「ベートーヴェンやブルックナー、マーラーの巨大な交響曲をただ単に抽象的な芸術として演奏するときなにか間違っている」と語るのは、ポストメルケルの首相候補ツ・グッテンベルク防衛相の父親でありフォン・ブール醸造所を売り払ってしまった指揮者エーノック・ツ・グッテンベルクである。
つまり彼は、自らの信仰告白などよりも例えば大バッハのそれを確かに掴んでないといけないとして、その演奏実践の手本として指揮者アーノンクールを筆頭に挙げる。つまりどんな革新的な芸術作品であろうともその演奏実践の変遷を考えれば今の我々には耳馴染みとなってしまっているので、お手本を示すその指揮者のような「誇張の演奏実践」が必要だとするのである。それによって指揮者として批判を受けるリスクは犯しても仕方ないと主張する。そのようにベートーヴェンの「ミサソレムニス」においても商業主義のカラヤン化を批判しつつ、「内と外環境の平安を」を政治的なメッセージを強調すると語る。
少なくともツ・グッテンベルク家は騎士として十三世紀へと遡れ、今もってそのノイグッテンベルク城を居城とする領主様として誉れが高い正式名ゲオルク・エノック・ロベルト・プロスペル・フィリップ・フランツ・カール・テオドール・マリア・ハインリッヒ・ヨハネス・ルイポルト・ハルトマン・グンデロッホ・フライヘル・ウント・ツ・グッテンベルクは、インタヴューに答える。
同時にナチス統治下のヒットラー暗殺計画には王派の保守として祖父は軟禁され、大叔父カール・ルードヴィッヒは、カナリス将軍の近くでクライザウワーグループに属してヒトラー暗殺を企て1945年春に獄死している。その一方父親であるカール・テオドールは、ポーランドにおいてユダヤ人を射殺せずに親衛隊の手先を射殺したかどで軍法裁判で処刑されそうになったが、地元フランケンの好の司令官により死を間逃れたと言う。そうした名誉ある近過去から、その父親は戦後の民主主義体制の中で保守与党のキリスト教社会同盟を発足させ、ブラント首相の親東欧政策に反対する立場から元ナチスのキージンガー政権を成立させ、その後は反共の実力者ヨゼフ・シュトラウス・バイエルン首相を結果支えることになる。そうした環境において、歴代のツ・グッテンベルク家には芸術家がいないのを押し切って作曲家・指揮者を目指したご本人は、その父親と最後まで家庭内の葛藤があったと語る。
同時に特に興味深い活動として、この指揮者の環境保全への取り組みであって、昨今の緑の党とCSUの政治的な接近の歴史的な背景になっているかに見える。要するに保守的な領主としては自らの元領土である「郷土を護る」ためには原子力発電所の建設などに環境保護グループBUNDとして強い政治力を発揮する必要があったのである。その環境団体の総裁ヴァインッィールの誕生日祝いの席に招待されていた環境大臣レェットゲンが遅刻して、ぬけぬけと国会のためと釈明して彼らの顰蹙を買ったように、公務を大切にする政治家と彼らの相違をマックス・ヴェーバーの言葉を借りて、片や義務倫理の人間、片や信念倫理の人間とその差異が説明される。
要するに同じ社会的な目標を定め、その商いが上手くいくように善処する前者と、妥協の余地のない活動運動家である後者の相違は、まさにツ・グッテンベルク氏が緑の党のトリティン前大臣を称して、「自動車の制限速度や温暖化への取り組みに代えて、瓶の回収に摩り替えた」と激しく非難する所以でもある。
そうした信念は、まるで「葉隠れ」を思い起こさせるような「そのときは死をも辞さない」騎士道精神としてツ・グッテンベルク家に伝わるものだとするのには、それなりの歴史の必然性もあるが、大きな名誉として彼らを精神的に支えるものに違いないのである。当然の事ながら、食う寝る処に住む処が困らないことが、その信念の独立性を保障することは認識している。そこには同時に、また社会的な活動家がその社会主義精神から、理想主義として神風的な姿勢を示す信念にそれと同じような事象があることも思い起こさせる。
我々はここまで考察すれば、市民活動家でもあったホワイトハウスの主人がそれ故に電光石火の如く権力を掌握して、その理想の欠片も実現できないこと、嘗ては市民活動家であった総理大臣がいつの間にか政治的な権力の風見鶏となってその信念すら「葉隠れ」してしまった状況を称して、力も能力も無いジャーナリストがあれやこれやと非を指摘するだけで、何一つ状況を指し示すことが出来ないジャーナリズムこそが無用だと実感すべきなのではあるまいか。
この指揮者を必ずしも単純に保守的信念家と切って捨てれないのは、まさに氏が神の存在を否定するときであって ― その長男が総理大臣候補であることのように、その家庭を取り巻く歴史の顕現を見れば、明らかかもしれない。最後に氏の音楽家としてのその芸術観が、シェーンベルク作曲「モーゼとアロン」が完成されなかったことをして、その後の混沌と自らが作曲出来なかった言い訳としているのだが、これは氏が「もしミュンヘンの安アパートに住むマイヤー姓であったなら」とする考えと同様に、その貴族的な感覚が嘲笑の対象となるのを避けられないのである。こうして、名門ツ・グッテンベルク家が新興のチンピラ貴族のようなフォン・ヴァイツゼッカー家などとは違って、一流の芸術家どころか学者も輩出しない立派な家庭であることが実証されているようですらある。
参照:
Plötzlich kennt man ihn als Vater, Christian Wildhagen, FAZ vom 24.04.2010
Der Dirigent und seine Natur, Alard von Kittlitz, FAZ vom 6.12.2010
新社会市場主義経済構想 2009-02-11 | 歴史・時事
まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
リースリングに現を抜かす 2006-01-23 | ワイン
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つまり彼は、自らの信仰告白などよりも例えば大バッハのそれを確かに掴んでないといけないとして、その演奏実践の手本として指揮者アーノンクールを筆頭に挙げる。つまりどんな革新的な芸術作品であろうともその演奏実践の変遷を考えれば今の我々には耳馴染みとなってしまっているので、お手本を示すその指揮者のような「誇張の演奏実践」が必要だとするのである。それによって指揮者として批判を受けるリスクは犯しても仕方ないと主張する。そのようにベートーヴェンの「ミサソレムニス」においても商業主義のカラヤン化を批判しつつ、「内と外環境の平安を」を政治的なメッセージを強調すると語る。
少なくともツ・グッテンベルク家は騎士として十三世紀へと遡れ、今もってそのノイグッテンベルク城を居城とする領主様として誉れが高い正式名ゲオルク・エノック・ロベルト・プロスペル・フィリップ・フランツ・カール・テオドール・マリア・ハインリッヒ・ヨハネス・ルイポルト・ハルトマン・グンデロッホ・フライヘル・ウント・ツ・グッテンベルクは、インタヴューに答える。
同時にナチス統治下のヒットラー暗殺計画には王派の保守として祖父は軟禁され、大叔父カール・ルードヴィッヒは、カナリス将軍の近くでクライザウワーグループに属してヒトラー暗殺を企て1945年春に獄死している。その一方父親であるカール・テオドールは、ポーランドにおいてユダヤ人を射殺せずに親衛隊の手先を射殺したかどで軍法裁判で処刑されそうになったが、地元フランケンの好の司令官により死を間逃れたと言う。そうした名誉ある近過去から、その父親は戦後の民主主義体制の中で保守与党のキリスト教社会同盟を発足させ、ブラント首相の親東欧政策に反対する立場から元ナチスのキージンガー政権を成立させ、その後は反共の実力者ヨゼフ・シュトラウス・バイエルン首相を結果支えることになる。そうした環境において、歴代のツ・グッテンベルク家には芸術家がいないのを押し切って作曲家・指揮者を目指したご本人は、その父親と最後まで家庭内の葛藤があったと語る。
同時に特に興味深い活動として、この指揮者の環境保全への取り組みであって、昨今の緑の党とCSUの政治的な接近の歴史的な背景になっているかに見える。要するに保守的な領主としては自らの元領土である「郷土を護る」ためには原子力発電所の建設などに環境保護グループBUNDとして強い政治力を発揮する必要があったのである。その環境団体の総裁ヴァインッィールの誕生日祝いの席に招待されていた環境大臣レェットゲンが遅刻して、ぬけぬけと国会のためと釈明して彼らの顰蹙を買ったように、公務を大切にする政治家と彼らの相違をマックス・ヴェーバーの言葉を借りて、片や義務倫理の人間、片や信念倫理の人間とその差異が説明される。
要するに同じ社会的な目標を定め、その商いが上手くいくように善処する前者と、妥協の余地のない活動運動家である後者の相違は、まさにツ・グッテンベルク氏が緑の党のトリティン前大臣を称して、「自動車の制限速度や温暖化への取り組みに代えて、瓶の回収に摩り替えた」と激しく非難する所以でもある。
そうした信念は、まるで「葉隠れ」を思い起こさせるような「そのときは死をも辞さない」騎士道精神としてツ・グッテンベルク家に伝わるものだとするのには、それなりの歴史の必然性もあるが、大きな名誉として彼らを精神的に支えるものに違いないのである。当然の事ながら、食う寝る処に住む処が困らないことが、その信念の独立性を保障することは認識している。そこには同時に、また社会的な活動家がその社会主義精神から、理想主義として神風的な姿勢を示す信念にそれと同じような事象があることも思い起こさせる。
我々はここまで考察すれば、市民活動家でもあったホワイトハウスの主人がそれ故に電光石火の如く権力を掌握して、その理想の欠片も実現できないこと、嘗ては市民活動家であった総理大臣がいつの間にか政治的な権力の風見鶏となってその信念すら「葉隠れ」してしまった状況を称して、力も能力も無いジャーナリストがあれやこれやと非を指摘するだけで、何一つ状況を指し示すことが出来ないジャーナリズムこそが無用だと実感すべきなのではあるまいか。
この指揮者を必ずしも単純に保守的信念家と切って捨てれないのは、まさに氏が神の存在を否定するときであって ― その長男が総理大臣候補であることのように、その家庭を取り巻く歴史の顕現を見れば、明らかかもしれない。最後に氏の音楽家としてのその芸術観が、シェーンベルク作曲「モーゼとアロン」が完成されなかったことをして、その後の混沌と自らが作曲出来なかった言い訳としているのだが、これは氏が「もしミュンヘンの安アパートに住むマイヤー姓であったなら」とする考えと同様に、その貴族的な感覚が嘲笑の対象となるのを避けられないのである。こうして、名門ツ・グッテンベルク家が新興のチンピラ貴族のようなフォン・ヴァイツゼッカー家などとは違って、一流の芸術家どころか学者も輩出しない立派な家庭であることが実証されているようですらある。
参照:
Plötzlich kennt man ihn als Vater, Christian Wildhagen, FAZ vom 24.04.2010
Der Dirigent und seine Natur, Alard von Kittlitz, FAZ vom 6.12.2010
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