Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

鹿の角に宿るいらいらさせるDNA

2010-01-11 | 
独日協会の新年会があったので、雪の中をマンハイムに出かけた。そのついでに今回は博物館を訪れた。スキタイ人の金の細工類が二百点以上展示されていた。その詳細は勉強し直して改めて纏めたい。ウクライナからシベリアに面する中国北部までの広い地域で発掘されている遊牧民族の遺産である。

一点につき一分以上の時間を計算していたのだが、美術品といってもやはり絵画程時間が掛からない。だから隣の区画の新年会会場に一時間も早くついてしまった。だからまだ誰も準備に来て居らず、時間を余した。裏側のシラーが一時身を寄せていた家が博物館になっているのだが、そこも閉っていた。それではと思ってイエズイーテンの教会に座って、戻ってくると丁度準備が始まるところだった。

ある女性が入って来て気になるのだが、どこの誰だかなかなか思い出せない。そして大分経ってから、一度大変気になったことのある女性だと思い出した。何時かここに書いているかも知れないが、最初で最後に出会ったのが五年以上前のことなので定かではない。

「あの時お会いしましたよね」というと、

「記憶が良いですね」と仰る。

「美しい女性だけはね」と無難に返しておいたのだが、実はその時点でもその気がかりの理由は十分に自覚していなかった。

あとでゆっくり思い出すと、最初に会った時にとても気になったので、その原因を印象や顔の形や顔の部位について解析したことがあったのをやっと思い出した。

親戚のある女性もしくは父方の従姉妹に似ていたのである。要するに、なにかその見かけや表情や雰囲気が凄く気になるのである。それはある意味自分に最も馴染み深い生理的部分の一つだとは思うのだが、一種の胸騒ぎのようなおかしな気持ちが付き纏うのである。

例えばこれが母方の誰かとかいうことになれば、マザーコンプレックスとして容易に解析出来るのだが、父方のそれとなるととても不思議な感じになるのである。もし、自分に妹というものが存在していたならば同じような気持ちが湧くものかと想像する。

スキタイではないがゲルマンの伝説のジークフリートの伝説も近親相姦がその核エネルギーになっている。狩猟民族スキタイのそれに描かれている鹿も他の動物以上に性的衝動がそこに象徴されているのだろう。

その様に考えて行くと ― 幸か不幸か、何処にでもいるそうした兄弟関係を持ち合わせていないばかりに、皆目分からずただ安易に誤解していたのかも知れないが ― 男女兄弟における近親相姦はマザーコンプレックスでもそれに裏表のように対応しているファザーコムプレックスでもないということになる。

姪とか甥とかに感じる共通のDANと比べると、やはり過去へと遡る時間の上流での出来事が、とても気になる部分であるに違いない。

当のご本人には全く関係が無く、過去での血の繋がりも印欧族として殆どありえない訳で、おかしな苛立ちは申し訳ないのだが、最初の時ほどではなくても今でも独特の胸騒ぎがあるのだ。しかし、早めに全てを思い出していれば詳しい話をするところだったが、この危うさは五年経とうともやはり危ない。それも受け手の受け止め方によるのだが、そのある真面目さが想像出来るだけにやはり話さなかった方が良かっただろう。まるでそこは腹違いの妹想いのフーテンの寅さんの心境なのである。

一般的に男女関係になんらかのスターターが働く場合はこれほど複雑な心理ではないのは周知の通りであって、様々な幼児体験から今までの事を回想するが明快な答えはなかなか得られそうにない。

実は歴史への興味は、こうした生理的に訴えるDANの記憶と呼ばれるようなものに関連していると感じている。その対象となる部族がたとえ自らの先祖とは考えられなくとも、彼らが受けついで来たなにかは、丁度従姉妹兄弟を見るような感じで生理的に訴え掛けるものが少なくないからであろう。

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