一種独特な雰囲気をかもし出す湖北、その奥琵琶湖に突き出した半島の最奥地に時間を超越したように甍を連ねる菅浦集落。
菅浦集落へは昭和46年に至るまで陸路がなく、集落への交通は舟によるしかなかったため、かつては「陸の孤島」といわれ、今でも隠れ里の雰囲気が強く感じられるところです。
現在この集落へは山越えで葛篭尾峠?(つづらおとうげ)を越える奥琵琶湖パークウエイを経由するのと大浦から湖岸経由で辿りつくことが出来るが、冬場には山越えのパークウエーは閉鎖される。
湖岸沿いに軒を並べる集落は約100軒ばかし、こんな辺境の地に有って中々どうして、まだまだ活気の感じられる集落です。
湖岸沿いの集落入り口辺りにはバス停と広場が有って、脇には茅葺き屋根の四足門がある。
四足門の傍らには六体地蔵、六体地蔵には身からこぼれ落ちんばかしの涎掛け、傍らに立てかけられた辻蝋。
見るものなにもがタイムスリップしたかのよう・・・
一方集落の東外れにも同じく湖岸に建つ萱葺き屋根の四足門・・・・、これだけでも古い中世文化を彷彿とさせる。
かって、ここで村に入ってくる外来者の監視にあたったと言われています。
往時この地は辺境の地に有って外界からの交通手段といえば湖上からの水運しかなく排他的で自主独立心の強い集落で、警察署や消防署も無く、惣と呼ばれる自治組織が発達していた。
バス停前の広場に車を置いて集落内を歩いてみます。
これは全くの湖岸、一昔前までは湖岸の浜辺だったに違いない。
集落内には途中まで古い二筋の道路が通っていて・・・先ずは湖岸よりの道路から集落内へ・・・
波除だろうか??民家は石垣を積んだ上に、浜辺に向かって一列に建ち並ぶ。
土蔵の軒先に吊り下げられた、曲がった手作り梯子に懐かしさを感じるのは田舎育ちゆえか・・・。
しっかり活気の感じられる家並みは夏ともなると行楽客や釣り客で賑わいそう・・・。
集落の其処此処には「歳の実」と呼ばれる呪具がぶら下げられている。
こんなところにも・・・
こんなところにも・・・大晦日に神社から授かって来ると言う・・・
稲穂のついた藁の根元に小石を結わえ付け・・・・おそらくは来る歳の五穀豊穣や大漁、家内安全を願う呪具なのだろう???
古い集落には古いしきたりが良く残っている・・・・、良く似たものは琵琶湖周辺域の山の神場でも見かけることは有るけれど・・・・
浜辺にはやっぱり石組みの古い波除が残り、菅浦の景観の一部と成っている。
集落中央部二本の通りが交わる辺り・・ゆっくり時間が過ぎゆく様な穏やかで平和な匂いがする・・・
中にはこうして廃家に成ってしまった民家も・・・しかしそれは一握りのようだったけど??
集落の高台には浅井長政由緒寺と刻まれた寺院。
その境内から見た中通りの家並、ここは半農半漁の集落・・・・
一方、集落西入り口には琵琶湖を正面に、古い歴史を秘めた須賀神社の大きな石造一の鳥居が建っている。
ながい長い石畳の参道が一直線に斜面まで続いて・・・・
正面には鏡のように、あくまでも穏やかな琵琶の湖・・
一の鳥居脇に以前は茅葺屋根だったという御供所??が二棟と、手前は神輿蔵か・・・。
参道を進むこと200mばかし・・・・、この先自然石積みの石段に成っていて
土足禁止の表示・・・氏子以外は土足でも構わないと云うことでしたが、備え付けのスリッパに履き替えて登った。
ここには奈良時代に恵美押勝の乱で負け、廃位になった淳仁天皇が住んでいたという伝説が残り、信仰心の篤い集落の人々は今も不運の天皇を強く尊敬し土足での参拝はしない。
石段下より正面にに見る社殿
社殿(拝殿か??)斜面を切り開いた狭い台地に建っている。
社殿奥には本殿・・、本殿背後の石組は舟形御陵と呼ばれる淳仁天皇の塚だと伝えられているそうです。
<夏場には草に覆われ塚だと云うことも確認出来ないほど・・・>
須賀神社は往時、保良(ほら)宮と呼ばれ、もちろん祭神は淳仁天皇、村の人々はこの淳仁天皇に仕えた人々の子孫であると言い伝えられているようです。
集落の佇まいと云い、須賀神社の伝説と云い、奥琵琶湖と云うロケーションと共に、とにかく印象深い土地です。
撮影2009.2.7/2011.2.20/2011.8.15