Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

決して民衆的でない音楽

2008-12-09 | 歴史・時事
ハンツ・ランデスマンが人欄に顔を出している。ザルツブルク音楽祭モルティエ監督時代の番頭さんである。今何をやっているか?というお決まりの質問に答えるのも慣れて来ているようで、三月に開かれる現代音楽ビエンナーレのお知らせのようだ。来年は、スイスの重鎮クラウス・フーバーや細川などを含む音楽などが紹介されるらしい。

ザルツブルクでの音楽祭は、もともと民俗音楽と並んで現代音楽の祭典であった事からすればこちらの方が歴史的にも将来に渡って存続するように思われる。1923年8月にそこに滞在して奥さんへの書簡の形式で綴った、また「ピアノは猫が踏んでも同じ音が出る発言」で物議をかもした兼常清佐の文章を引用してみよう。

突然この宿の近くでファンファールのような強い短い喇叭の音が起った。驚いて目を醒ますと、眩しい朝日はすでに窓の紗一面にあたっている。中略…女中にきくと、今日と明日とはこの町の大音楽祭の日であるそうだ。

私のためには民俗音楽といえば、まず謡い物であってほしい。中略…はるかに民謡から離れている。要するに軍楽隊の真似事である。ドイツの帝国主義が生んだ軍事教育の一反映かもしれぬ。中略…山地の素朴な、音楽を愛する人心が、ちょうど子供の軍人ごっこのように、軍隊の華々しい姿に眩惑されたものだとも思われる。中略…はからずもこの地方の大民族音楽祭を聞いた事だけはうれしいが、それに混ざるこのような不純な分子がいとわしい。

 ― このように語りながら、プロアルテ四重奏団やギーゼンキングの演奏に接して、更に語る。―

ザルツブルクは誠に音楽の町である。中略…現在においてモーツァルト楽堂を持ち、「万国現代音楽協会」はこの地で始めて成立して、年々夏にはこの地で現代音楽祭が行なわれる。

芸術を理解し享受することは決して容易な業でない。それには素養がいる。修養がいる。その修養をつんだ人々だけが芸術を理解することが出来る。いわんや理解に訴えるべき分子の多い現代音楽はなおさらのことである。中略…ただ感覚的に享受しようとする目的には、おそらくモーツァルトさえもすでに不適当であろう。中略…音楽というものは決してそれほど民衆的なものではない。

兼常清佐著「音楽巡礼」から


ヴュルツブルクの音楽監督でバーンスタインのヴィーンでのアシスタントであったジン・ワンが途中解任された。小太りのこの48歳のヴァーグナーとシュトラウスを得意とする指揮者にセクシャルハラスメントの容疑が掛かったからだが、事情は地元ヴァーグナー協会や楽師連との繋がりが拗れたことにあるようで、土地の音楽愛好家には比較的支持があったとするのも、なるほど今時の音楽劇場愛好家やカタリーナ・ヴァーグナー支持者達の民衆の趣味であろう。



参照:
Der Würzburger Orchestergrabenkrieg, von Martin Otto,
Nie war Salzburg so modern; Hans Landesmann, von Gerhard Rohde FAZ vom 8.12.08

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