「なにか最初おかしかったけど、まあ」と休憩中のこの言葉に鈴木のバッハの全てが表れていた。欧州で少なくともドイツで通じるようなバッハの演奏実践ではないことは分っていたのだが、評判の良い録音や日本での評価などを聞くとある面での秀逸さを期待したのだった。しかしそれは恐らく演奏旅行の疲れが影響しているのだろう肝心の合唱団にも管弦楽にも裏切られた。少なくとも千人以上は集まったかのように見えた聴衆の気持ちは同じだったと思う。
我々が期待していたのは、斉藤記念のような完璧にディテールまで磨かれ考えつくされた技術と、明晰に実践される解釈だったのだ。それは監督の鈴木のコープマン批判やその他の発言などで裏打ちされているかのような錯覚を覚えていたのに裏切られたのである。
それ以前に古楽の演奏団体として、それ以前にアンサムブルとして可也問題があったことも事実で、特にティムパニーなどの叩きには皆耳を背けるほどであって、あれは普段から余程デットな音響の場所で練習や演奏会を行っているとしか思えないようなアンサムブルで、同じようにせかせかして、響きを解放できない演奏様式は当日のバーデンバーデンの祝祭劇場に責任があるとは思えないのである。
なるほど世界中の様々なアンサムブルはおかしなバッハ演奏を繰り広げているわけだが、別な視点からするとドイツのアンサムブルでまともな今日のバッハを演奏している例も殆どないのである。それでも鈴木のそれが受け入れがたい以前の問題であることは別の問題であるように思われる。
十分なフレージングも息づかせずにまるで息を止めたような詰まるようなせかせかした調子は録音で確認済みであったが、少なくともそこでは綺麗にアタックが揃うことでまるで素晴らしいアンサムブルかのように聞こえている録音編集の技なのか実態なのかは生で確かめるしかなかったのである。それにしても古楽器をぽきぽきと重量感無く鳴らすこと自体はそれは一つの表現方法と認めるとしても ― まるでトヨタのレクサスでアウトバーンを飛ばすような感じで心地よい慣性に欠けているとしても ―、ドローンまでとは言わないが少なくとも必要最小限の通奏低音 ― 鈴木の息子さんがオルガンを弾いて、ファゴットもチェロも慣性の反対の運動性すら十分に示せていない ― を響かさないことにはまともなハーモニーも対位法も浮かび上がらないことは自明であって、全ての聴衆はこの訳の分らない音楽に度肝を抜かれた。最初の数分で出て行った人は「一を聞いて十を知った」のかもしれない。
なるほど通奏低音を歯切れ良く運動性をもって鳴らすこと自体はここでも紹介していてそれ自体はなにも特別なことではないのだが、一部始終同じ按配でそれ以外の演奏方法を拒絶するドグマがそこに存在することに追々皆が気がつく頃には会場は冷え切った。当日は幾ら教会の日と言ってもドグマに敏感な連邦共和国国民である。文化的な不理解か?ライプチッヒのバッハ賞受賞って一体なんだ?
世界中の古楽の演奏団体を数々聞いてきたが、このような演奏する団体は始めてである。延原武春の管弦楽団でもこんなおかしなことはしていなっかったように記憶する。これならば二十年以上前に本格的な古楽器で自然音階のピュアーなラッパを吹かせていたエリクソン指揮のスェーデンの楽団の方か遥かに凄かった。
宜しい、サウンドや音楽の響き方を別にして、当日の演奏前のレクチュァにあったような「Et in unum Dominum」における鏡面構造のカノンエコー効果や「Et incarnatus est」の天から地上へ降下のラメント旋律や「Crucifixus etiam pro nobis」の輪廻するパッサカリア効果などの神学的な象徴の解読が感覚的に感知できるものとしてどれだけ示されていたか?少なくとも音響的にそれが明白に示された場面を意識させたことは皆無で、寧ろモノクロな空虚を響かせ続けた。
しかし、多くは鈴木とそのアンサムブルに責任があるとは思わない。同じような問題は全ての日本の音楽家が持っている問題であり、多くの日本人が西洋音楽を奏でられない理由をそこで追及することになる。嘗て日本の演奏家などとの付き合いでドイツ語の発声法と同じで深い響きの出し方というものは楽器の場合も共通しているというのも聞いていたのだが、今回の東京からの楽団を聞いてなによりもそれを思い起こした。
因みに当日の演奏は、写真で分るように地元のSWR2が中継録音していたので、六月七日九時三十分(日本時刻同日十六時三十分)からネットでも試聴出来る。
参照:
聖霊降臨祭のミサは如何に 2012-04-19 | 音
ハレルヤ!晴れるや? 2011-12-07 | BLOG研究
フランスにおける福島の影 2011-04-24 | マスメディア批評
聖なるかな、待降節の調べ 2009-12-14 | 音
西洋音楽をどこまで「訓読」できますか? (考える葦笛)
我々が期待していたのは、斉藤記念のような完璧にディテールまで磨かれ考えつくされた技術と、明晰に実践される解釈だったのだ。それは監督の鈴木のコープマン批判やその他の発言などで裏打ちされているかのような錯覚を覚えていたのに裏切られたのである。
それ以前に古楽の演奏団体として、それ以前にアンサムブルとして可也問題があったことも事実で、特にティムパニーなどの叩きには皆耳を背けるほどであって、あれは普段から余程デットな音響の場所で練習や演奏会を行っているとしか思えないようなアンサムブルで、同じようにせかせかして、響きを解放できない演奏様式は当日のバーデンバーデンの祝祭劇場に責任があるとは思えないのである。
なるほど世界中の様々なアンサムブルはおかしなバッハ演奏を繰り広げているわけだが、別な視点からするとドイツのアンサムブルでまともな今日のバッハを演奏している例も殆どないのである。それでも鈴木のそれが受け入れがたい以前の問題であることは別の問題であるように思われる。
十分なフレージングも息づかせずにまるで息を止めたような詰まるようなせかせかした調子は録音で確認済みであったが、少なくともそこでは綺麗にアタックが揃うことでまるで素晴らしいアンサムブルかのように聞こえている録音編集の技なのか実態なのかは生で確かめるしかなかったのである。それにしても古楽器をぽきぽきと重量感無く鳴らすこと自体はそれは一つの表現方法と認めるとしても ― まるでトヨタのレクサスでアウトバーンを飛ばすような感じで心地よい慣性に欠けているとしても ―、ドローンまでとは言わないが少なくとも必要最小限の通奏低音 ― 鈴木の息子さんがオルガンを弾いて、ファゴットもチェロも慣性の反対の運動性すら十分に示せていない ― を響かさないことにはまともなハーモニーも対位法も浮かび上がらないことは自明であって、全ての聴衆はこの訳の分らない音楽に度肝を抜かれた。最初の数分で出て行った人は「一を聞いて十を知った」のかもしれない。
なるほど通奏低音を歯切れ良く運動性をもって鳴らすこと自体はここでも紹介していてそれ自体はなにも特別なことではないのだが、一部始終同じ按配でそれ以外の演奏方法を拒絶するドグマがそこに存在することに追々皆が気がつく頃には会場は冷え切った。当日は幾ら教会の日と言ってもドグマに敏感な連邦共和国国民である。文化的な不理解か?ライプチッヒのバッハ賞受賞って一体なんだ?
世界中の古楽の演奏団体を数々聞いてきたが、このような演奏する団体は始めてである。延原武春の管弦楽団でもこんなおかしなことはしていなっかったように記憶する。これならば二十年以上前に本格的な古楽器で自然音階のピュアーなラッパを吹かせていたエリクソン指揮のスェーデンの楽団の方か遥かに凄かった。
宜しい、サウンドや音楽の響き方を別にして、当日の演奏前のレクチュァにあったような「Et in unum Dominum」における鏡面構造のカノンエコー効果や「Et incarnatus est」の天から地上へ降下のラメント旋律や「Crucifixus etiam pro nobis」の輪廻するパッサカリア効果などの神学的な象徴の解読が感覚的に感知できるものとしてどれだけ示されていたか?少なくとも音響的にそれが明白に示された場面を意識させたことは皆無で、寧ろモノクロな空虚を響かせ続けた。
しかし、多くは鈴木とそのアンサムブルに責任があるとは思わない。同じような問題は全ての日本の音楽家が持っている問題であり、多くの日本人が西洋音楽を奏でられない理由をそこで追及することになる。嘗て日本の演奏家などとの付き合いでドイツ語の発声法と同じで深い響きの出し方というものは楽器の場合も共通しているというのも聞いていたのだが、今回の東京からの楽団を聞いてなによりもそれを思い起こした。
因みに当日の演奏は、写真で分るように地元のSWR2が中継録音していたので、六月七日九時三十分(日本時刻同日十六時三十分)からネットでも試聴出来る。
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