Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

都市と球場が織りなす素晴らしき物語

2009-04-30 13:54:38 | Weblog
都市と球場の物語,というタイトルがいい。ファンと球場ではなく,都市と市民と球場。この視点なくして,広島市民球場と広島東洋カープの歴史は語れない。著者のブログを読むと,この本の執筆を引き受けるまで,さほどカープや広島市民球場には興味はなかったという。加えて練達のスポーツライターとして MLB や米国の球場事情に詳しいことが,この球場と球団の独自性を見いだすうえで大変役立っているように思う。

Hiroshima 都市と球場の物語
阿部 珠樹
PHP研究所

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よく知られているように,広島カープは日本のプロ野球球団のなかで唯一,特定企業が親会社にならずに設立された。自治体,地元企業,そして市民から集められた資金をもとに選手集めが行われたが,隣県の下関に誕生した大洋ホエールズに比べても圧倒的に少ない金額だった(当時の大洋のオーナーは「球団の費用など鯨を一頭仕留めれば賄える」と述べたという)。いま聞くと驚く話がいろいろ出てくる。

その後も資金的には厳しい状態が続き,他球団との合併が噂されることもあったが,熱狂的な市民と広島市や地元企業によって何とか支えられてきた。70~80年代に黄金時代があったが,いまや最も長く優勝から遠ざかっている球団だ。巨人戦ですら閑古鳥が鳴く状態が続いていたが,広島市民球場の最後の年となった昨年は,これまでのことが嘘のように多くの市民が球場を訪れ,球場との別れを惜しんだ。

この本は,広島市民球場の建設についても,興味深いエピソードをいくつか伝えている。その1つが,なぜホームチームのペンチが西側を向いているかである(他の球場では,ほとんどそのような例はない)。その理由は本書を読んでいただくとして,この球場が平和公園や原爆ドームと一体となって存在していることがよく理解できるエピソードだ。市民球場はヒロシマの歴史そのものを背負ってきたのである。

そして新しいマツダスタジアム。すでにメディアでいろいろ取り上げられているが,「寝ソベリア」シート以外にも注目すべき点は多い。この本では,この球場の設計が米国 MLB の球場からいかに学んでいるかを詳しく述べており,(広島県人ではないのに)「やるのう!」と唸ってしまう。そもそも内外野総天然芝という,米国ではいまや当たり前の球場は,プロ球団の本拠地では「いまや」ここだけなのだ。

本書の最終章で,新潟アルビレックスが NPB(日本プロ野球機構)入りを狙っているという観測が紹介される。アルビレックスはサッカー以外にもいくつかスポーツクラブを持ち,特定の親会社はない。その点では広島カープが模範といえる。著者は今後,こうした地域に根ざした,新しいタイプのスポーツビジネスのモデルが興隆するのではないかと見ているようだ。本当にそうなれば,すばらしいことだと思う。

極端な例として,もし将来,楽天がプロ野球から撤退すると宣言したとしたら,仙台のファンたちはどう行動するだろう?そこでも市民と地元の企業や自治体が一体となり,都市と球団の新たな物語が生み出されたならば,日本には至るところ,新しいものを生み出すパワーが充ち満ちていることが証明される。そうした日本を創るためにも,カープに期待される役割は大きい。まずは,勝つこと!(違うか・・・)

なぜ理工系は報われないのか

2009-04-29 15:33:43 | Weblog
OR と金融工学の第一人者である今野浩氏が,学生の理工系離れが日本の製造業を衰退させると警鐘を鳴らしている。本書の最初のほうで,著者は大学のエレベータで耳にした学生どうしの会話を紹介する。自分は英語ができなかったから理工系に進むしかなかったと発言するのを聞き,数学ができるなら理系に進むのふつうであった時代を生きた著者は愕然としたという。

「理工系離れ」が経済力を奪う (日経プレミアシリーズ 40)
今野 浩
日本経済新聞出版社

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学生の理工系離れとは,それに相応しい学生が理工系学部へ進学しないというだけでなく,理工系学部へ進学後大学院に残り,その後メーカーへ就職する学生が減っているところまで含めた問題である。その最大の原因は,製造業のエンジニアという職業の魅力が低下していることだ。端的にいえば,働きの割にエンジニアの給与水準が低いことである。著者はいう:
当時(80年代末・・・引用者注)最も国際競争力のある製造業に働く技術者の給与は、競争力のない銀行マンの七割に過ぎなかった。金融工学の研究会に姿を現す銀行員のアルマーニやロレックスと、数理計画法の研究会にやって来るソフトウェア技術者のつるしの背広とかかとが磨り減った靴を見れば、待遇の違いは歴然としていた。
したがって理工系離れを食い止め,日本の製造業の競争力を維持するには,エンジニアの待遇を大幅に改善すべきであると著者は提言している。では,どうすればいいのか?

著者も言及しているように,日本のメーカーが,技術的には優れた製品を国際市場に対して安い価格でしか販売してこなかったことが一因だと思われる。つまり,高付加価値製品を提供しないので祖利益率が欧米企業に比べ低くなり,エンジニアの給与水準も低くならざるを得ない,ということではないだろうか。だとしたら,高収益を目指した企業戦略の転換こそ解決になるはずだ。

これは戦略の問題だから,経営者の責任といえる。しかし,それはエンジニアにとっても他人事ではない。しかも,高付加価値の製品やサービスとなると,デザイナーやマーケターとの連携が避けられない。となると,理工系対文系という対立の構図を引きずって仕事をすることは生産的だろうか・・・。そういえば,北欧で工科大学と美大が提携しているという話を聞いた記憶がある。

「文高理低」といわれる風土は,官公庁などではまだ続くかもしれない。しかし,これまで文系が幅を利かしてきた産業の多くは規制に守られてきた産業であり,著者がいうように国際競争力を欠いている。したがって,少なくとも民間では「文高」はいつまでも続かないだろう。しかし,技術が十分に収益化されないままであれば「理高」になることもなく,総じて貧することが懸念される。

本書の最終章は,著者が現在勤務する,中央大学理工学部の戦略が述べられている。中央大は他の MARCH や上智大学を上回る科研費を獲得している(全学部の合計)。このことを誇りつつも「このレースは箱根駅伝と同じで、今はトップグループに入っていても、少しでも力を抜けばあっという間に置いていかれてしまいます」と語る。このことばは,ぼくの心に重くのしかかる。

大学の発展のため「一千万円稼いだら、一%を母校に!」と著者は学生たちに呼びかけているという。成功する卒業生を生み出すことは,理工系学部を抱える大学にとっては,きわめて重要な戦略である。そこでぼくも僭越ながら「1%の卒業生を,愛校心ある億万長者に!」というスローガンを考えてみた。そのために何を教えればいいか・・・あるいは何を教えてはならないか・・・。
 

もうテキストマイニングから逃げられない

2009-04-28 12:09:43 | Weblog
【特報】TinyTextMiner (TTM)の解説書いよいよ発売!

以前このブログで紹介した TTM,私の学生が昨年修論で大変お世話になったが,その解説書がついに出版された。これまで高価なソフトを買うしかなかったテキストマイニングに,こうした使いやすいフリーウェアが登場することで,日本における社会科学の研究風景が一変するだろう。

この本は,TTM の利用だけでなく,その後の分析について OpenOffice, R, Weka といったフリーウェアをいかに活用するか,ていねいに説明している。広義のデータ解析を原則無料で行う手順を学ぶことができるわけだ。カネもコネもない研究者や学生にとって必携の書だといえる。



  人文・社会科学のためのテキストマイニング
松村 真宏,三浦 麻子
誠信書房
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ソフト自体のサイト→TTM: TinyTextMiner

ぼく自身は,現在 R を勉強中のゼミ生たちに,次に学ぶべき教材として強く推奨するつもりである。マーケティングでは膨大な数値データがあるといっても企業の機密情報であることが多く,誰でも入手できない。一方,ウェブ上には,誰もがアクセスできる膨大なテキスト情報が存在する。

テーマにもよるが,テキストまで分析対象を広げることで,一般に研究の幅がぐんと広がることは間違いない。思いもかけないところにデータを見いだす,研究のクリエイティビティを持つ者ほど,力を発揮することになる。それこそが真の意味でのマイニング(採掘)ではないだろうか。
さて,どこを掘ろうかな?
ところで,こういうソフトが普及すると,有料ソフトは売れなくなるだろうか?いや,そちらはそちらで,高い価格に相応しい独自の手法や機能を実装する方向に進化していくだろう。その結果,どんな高機能のソフトが出てくるか,これまた大変な楽しみである。

補足: 6月20日に京都工芸繊維大学で開かれる日本マーケティング・サイエンス学会の研究大会で,著者の一人,松村真宏さんによるチュートリアルが予定されている(現時点ではまだプログラム未公開)。ただし,この学会の会員にならないと聴講できないはず。

DMフォーラム@秋葉原

2009-04-27 18:01:29 | Weblog
今日は暑くもなく寒くもなくよい天気。昼食後,隣り駅の秋葉原に出かけ,日本DM学会のセミナーを聴講した。最初は,一橋大学の水野貴之氏による「オンライン市場における価格変動の統計的性質~価格比較サイトの研究から~」という発表。価格.com に蓄積された膨大なデータを,経済物理学の立場から分析したものだ。

オンライン市場では探索費用がゼロに近いから一物一価が完全に成り立ちそうなものだが,実際は違うと水野氏は指摘する。価格.com に登場するショップの間でも,同じ製品についてかなりの価格差が生じている。それは,ユーザが価格だけでなく支払い方法やサポート,信用力などを考慮して選択しているからだと考えられる。

興味深いのは,製品の価格変動がタイムスケールを変えても同じような形状をしている,つまりフラクタル性があることだ。これは為替相場にも見られる現象だが,家電量販店ではその程度が下がり,スーパーやコンビニでは全く見られないという。つまり,オンライン市場と為替市場に何か共通のメカニズムがあるということだ。

これらの価格の変動はランダムウォークになる。しかし,価格の下落(あるいは上昇)がある程度続いたとき,より高い確率で,さらに下落(上昇)が起きるというのには驚いた。つまり,稀な現象であるバブルや大暴落を寸前に予測できるような局面があることになる。ほ,本当なのか・・・ 経済物理学,もっと勉強しなきゃ。

次いで,東洋大学の長島広太氏が「ネット通販利用者の意識を探る―アンケート調査研究より」を発表される。ネット通販のユーザを利用頻度と金額の大小によって2分し,さまざまな意識の差を検討している。最後に突然司会者からコメントを求められ,動揺したぼくは,くだらないことを口走ってしまった。あー情けねー。

ともかく,もうすぐ連休だ(正確にはいつからなんだろう?)。ここでいろいろ「貯金」しなくては。
 

もっと素直に現実を見るための統計学

2009-04-25 23:13:11 | Weblog
この本,統計学の啓蒙書としては珍しく,多くの本屋で平積みされている。小飼弾氏の激賞が効いたのだろう。読んでみると確かに面白く,わかりやすく,目からウロコが落ちる話が多々ある。小飼氏も例に引く,標準偏差はなぜ二乗したものを足してからルートを取るのかの説明もその一つだ。早速,自分の授業にも取り入れることにした。

不透明な時代を見抜く「統計思考力」
神永 正博
ディスカヴァー・トゥエンティワン

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この本がユニークなのは,ベキ分布を取り上げていることだ。統計学の啓蒙書や入門書では,ほかに例がないと思う。著者は金融商品の値動きがベキ分布であることを確認し,金融工学が簡単化のため仮定している正規分布との差の重要性を示す。つまり,一見無視できそうな分布の裾における差が,精緻な金融工学を失敗に導くインパクトを持つと。

さらには,ベキ分布のスケールフリー性,つまり平均や分散が理論的には存在しないことを,簡単な数値実験で示す。ということは,ポートフォリオモデルの立脚する基盤が失われる。価格変動がベキ分布にしたがう場合,分散投資は正規分布に基づく理論で期待されるほどにはリスクを低下させない。こうした話題が誰でもわかるように書かれている。

現在の金融危機に対する金融工学の責任については,4月23日の日経「経済教室」で経済物理学者の高安秀樹氏が次のように書いている:
現在の危機に関し,悪いのは金融工学を悪用した人たちで、金融工学は悪くないという論評をする研究者がいる。しかし、物質が絡んだ自然科学や工学の世界では、こうした発言はありえない。例えば、船団が嵐で沈んだ大事件が発生したとして、そのとき「悪いのはその船に直接関与した人たちで、船舶工学は間違っていない」と開き直る研究者はおそらくいないはずだ。
高安氏は,金融商品について買い手の責任だけが問われ,売り手が免責されていることに疑問を投げかける。製造物や建物と同様,売り手もまた責任を負うべきだと。
・・・メーカーは事故を起こさないようにつねに厳しい検査体制をとり、膨大な検査データと日々真剣に向かい合っている。現実のデータと合わない商品が平気で売買されている金融の世界では、そのようなメーカー側の地道な努力がすっぽりと欠如し、安易に根拠の乏しい公式を使うか、あるいは、きまぐれな市場の成り行きに任せているのが現状である。
「データと日々真剣に向かい合」うために,統計手法もまた,より現実的な基盤を持たなくてはならない。それは,時と場合によっては正規分布の仮定を捨て,ベキ分布のような厄介な事実に向き合うことを意味する。上で紹介した本は,現実により忠実であろうとする新たな統計学が今後登場するための,序曲としての役割を果たしているかもしれない。
 

普通人がなすべきこと

2009-04-23 23:38:29 | Weblog
今朝の日経,野球評論家の豊田泰光氏の「チェンジアップ」というコラムが気になった。MLB のイチローや松井秀が,そろそろ年齢を気にする年代に達しつつあることを指摘し,「プロ野球選手が衰えていく過程は才能あふれ,すべてをほしいままにしていた人が普通の人間に近づいていくことを意味する」と豊田氏は書く。氏自身は「ここというとき打てなくなったとき」そう意識したという。

優れた人材は到達したレベルが高いので,「衰え」によって失うものが非常に大きい。したがって,その苦痛は凡人をはるかにしのぐ。逆にいえば,凡人は自分の衰えに気づくのが遅いので,その分幸せかもしれない。かくいうぼくも,最近になってようやく,衰えが抜き差しならぬものであることから目を背けられなくなった。遅すぎるといわれたとしても,そのほうが幸せだったことは確かだ。

ずいぶん前に,多分著者はスキデルスキーだったと思うが,社会科学(特に経済学)の研究にオリジナルティを求めることの愚を説いた本を読んだことを思い出す。彼によれば,オリジナリティを求めていいのは(ケインズのごとき)少数の天才であって,他の多くの凡庸な研究者は,わずかなオリジナリティを求めてつまらぬ論文を書くよりは,価値ある古典の解説をすべきであるという。

大学で教えながらときどき感じるのは,真に基礎的な知識を教えることの重要性だ。教員たちが,これこそ自分の天命と信じて行なっている研究は,たとえ同業者のサークルで高く評価されたとしても,そうした真の基礎的知識になり得るものはほんのわずかでしかない。だとすれば,「普通の」大学教員はどこかで研究はほどほどにして,教育により重心を移すべきかもしれない。

大きな本屋を歩いていると,わくわくする知識がいかに世に溢れているかに驚く。学術誌の目次を眺めても,読むべき論文が途切れなく現れることに嘆息する。そこに自分の貢献を加えたいという願望と,選り抜かれた真に学ぶべき知識を後進に伝えたいという2つの願望がある。自分はどうも後者の使命を担っているのではという思いが,今日本屋を歩いているとき去来した。

だが,それならそれで,重要な文献を網羅的かつ徹底的に読み込み,整理する必要がある。それまた大変なことで,それもできないということになれば,「普通以下」ってことになるのかな。天才であることからほど遠い人間が,あるとき自分が紛れもなく普通人であると自覚し,それらしく生きようと決意したものの,結局普通人にもなれないのだとしたら,あまりに痛すぎる・・・。

顧客の脳内を読み取る

2009-04-21 23:38:57 | Weblog
ニューロ・マーケティングはニューロ・エコノミクスに比べ,まだ実体がはっきりしないが,実務家の注目が集まっているのは,それによって顧客の心の内を,ことばを介さず読み取れるのではないかと期待するからだろう。ことばにするとき入り込むバイアスを回避し,ことばにならない無意識まで把握できるとなれば,何と素晴らしいことかと。

だから,WIRED で次のような記事を見つけると,近い将来,消費者の頭のなかにある,ことばにならない気持ちを,ことばを介することなく,直接消費者の「脳から」くみ取ることができるのではないかと,ついつい期待してしまうことになる。

脳から『Twitter』に直接送信(動画)

こういう技術を,Brain-Computer Interface というらしい。それによって,身体の自由がきかない病に冒されても,脳波を通じて義肢を制御できるようになる。記事で紹介されている技術では,脳波をアルファベットに変換することができる。脳波をことば代わりに使うということであって,ことばでは伝えられない何かを伝えるという話ではない。

だが,いつかそんな技術が生まれるかもしれない。『日経情報ストラテジー』5月号は「顧客経験価値の見える化」を特集している。きわめて主観的な顧客の経験をどうやって形にするのか(形にしないと見えないわけで)と興味がわく。経験価値なるものをスコア化し,それをグラフにするといった類の「見える化」だとしたら,がっかりだが。

日経情報ストラテジー 2009年 05月号 [雑誌]

日経BP出版センター

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だが,この特集はいい意味で,ぼくの意地悪な期待を裏切ってくれた。そこでいう「顧客経験価値の見える化」とは,本来個々人の経験として終わってしまう買物や消費に伴う感動や喜びを,ウェブなどを通じて他の見込み客にいかに伝えるかという話であった。実際の事例がいくつか紹介されており,教材として使えるかもしれない。

ウェブ上での経験の交換は,現状では,ことばによる媒介抜きには難しい。したがって,経験価値マーケティングなるものが本来重視するはずの,リアルの全感覚的コミュニケーションにはまだ至らない。しかし,いずれ Brain-Computer-Brain Interface 技術が実現して,顧客経験価値は「見えないが,感じられる化」するだろう。
 
そういう夢を見たいと思う今日この頃。
 

進化経済学が見たサービス・イノベーション

2009-04-20 23:48:51 | Weblog
イノベーションの経済学に関する書物は世にあふれている。イノベーションの結果が累積したといえる経済成長の軌跡を,経済学は合理的選択と均衡の帰結として,事後的に見事に説明するかもしれない。しかし,これから何かを生み出そうとするとき,そこから役に立つ知識が得られるだろうか?あるいは,サービスという,形がなく不確実で複雑な価値のイノベーションに,何か意味のあることを語れるだろうか?

個人の過度の合理性や均衡論を前提としない非主流派の経済学,たとえば「進化経済学」にはその可能性がある。Journal of Evolutionary Economics, 2009年4月号 では,何とサービス・イノベーションを特集している! ただし,ここで扱われているのは B2B サービスばかりだ。消費者研究の欠落は,マーケティング研究者が補うしかない。もちろん,進化経済学や行動経済学とスピリットを共有できるという条件で。



野球観戦の快楽と苦痛

2009-04-19 11:03:01 | Weblog
昨夜,元同僚とその友人とそのまた友人(とその子ども),共同研究者とその友人,総勢9人のカープファン("このなかに一人,私を裏切る者がいる,とイエスはいわれた")で神宮で野球観戦。結果は「残念」なものでなったたが,しかたない。試合後,広島風お好み焼き屋で開いた「反省会」で,あーだこーだいうのも愉しみの一つではある。

ただ最近ぼくは,野球観戦,あるいはスポーツの観戦という行為を「辛い」と感じるようになってきた。なぜなら,応援している人間は,ただ「祈る」ことしかできないからだ。結果に対して,自分はこれっぽちも影響を与えられないことの苦痛。熱意を込めて応援すれば(「気」を送れば!)少しは影響する,とあえて「思い込む」気力も衰えてきた。

結果に自分が何も影響を与えられない点では,映画を見るのも同じだが,映画では結果はすでに決まっている。そして多くの場合,結果は期待を裏切らない(正義は勝つ!)。しかし,スポーツの勝ち負けに筋書きはない。つまり,宝くじを買うのと同じ,純粋にして完全なギャンブルなのだ。それを楽しめるかどうかが,快と苦の境目になる。

自分になす術が全くないことの苦痛を,逆に快楽とできるか,といいかえてもよい。
 

希望がない世界での希望

2009-04-17 23:01:54 | Weblog
本屋で以下の表紙を見かけたとき,一瞬「朝日ジャーナル」復刊か,と思ったが,どうも「週刊朝日」の増刊号としての一時的復刊のようだ。なぜいまなのか?蟹工船ブームの次を狙っているのか? 巻頭言で編集長は以下のように書いている:
・・・そして何よりも見過ごせないのは、就職や内定取り消しなどで受難が続く若者たちが、この国の将来に「希望」を見出せないことである。「展望のない国に、希望を持てない若者たち」。この国はどこへ行こうとしているのか。いまこの時代に「ジャーナル」があったら,どんな論陣を張っていただろう。そんな思いが日に日に強くなっていった。
週刊朝日緊急増刊 朝日ジャーナル [雑誌]

朝日新聞出版

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こうした「重い」思いへの回答が,それに続く巻頭論文で,(ぼくにとっては)予想外の形で示される。見田宗介氏は「現代社会はどこに向かうか 世界の有限という現実 <持続する現在>の生へ」という論文を,1973年以降5年おきにNHK放送文化研究所が続けている意識調査の分析から始める。それによれば,ここ30年で,世代間の意識の差がかなり縮小してしまったという。世代による意識の変化がなくなるということは,歴史が減速ないし停止し始めているということでもある。

19世紀から20世紀へ加速度的に成長してきた歴史が,ここにきて減速ないし停滞し始めたとしたら,そのプロセスはロジスティック曲線として描かれる。そして,最近の兆候は,曲線が上限に収束しつつあることを示唆している。GM とともに始まった「デザインと広告とクレジット」によって需要を無限に拡大する<情報化/消費化資本主義>は,現下の GM の危機的状況に象徴されるように限界を露呈したのだと。しかし見田氏はそのことを嘆くよりは,肯定的に捉えようとする。

そこで「<持続する現在>の生の輝きを享受する」という結論に至るが,「「近代」の思考の慣性のうちにある」ぼくには,はっきりした像を思い描けない。一方,浅田彰氏が「まったく希望がないのに戦い続ける大胆さ。僕は21世紀は「THE AUDACITY OF HOPELESSNESS」だと思うな」と述べ,それを受けて東浩紀氏が「今は希望がない世界をいかに生き抜いていくかを考えるべきで、大胆に希望を語っても摩耗するに決まっている」と述べている座談会は,重く暗いムードに満ちている。

期待以上に面白かったのが,「元資本家」堀江貴文氏と「現役共産党員」浅尾大輔氏の対談だ。お二方とも30代後半の同世代だが,それより少し若い「ロスジェネ世代」について,浅尾氏は「みんながみんな堀江さんにはなれないんです」という。それに対して堀江氏は「いや,なれないんじゃなくて,なるしかないんだと思いますよ」と答える。議論は終始この調子で,個人としての解決を主張する堀江氏と,社会的な解決を主張する(と思われる)浅尾氏は平行線をたどる。

ところが後半,堀江氏から「社会的な」発言が出てくる。まず,彼はベーシック・インカムの導入を,起業リスクを減少させ,起業家を増やす手段として評価しているという。また,ライブドアの株式の100分割を「みんなが資本家になれる仕組み」だと考えていたという。浅尾氏はそれに対して「「生産手段の社会化」というマルクスの構想に近いものがある。(笑い)」と応じている。

堀江氏は,ブログで検察を批判しつつ,「たとえば、リクルート事件なんて、江副浩正という稀代の才能を20年間も眠らせてしまったわけですからね。彼があのまま活躍していたら、と思うと切なくなりますね。」と書いている。同様に,堀江氏が「あのまま活躍していたら」何を実現していたかを考えてみたくなる(もちろん,今後の活躍をまだまだ期待できるわけだが・・・)。

「朝日ジャーナル」的なものは,希望の復活に貢献するのだろうか? ぼくがこの増刊号で希望,あるいは夢を感じた部分は,ホリエモン的な起業家精神であって,昔懐かしい「批評家精神」ではどうもないようだ。そういう意味で「ジャーナル」復刊は年に一度の同窓会としてはあり得ても,それ以上のものにはならない気がする。もちろんたまに同窓会に出るのは,悪くないが。

神保町・お茶の水でカレーを食う

2009-04-16 13:21:37 | Weblog
神保町・お茶の水は,いつのまにかカレーの街になっていた。このところ明治大学商学部大友ゼミの学生たちが作った「カレエコMAP」をもとに,昼はできる限りカレー店を訪れてきた。ただし,インド料理店の「本来の」カレーは好きではないので除外した(本格中華料理店のラーメンより,いわゆるラーメン屋のラーメンが好きなのと同じだ)。



神保町界隈のカレーの有名店といえば,まず挙がるのがスマトラカレーの「共栄堂」だ。このへんで働いていた「昔」もずいぶん通った。インド風とはちと違う風味が人気だが,ぼくは正直いって,大好きとまではいかない。ただし,お酢にレタスを浸したサラダが非常に美味しいこと,大量のらっきょうがテーブルに置かれている点がうれしい。

もう一方の有名店として「エチオピア」がある。辛さは0~70倍まで。0倍を頼んでみたが(他にそんな軟弱な客は他にはいなかった),それでも十分辛い! シャーベットが無料でつくのはありがたい。辛いのが苦手な人は行くべきではないだろう(片平先生のお気に入りのだったはずだが,何倍の辛さのカレーを食されていたのだろう・・・)。

辛い系だが耐えられる範囲なのが,御茶ノ水駅聖橋口近くの「カレー屋ジョニー」。うっかり通り過ぎしてしまいそうな間口の狭い店舗。ドロドロ系で,トッピングやサイドメニューが豊富。サラダは安くてリッチ。最近代々木にも出店し,成長しようという,いい意味でのビジネスマインドが感じられる。近所の「GOGOカレー」に追いつけるか・・・。

意外なのが,神保町界隈の有名喫茶店のカレーがなかなかイケることだ(「昔」は全く気づかなかった)。すずらん通り近くの「ラドリオ」や「さぼうる2」のカレーは,いずれもドロッとした日本型カレー。「よくある」喫茶店のカレーの味を超えている。コーヒー(特にラドリオのウィンナーコーヒー)込みで千円以下という価格がリーズナブル。

この界隈の喫茶店で,「古瀬戸」を忘れるわけにはいかない。こちらはインド風のカレーで,高めの価格設定。ゆっくり食事するには,こちらもいい。その近所で,上述の「MAP」には出ていない「チャボ」が,昼間はホワイトカレーを出す。ここは長い間閉店していたが,いまは映画音楽居酒屋になっている。あと「タカオカ」があればなあ・・・。

白いカレーがあれば,黒いカレーもある。すずらん通り表通りに昔からある「キッチン南海」,いつも行列ができているので遠慮してきたが,今回初めて入る。狭い店内で,テーブル席に詰めて座らされたため,隣りの客に右手がぶつからないように食べるのに気をつかう。名物だというカツカレーを頼むが,窮屈さが災いして,味わった気がしない。

カツカレーではすごい店がある。白山通り(水道橋方向)沿いの路地にある「まんてん」,ここもいつも長蛇の列。目の前でカツが揚がる様を見ながら,ドロドロカレーを食べる。量が半端でなく多く,後半バテ気味に(それで600円は安いが・・・)。一緒に来た友人と「無理して」カウンターに並んで座ろうとした学生が,お店の人に叱られていた。

三井住友海上近くの「元祖とろカツカレーの店 神田駿河台店」。あまりキレイな店構えではないので,訪問時には気がつかなかったが,チェーン店だった。「とろカツ」なるもの,確かに柔らかくて美味しい。「MAP」には「豚の角煮に使われる,豚バラの部分を使用している」とある。カツカレーはさほど好きではないが,これなら問題ない。

新興勢力に目を転じると,スープカレーの「鴻(オードリー)」。すずらん通り近く(夜は居酒屋)と,明大の並びに2店がある。スープカレーは北大の近くでも食べたことがあるが,そのときもいまも,食べ方がよくわからない。野菜が多くて,健康に良さそうだが,やっぱりカレーはドロドロしていたほうがいいと思うぼくには,ちょっと・・・。

「MAP」に出ていないが,ぼくが「昔」よく行ったのは,欧風カレーの「ボンディ」と「ペルソナ」だ。結局ぼくは,こういうカレーが好きなのだと思う。上述のお店以外にも,まだまだ「隠れたカレー名店」がありそうな気配だ。今後とも,じっくり「探求の旅」を続けたい。

注意)以上の「評価」はあくまでぼく個人の,特殊なものであり,実際に自分で試していただくようお願いします。

iPhone のシェアを論じることの意味

2009-04-15 17:02:45 | Weblog
ITMediaの「 iPhoneアプリ開発者は「愛」故に負けるのか? 」と題するコラムで,シリコンバレーのモバイル・アプリの開発者たちが IPhone ばかりに注目し,それよりはるかに大きなシェアを持つ Nokia が仕掛ける OviStore に関心を示さないことが批判されている。また,彼らは Android, BlackBerry, Windows Mobile にもさほど関心を持っていない。 これは,大いなる機会損失ではないか,というわけだ。

このコラムを書く Joe Wilcox 氏いわく,
新しいプラットフォームにとって鶏と卵の問題はつきものだ―デバイスやプラットフォームの売り上げとアプリケーションはどちらが先だろうか? 普通、開発者はユーザーのいないアプリケーションを開発したがらない。同様に、アプリケーションのないプラットフォームは人気が出ない。iPhoneは、アプリケーション開発がプラットフォームとデバイスの普及をはるかに超えているという点で、この一般原則から少々外れている。
ハードとソフトの共進化的普及プロセス。これは,普及研究にとっても重要なテーマである。鶏と卵の問題だといいつも,Wilcox 氏のいいたいことは,iPhone の場合ハードの普及が遅れすぎており,それはソフトの商売にいずれ限界をもたらすだろう,ということだろう。一方,その逆の見方をするのが,iPhone 向けアプリの開発者でもある中島聡氏である。中島氏はブログのなかで以下のように述べている:
iPhoneのマーケットシェアは携帯電話全体で見れば高々1%だが、アプリケーションのダウンロード数という意味で言えば、既にJavaアプリすべてを会わせた数字を上回っているというデータもある(参照←これは米国のケース)。既に「iPhoneが売れているからアプリを作る→面白いアプリが沢山あるからiPhoneを買う」というサイクルが始まっており、少なくとも市場規模でSony PSPやNintendo DSと並べるプラットフォームになることは目に見えている。
同じことが,他の国―とりわけ日本で起きるかどうか,大いに気になるところである。最近頻繁に目にする,アプリを全面に出した CM はそれを狙っているのだろう。ただし,このサイクルが米国のみにとどまるなら,iPhone に固執していると世界市場に進出できない,という主張の説得力が増すように思える。だが,全世界のモバイル市場の数%のシェアしか得られないことは,ビジネスとして問題なのだろうか?

中島氏は別のエントリで,Macintosh は「パソコン業界のBMW(ルイビトンでも良い)の位置を確固たるものとして、キャッシュフローを生み出し続けるように保つことがとても大切である」と述べている。同じことが,iPhone にも当てはまるとしたら,本来は異なる市場といってもよい Nokia のシェアをさほど意識する必要はない。そもそもクリエイティブなビジネスにとって,シェアはあまり意味のある指標ではないように思う。

重要なのは,そのビジネスを持続・発展させるうえで最低限必要な販売量を充足しているかどうか,ではなかろうか。それさえ突破できれば,「iPhoneは世界中に1700万台。Nokiaは2010年末までに4億台の端末がOvi Storeに対応すると考えている」といわれても全く気にとめなかった(と上述のコラムにある)シリコンバレーの技術者たちは,何ら非難されるいわれはない。

ところで,以下の一連のエントリでは,中島氏がワシントン大学のMBAコースに提出したレポートをもとに,アップルに関するSWOT分析などが展開されており,eBusiness 企業の戦略を考える資料として大変有用である:
AppleをAppleにしているもの
Appleの将来について考えてみる
Appleが打つべき次の一手

ミッキー死す

2009-04-14 23:45:44 | Weblog
夜のスポーツニュースに映ったマツダスタジアム,半旗が掲げられてきた。誰を追悼しているのか,そのときはよく聞き取れなかったが,調べてみると亡くなったのは「ミッキー」であった。ただし,ミッキーといっても「あの」ミッキーではなく,「この」ミッキーだ・・・

背番号111、ボール犬ミッキー逝く カープが半旗



カープの選手たちは,あまりの哀しさのせいか,ベイスターズの投手を打ち崩せなかった。はなむけのため勝つよりは,喪に服して負けることを選ぶあたり,大変奥ゆかしいチームだと思う。私もまた弔意を表すために,秋までに広島を訪れたいが,いまのところその機会はない・・・。

経済学は物理学,生物学を範とすべきか

2009-04-13 15:22:37 | Weblog

東京大学東洋文化研究所の安富歩氏が,経済学と物理学や生物学との関係について興味深い発言をされている。これは,経済学が古典力学に範を得ているという,よくある見方に反論したものだ。均衡概念の危険性について(2)というエントリから引用すると・・・

実のところ、新古典派経済学は、古典力学に全然似ていない。というのも、理想化された古典力学系では散逸がないので、安定平衡点を持たないからである。平衡概念が大活躍するのは熱力学・統計力学の方である。・・・
・・・新古典派経済学が一番似ているのは、古典力学ではなく、平衡状態とその近傍を扱う統計力学である。ところが、経済現象は明らかに、非平衡統計力学の扱う開放系における現象、それも猛烈に複雑で巨大で眩暈がしそうなくらい取り扱いの困難なものである。
したがって,仮に経済学を物理学に対応づけるにしても,その(未だ存在しないほど)最先端の領域ということになる。では,生物学に倣うという考え方はどうか。別のエントリで,安富氏はこれに対しても否定的な見解を述べる:
経済現象の複雑さは生易しいものではないので、現在の非平衡統計力学ではまったく歯が立たない。・・・熱力学に範をとっても、経済現象は論じられないように思う。では生物学はどうだろうか。私の考えでは、現在の生物学はそれほど頼りになるものではない。たとえばメイナード・スミスを始祖とする数理的な進化生物学は、驚くほど新古典派経済学に似ている。 
・・・10年ほど前になるが、京大で生物学者と物理学者とが対話するための比較的大きな研究会が開かれた。そのとき物理学者が生命の生命らしさについて熱っぽく語るのに対して、生物学者が強い不快感を示していた。そこで司会者が「生命にはいわゆる物理現象を超える何かがある、と思う人は挙手してください」というと、手を挙げた人はほとんどが物理学者であった。
同じことを経済学に当てはめれば,経済の経済らしさを熱っぽく語れるのは,経済学者以外の誰か(物理学者?)になるのかもしれない。安富氏が経済学が見倣うべきものとして挙げるのは,「オルタナティブな医学」である。つまり・・・
手術や投薬に依存する現代医学の真似事を経済に対して展開することの危険性は、すでに明らかであるが、かといって、具合の悪い患者をほったらかしにするわけにはいかない。そうすると、按摩をしたり、鍼を打ったり、食事療法を薦めたり、カウンセリングをしたり、といったやり方で、健康回復の手助けをする以外にない。経済学はそういう方向を目指すべきであり、その手本は経済学・経営学のなかにも既にあるように思う。
それが民間療法のようなものだとしたら,「最新の経済学」に通じていないと批判されることもある,いわゆる「民間エコノミスト」(その最良質の部分)に近いものかもしれない。経営学では,ドラッカーのような「アカデミックでない」碩学が思い浮かぶ・・・。

それはともかく,ある現象をその「下位」に還元するのではなく,そのレベルに相応しい言語を確立するという課題は,1月に池上高志さんの講義を聴いて以降,ぼくのなかでより意識されるようになった。実際どう展開するのかの見当はつかないが・・・。 

他者の存在と美の進化論

2009-04-11 22:28:56 | Weblog
カネボウ化粧品と茂木健一郎氏の共同研究の成果をまとめた本。その主な発見は,すでに報じられているように,女性が化粧している自分の顔を見たときの脳反応は,スッピンの自分の顔を見ているときより,他者の顔を見ているときのそれに近い,というもの。つまり,化粧した顔は,すでに他者に近いものとして知覚されていることになる。

化粧する脳 (集英社新書 486G)
茂木 健一郎
集英社

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そこから茂木氏は,「化粧はソーシャルパスポート」だと述べる。「化粧した自分」は社会の構成員として,他者と同じ場所に位置づけられる。なぜ女性だけが化粧するのかについては,女性のほうが社会性が高く,そうしたスキルに長けている,と説明される。他方,(旧世代の)男性には,そこが決定的に欠けていると。
先日,アカデミー賞をとった「おくりびと」をDVDで見た。死化粧を施すシーンが印象的だったが,これはどのように解すればいいだろうか・・・
化粧について論じる前に,茂木氏はまず,顔が人間のコミュニケーションにとっていかに重要かを確認する。そして,ミラーニューロンの発見へと話を進め,それが「社会的知性」を発見した点で画期的であったと語る。そして顔。それこそが,相手について情報を得るための重要な手がかりになる。社会的知性とは,顔に向けられた知性である。

顔の話になれば,美醜の問題は避けて通れない。茂木氏の議論は「美の進化論」,つまり性淘汰に向かう。個人的には,ここに最も興味を感じる。何が美になるかは必然的というより恣意的といったほうがよい。しかし,いったん美が「社会的に」認知されると,それに向かって進化が起きる。これはバブルのメカニズムと似ていると,茂木氏はいう。

刺激的な議論だ。しかし,バブルはいつか必ずはじけるが,美をめぐる性淘汰は不可逆的にみえる。この点の違いは決して無視できない。したがって,性淘汰は,バブル以上の何かなのだ。茂木氏の話はさらに広がっていくが,ぼくはこの問題,美の進化における「他者」の役割に最も関心がある。いつか研究してみたいと思う。本気である。