Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

開かれた平凡な日常に

2005-12-30 | 文学・思想
フリードリッヒ・シラーの最晩年の作品「ウイリアム・テル」は、目論んだベルリン初演が遅れ、1804年の3月17日にヴァイマールで初演され、7月4日のベルリン上演を挟んで、7月15日にマンハイムの宮廷劇場で上演されている。1793年のルイ16世らのギロチン執行から十年経っているとは言え、舞台となるスイスのルツェルン湖周辺はナポレオンによって自治が侵されていたので、この芝居が政治的意味を持たずに上演される事は不可能であった。

そのような理由だけでもないだろうが、この戯曲への評価は当初から割れていた。悲劇の主人公を描いた「群盗」や「ドン・カルロス」と同じようにアウトサイダーでありながら一匹狼の家族持ちの主人公テルの性格と其れを取り巻く社会の描き方が原因になっているのであろうか。前者で描かれた一途な若者の肖像は消え失せて、後者ではヴァーグナーの「パルシファル」や「魔笛」のタミーノのようなドイツ啓蒙主義的な成長が描かれるからである。それ故に、示される世界は解放されたまま閉じる事無く、旨く行けば劇場からもするっと巷へとはみ出す様な形態となっている。そのような時間的経過を持った肖像を英雄視しようと試みたのは、世界革命を旨としたイデオロギーではなくて、アドルフ・ヒットラーであったと言う。その後、スイス内の民族主義的盛り上がりやスイス人による暗殺計画があり、独裁者はこれを急遽上演禁止にした。暴君への抵抗と解放は、ヒットラー暗殺計画者が第三帝国下の善意の象徴となっている現在のドイツ連邦共和国で、暗殺者テルと重ね合わされる可能性を先ず知って置かなければいけない。これらの意味から、「マイスタージンガー」と同じく既成化された記号から逃れる事が解釈の目的ともなる。

さて今回のラングホフ氏の記念上演演出は、2006年2月22日まで計10回上演される。この演出では、判断保留をそのまま舞台の上に提示する事に重点が置かれていて、非イデオロギー化に全力を尽くす一方、戯曲の主題でもある開放や情念への懐疑が多極化されて見え隠れするように描かれる。そうする事によって、シラーの言う素材と形態が見て取れるようにとの配慮がある。

一幕冒頭における牧童や猟師に対する漁師の職業の位置づけや、近隣の団結と拘束されない自由人、為政者の心情告白、現状認識と対抗意志、現状打破と無力感などが自然な緊張感を以って並列されて行く。それは、「ドン・カルロス」のスペイン王フェリッペ二世のような苦悩の男爵と甥のディアローグに見られる、緩やかな隣合わせの配置でもある。背景の山を三角の八つほどのブロックにして其々を前後に動かすなどのアイデアも、ヴェルディのオペラ「ドン・カルロ」で故ヘルベルト・ヴェルニッケが採用していたような「形態の心理学」を利用する事が無い分、好感が持てる。またその小山を若い青年に登らせようとする情景は、簡素ながら無力感を効果良く強調していた。しかし、この演出家の手堅さはそのような意識化されたメッセージなどにではなく、土地の者が他の土地の者と集まって合議する情景などに集約されている。その者達がどれほど政治的素朴とはかけ離れていることかを感覚的に明確に示す。そしてある民族が、1000年も居座った土地で、そこの前近代的な自然共同体を通して理性的共同体へと至る過程が描かれる。

圧政者への従順は、銃器を持った為政者の慟哭・脅迫となり、ついには自由人テルに自らの子供への射的を迫る。その客席へと向けられた銃先は、今しがたまでの長閑な情景から、一瞬にしてテロの狂気へと観衆を落とし入れる。微妙に暈された演出は、辛うじて第三帝国との重ね合わせを避けてより一層の普遍化を計る。これは大変に賢明な方法であって、最近頻発するステレオタイプな表現やグロテスクな表現に対する批判でもある。一つ一つの情景や台詞や表現は、その瞬間に生成したようでなければ本当の効果を持たない。分析・解析しやすい演出は、評論家や物知り顔の観衆の為に存在するのだろうか。

特定の文化的記号の強調や表現をモットーとする事を敢えて避け、丁寧に「素材」を点検して矛盾しないような「形態」を与えて行く。其れは情緒であったり分析困難な感興でもあったりもするのであるが、映画の映像表現に比べ、言葉と動作更に気配による表現はより一層日常的な感性に訴える。これがシラーの狙ったものであり、辿りついた境地でもあろう。この二つの概念によってオペラ芸術には無い日常が再定義される。(フラメンコの巷のほこり [ 生活・暦 ] / 2005-12-29 より続く)



参照:
シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
更に振り返って見ると [ 歴史・時事 ] / 2005-10-09

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