動,それに対する反省の欠如である。これを他人事と考えた時点で自分も終わっている。

いずれにしろ,この本は一気に読ませる。著者の筆力には(いつもながら)感心する。

津波と原発
佐野眞一
講談社


それでも、日本人は「戦争」を選んだ

2011-09-02 10:27:53 | Weblog
2年前に出た本だが,いまだに本屋で平積みされているベストセラー。その理由は読むとよくわかる。高校生向けへの講義をベースにしているから読みやすい,というだけでない。視点が非常に面白いのだ。すなわち,歴史の特定局面で,当事者としていかに意思決定すべきかを問う視点である。

それは,ビジネススクールの教育で用いられる「ケースメソッド」と同じ発想である。ある目的のもと,当時利用可能であった情報を前提に,どういう行動を選択すべきであったかを議論し,今後の教訓を得る。したがって,本書はビジネスパーソンにとっても非常に興味深い内容となっている。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ
加藤陽子
朝日出版社

歴史を必然性が支配するものとみなし,われわれがすでに知っている「結末」を導く壮大で一貫した物語を紡ぐことはそれなりに楽しいが,今後の意思決定には役立たない。もちろん歴史は集合現象なので,その帰趨にどこまで個人が影響を及ぼし得るかは,簡単には決着がつかない論点である。

本書を読んで意外だったのは,少なくとも日清~日露戦争の頃までの日本の外交や戦争は「戦略的」であったと海外の研究者から評価されているという点。一方,満州事変や日米開戦といった意思決定が戦略的であったとは言い難い。では,その間にどういう変化や断絶があったのか・・・。

明治維新直後の戦略は,不平等条約を改正するために,列強と対等な帝国主義的なプレイヤーとしての地歩を固めることであった。それがある程度実現したあと,日本の安全保障の概念はさらに肥大化していった。と同時に,そもそも国家として戦略を共有するプロセスに問題が生じたともいえる。

それほど歴史書を読んでいるわけではないので「類書にない」というのは憚られるが,細々した事象を叙述するのではなく,戦略や意思決定という視点から歴史を分析する本書は文句なしに面白い。歴史における「もしも」を考えることで,われわれはよりよい未来を生きることができる。