Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

聖なるかな、待降節の調べ

2009-12-14 | 
「冴えない演奏」のCDの感想を書こう。五枚組みの廉価CDの一通りを回した。その中でもお目当てのロ短調ミサを先ずは集中して愉しんだ。

この曲の実演は数年前に現代の管弦楽団で聞いたものが最後であるが、もしかしたら90年代の初めにヘルヴェッヘ指揮のゲントのアンサンブルでも聞いているかも知れない。いやもしかすると、あまり関心がなくて聞きそびれている可能性も強い。

大バッハの最後の作品の一つであり、パロディーミサのように嘗ての作曲を当て嵌めたりしているのでその作曲過程も定かでない。最新の成果としては、2007年ベルファーストでの学会でバッハ博物館の所員が発表したドイツ帝国ボヘミア王の影響が挙げられている。チェコの文庫から最近明らかになった書面がそれを裏づけしているようだ。

いずれにしても晩年の「ゴールトベルク変奏曲」や「フーガの技法」なども特定の機会音楽の枠組みから越えている面があり、特にこの曲の場合は死後の発表のために息子のエマニュエルバッハの影響なども疑われるほど、当時の最新の音楽芸術文化に近づいている面がある。要するに近代音楽の音楽会場での演奏に適した編成や内容をもっていて、恐らく憧れを抱いていたであろう同時代作曲家のヘンデルやテレマンの都会的な文化への近親感も感じられる。実際に、当時の都会であったライプチッヒのカントールの立場にも嫌気がさしていた背景には、「輝いた世界」に住んでいるとはいえなかった自らの立場を顧みる気持ちもなかっただろうか?

それにも拘らず、出来上がった作品は、他の受難曲のように死後百年間は忘れ去られた歴史もあるようだが ― 当然ながら当時の売れっ子作曲家のエンターティメント精神に満ち溢れた作品とは競合しようがない ― 、ロマンティックな感興を以って二十世紀には音楽会場でベートーヴェンの「ミサソレムニス」同様に演奏される曲となったことは、その曲の性格からして当然であろう。

さて、このCDで聞かれる演奏実践は、歴史的楽器と呼ばれる復元された楽器で演奏される実践のそれもグスタフ・レオンハールトの切り拓いたそれの流れを汲んでいて、オランダやベルギーの楽人に共通するものも強いが、それ以上に現在この指揮者の手兵のアンサンブルがフランクフルトの聴衆に受け入れられている基本がそこ明白に聞き取れる。

たとえばクレドにおけるツービート張りの乗りも見事で、オランダの白けたそれやルネ・ヤコブスとも異なり、現在の欧州の各地の共同体で歌われるポップな音楽に馴染んだ人々の乗りそのものが其処にある。まさにそれが音楽文化なのである。だから必ずしもドイツ的なリズム運びで無くとも受け入れられる要素となるのである。そして文化とは金を積んで娯楽に買うものでも無いのである。自らが育んでいる文化などに金を積む馬鹿は居らぬ。

もう一度大バッハに戻ると、この曲の成立の細部は別にして、こうした曲を作曲するという行為は、丁度京の手の込んだ錦糸を織ることに一生を捧げた職人が、晩年になって大芸術作品の製作に手を出したような按配ではあるまいか。

待降節におそらくボヘミアで演奏されたというサンクトュス二部の「主の栄光は大地にみつ」と歌う三拍子 ― もしくはグローリア終曲で聖霊と共に謳われるとき ― のスイング感覚もタップリと愉しめる素晴らしいCD である。合唱の対位法的な扱いにも現在からすると若さがみられる反面、シンコーペーションの扱いなどは今日と変わらず上手に処理しているには違いない。こうした演奏を聞くと、同じようにミサ曲を作曲しているベートヴェンのそれよりもレナード・バーンスタインのそれを思い起こさせるから面白い。

なるほど、ネットで聞き比べをすると、新録音の方は ― 実演でのこの五年ほどのこの合唱団の進展を物語るかのように ― 遥かに精緻さが増して完璧な演奏であるが、管弦楽団はその新録音の様には実演では巧くいっていない。寧ろ、この客演している啓蒙時代管弦楽団の演奏の方が、恐らく録音プロデューサーの意図も働いてか、思い切った指示が与えられている分だけ面白い演奏になっているかも知れない。


聞き比べ試聴:
鈴木盤、なにも六拍子でなくても間が持たなくせかせかしている。欧州からの歌手も早く帰りの飛行機に乗るのでせわしい感じ。なによりも根を詰めたつくりが鬱陶しい。こんな精神文化なら直ぐにでも逃げ出したくなる。但し音感とか音色に神道的な白木の清楚さが感じられる。

上で愉しんだヘルヴェッヘが指揮した「冴えない」廉価盤

ミンコスキー盤、この誤まってキリエに張られたリンクは実はクレド。綺麗であるがここまで骨無しにしてしまうとフランクフルトでは受け入れられないのではないか?更にコルボ盤などにも似て拒絶される要素も多い。

コルボ盤、特にこうした宗教音楽ではスイスの特にフランス語圏となると全く文化圏が甚だ異なると思い知らされる。バッハ音楽実践としては旧世代でしかない。

ブリュッヘン盤、 器楽奏者だからか鈴木のように生真面目な演奏。やはりここまでやるとどうも居心地が悪い。古楽演奏としては折衷的であり、やはり古臭い印象は免れない。

アーノンクール盤、流石に大変立派であるが、そこまで力まないでもと思わせる。そうしたところが子供っぽく見えるのが戴けない。

ヘルヴェッヘ新盤、既に触れたが最新の状況がここに良く捉えられている。

クリストファーズ盤、英語圏の演奏実践が表れているのだろうが、やはりどうしてもこうした解釈は音楽が荒くなる。

ヤコブス盤、些かオペラ的な趣となっている。これならばアーノンクールの方が良いかも知れない。

ヘンゲルブロック盤、流石に良く現状を押さえているが、演奏実践の慣れや対位法的な扱いにはもう少し見解を示せても良いのではないか?アーノンクールを意識してか、もしくは鈴木と争そって其処まで力む必要はないだろう。

ガーディナー盤、いつものバッハ節であるが、、、、

レオンハールト盤、ここに一つの流れの源がある事は間違いないだろう。

リヒター、ミュンヒンガー、リリング盤についてはもう触れないが、どれもクレンペラー盤などについてと同じようにこうしたロココな音楽作品では歴史化がより早く進んでしまった。ある程度年配のそれも古い録音などを愛好している者は知らぬうちに百年近くの時の流れの中においておかれて仕舞って、自分か生きていた時代が其処にないことに気がついて愕然とするかも知れない。たとえそれが受身の芸術需要だとしてもまるで己が生きていなかったのと同じなのである。そうしたあり方は、歪な文化需要であり、古い期限切れのワインを飲んで悦に入る「たわけ者」となんらかわらない。

楽譜:Mass in B Minor, BWV 232 (Bach, Johann Sebastian)



参照:
知的エリートの啓蒙芸術 2008-03-17 | 音
それは、なぜ難しい? 2007-11-10 | 音
中継されるミスティック 2006-12-26 | 暦
正統的古楽器演奏風景 2005-11-13 | 音
バロックな感性の反照 2008-03-23 | 音
大バッハを凌駕して踏襲 2006-02-22 | 音
偉大な統治者と大衆 2005-10-14 | 文化一般
賢明で理知的なもの?! 2005-02-25 | 歴史・時事
社会性の高い放送文化とは 2009-12-10 | マスメディア批評
安売り音楽の品定め 2009-12-04 | マスメディア批評
グッスリ二度寝をして気付く 2009-12-05 | 雑感

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 必要悪の民主的行動の正統性 | トップ | ロールスロイスで雪道を思う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿