Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

欠けて補われる存在

2008-09-28 | 文学・思想
承前)存在という言葉をもち得なくては、環境も存在しないのだろう。

蜜蜂が、右往左往しながらするっと小さな穴へと入っていくように、必ずしも思考の方法は一般に論理的と呼ばれるような定まったベクトルをもっていないことを、蜂学者達は連邦共和国の方々に置かれた蜜蜂の家を見て、その方法論に思いを寄せるに違いない。

ホメロスの「イリアス」にしても、各々の部分が組み合わされて再構築されていることが述べられたが、そこでそれらの部分もしくは韻の音調を素材としているとすると、まさにそれが蜜蜂の家のパターンやシンメトリーのように組み合わせられてはじめて「創作」になるとする考え方にも遡る事が出来る。

そこに存在介在するものが「創造力」であることは間違いないが、それではあまりにも当てはまらない例外が多過ぎるのである。もしかすると、「天然」の蜂の巣の著作権が問題になるかも知れ無い。

先日入手したマルティン・ハイデッガーの著書をぱらぱらと捲る。そこでは、「創作の起源」が述べられているのだが、所謂「存在」と「生成」が「素材」と「創造」の代わりに登場して来る。

ホメロスにおけるギリシャ神話やその歴史を見て行くならば、遥かにこうした考え方の方がシックリと来るのである。というか、ハイデッカーが好んで取り上げるヘルダリーンの詩などを語ればそれしかないのに気がつく:

「とても そこが離れ難い
源泉の辺に留まっているものは」

(さすらい人IV、167)

なるほど例え門外漢であっても、口述の伝達などにこうした生成の過程を見る事が可能だろう。しかし、同時に二つの著を残す偉大な存在は同時代に二人と存在することはありえないとする事から、「オデッセー」も「イリアス」もホメロスによる作品とされるのである。

今月冒頭に「創造力など存在しない」とする主張に対して反論を試みたが、九月も終わろうかとする今、その辺りが傾いた長い陽射しに照らし出される。

20世紀を代表する哲学者の文章を見ていると、あまりにも不自然に合成語がスラッシュで結ばれて頻繁に出てくる。それをそのまま「翻訳」して使うのが業界の常かも知れないが、我々から見るとまさに言語の思考表現の限界をそこに見てしまうのである。もちろんのこと、学者は「それを示す事がその欠けた部分を示す事になる」ことを熟知していて示しているに違いない。(終り)



参照:
市民を犠牲にやってみた [ BLOG研究 ] / 2008-09-01
活字文化の東方見聞録 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-12
周波の量子化と搬送 [ テクニック ] / 2007-02-26
モデュール構成の二百年 [ 文化一般 ] / 2008-01-19
引き出しのグラフ配列 [ BLOG研究 ] / 2008-02-03
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
影の無い憂き世の酒歌 [ 音 ] / 2006-09-08
言葉の意味と響きの束縛 [ 音 ] / 2006-04-15
フラッシュバックの共観 [ 暦 ] / 2007-05-29
教皇無用論のアカデミスト [ マスメディア批評 ] / 2007-05-10
教皇の信仰病理学講座 [ 文学・思想 ] / 2006-09-18
どうも中沢氏はいいとこもあるけど (たるブログ)

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