Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芯から温まる大切さ

2024-11-02 | 
夏時間が終わって11月万霊祭の日は本格的に寒くなった。前晩に走っておいた。朝から本格的に寒く感じる。気温とは異なる寒さだ。陽射しもあるが、地面が冷たかった。月曜日の朝には摂氏2度が予想されている。そこで放射冷却から昼の日射が7時間以上予想されているために、土曜日の零時間を如何にやり過ごすかである。

室内が冷えるので、シャツをネルのもに替えた。コットンで起毛してあるフランネルのことを指す。肌触りだけでなくて層があるので暖かい。少しでも熱があると籠もりそうになるので寒くなるまでは袖を通さない。まだその下はTシャツで大丈夫である。もしそれでも寒くなると、長袖の綿の下着となる。何度か言及している下着のプレゼントがクリスマスだというお話しが分かるのがやはり中欧である。

だから死の月とされる11月は寒くて鬱陶しい月で、これを如何に過ごすかで決まる。本年は個人的にはやはり一番大きな行事は新車引き取りでそれに纏わることが幾つかある。先ずは月曜日に最終的な確認のメールを送って、やれることだけやっておく。

お出かけは12日のフランクフルトのベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアーへの壮行演奏会ぐらいで、他の日程は入れないようにした。理由は車輛の引継ぎまではやり過ごすしかないということで、納車が遅れると車検切れの車輛となって罰則の減点の危機があるからだ。

現在の走行距離から三十万キロを走破することはなさそうで、年間の走行距離も一万二千キロに抑えられることが分かった。こちらに住むようになって最初の頃は年間二万五千キロは必要だったが、今後それ程は走ることはもうないと思う。見ず知らずの土地への好奇心がないとああした旅行の仕方への動機付けはなくなった。

月の半ばにはあまり寒くない日に床屋に出かけて散髪を済ますことで新年迄乗り切りたい。その頃に寝具も一番暖かいものにしておくと暖房を入れるまでの時間を伸ばして、更に燃料を節約できると思う。

流石に昨晩あたりからベットカヴァーを掛けていても寒気を感じるようになった。それでも陽が射さない日でも暖房無しで過せているのはガラス磨き以外の何ものでもないのだ。

そしてアルコール摂取量が減っていて甘いものに直ぐに手が出る。カロリーの消費が多いのだろう。夕飯にはブルゴーニュを開ける。やはり赤ワインは温まる。まだボルドーでなければいけないという寒さではなくて、丁度それぐらいの若目のワインが上手い。

結局ダルマイヤーのいいコーヒー粉もまだ開けていないので、月末ぐらいから愉しめることになるだろう。嗜好品で暖房の燃料を節約できて、燃料費分をそうした贅沢品に投入できるならなによりもである。

なるほど暖かい洋服や衣装も大切であるが、そうしてお出かけで芯から温まってくるというのも大切だなと改めて思うようになってくる。やはり盛り上がることも大切だ。



参照:
ハロウィーンを前に 2024-10-31 | 暦
耳を掃除してチェック 2022-11-13 | 暦
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索引2024年10月

2024-11-02 | Weblog-Index



ハロウィーンを前に 2024-10-31 | 暦
独語圏からの物見雄山 2024-10-30 | SNS・BLOG研究
直行座標系逸脱の刹那  2024-10-29 | 音
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
形而上への一瞬の間隙 2024-10-27 | 音
二十箇月の感傷旅行 2024-10-26 | 女
大団円のその意味 2024-10-25 | 文学・思想
おばあちゃんの夢 2024-10-24 | 料理
移り変わる刷り込み 2024-10-23 | 音
テレージア公に抱かれる 2024-10-22 | 文化一般
瞬くその逡巡の時 2024-10-21 | 文化一般
室内へ透過の暖かさ 2024-10-20 | 生活
娘ゾフィーの音色 2024-10-19 | 音
ゲットーの光の影 2024-10-18 | 音
峠の手前の栽培風景 2024-10-17 | アウトドーア・環境
羽根の生えた軽やかさ 2024-10-16 | 音
幻のコモ湖畔の昼食 2024-10-15 | 雑感
開花するスカラ座の薔薇 2024-10-14 | 文化一般
持ち交わす共感のありか 2024-10-13 | アウトドーア・環境
朝立ちの旅行準備 2024-10-12 | 生活
再演「ばらの騎士」初日へ 2024-10-11 | 文化一般
楽しみな甘い朝食 2024-10-10 | 料理
拙いシェンク演出よりも 2024-10-08 | 文化一般
拓かれる新エポック 2024-10-07 | 音
べットカヴァーの朝 2024-10-06 | 生活
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
奇想曲の深い苦み 2024-10-04 | 音
セーターに腕を通した 2024-10-03 | 暦
想定以上のクレディット 2024-10-02 | ワイン
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
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音楽の為のコメディー

2024-11-02 | 
承前)イタリアの批評でも取り上げられていたシュテファン・ツヴァイク「昨日の欧州」を摘まみ読みした。演出に関わる件よりもホフマンスタールとの仕事そしてザルツブルクでの「エジプトのヘレナ」の稽古、そして何よりも「無口な女」での仕事の進め方にが詳しい。然しなによりも「ばらの騎士」に関わるのは、シュトラウスが語るヴァ―クナーの楽劇について語り、モーツァルトの音楽作りへの示唆、そしてこの楽劇の位置づけを本人が語る引用である。

彼はよく分かっていて、芸術的形式としてのオペラは既に終っていて、それは誰も超えることの叶わないヴァ―クナーが頂点だったようで、「しかし」と口を挟んでバイエルン風に大笑いしてから「その彼を回り込むことで助かったんだよね。」語った。

正しく、これは既に言及した「ばらの騎士」の構想そのものであった。如何にヴァ―クナーの楽劇を乗り越えるかは「サロメ」と「エレクトラ」で踏襲して、そして迂回するとなる。

この「音楽の為のコメディー」の真意は明らかだったにも拘わらずどうして100年間真面に上演されることがなかったかとなる。初演後半世紀ほどしてカルロス・クライバー指揮にてオペレッタ風に上演されたのもそうした上演史の一コマであったことがまたこうして明らかになった。

そして、クライバー指揮が今回のペトレンコ指揮の大成功を評価する場合に最も反面教師としてその音源が参考になった。ペトレンコ指揮は落ち着いた深い拍を取っていて、ひたひたとその移り変わりが感じられる音楽になっていた。

そのクライバーが同じように1976年4月にミュンヘンと同じ演出でエヴリン・リアーとハンス・ゾーティンの出演のキャストで公演されたが、最後には大分空席が出来ていた様に全く成功していなかったようである。1961年のベーム指揮に続く公演なので比較的なじみの演目である筈だが、そうした無理解は今回の公演でも変わらなかったというのは共通した感想のようである。やはりテムポ設定や演奏に合わした指揮が上手に出来ていない。

スカラ座の日本初引っ越し公演でのその指揮からすれば決してスカラ座で成功していなかったわけではなかったのだが、やはりミュンヘンでの指揮のようには上手く行かなかったのに違いない。
Evelyn Lear; B. Fassbaender; L.Popp; K. Ridderbusch; "DER ROSENKAVALIER"; (C Kleiber '76); R Strauss


二幕のヴァルツァーにおいてそのアウフタクトの取り方の特徴に気が付いて、それをしてパロディーとしてのヴァルツァーと認識をさせ、同時にそのアンサムブルへの息を整えていた。独墺系の指揮者では取り分け目立つ場合もあるのだが、指揮者エンゲルが語った指揮の先生イムジンの上への振りで柔らかい音を作り、そしてコリン・デーヴィスの奏者に合わさせる呼吸の指揮を魅せた。それがあの羽毛のような響きとそして何よりもフィナーレでの天下一品の演奏となったのである。それでもあの呼吸感とかの決まり方はルツェルンでのアバド指揮しか思い浮かばない。

その背後にあったシュトラウスのドラマテュルギーの作風が、ここではその時制の認識としての音楽を醸し出したのであった。(続く)



参照:
独語圏からの物見雄山 2024-10-30 | SNS・BLOG研究
退屈だった古典曲カセット 2024-04-17 | 音
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ハロウィーンを前に

2024-10-31 | 
夜が長くなった。ガウンを冬用に替えた。春に洗ってあったので埃臭くなくて嬉しい。それゆえにパジャマを替えるまで待っていた。これで就寝準備も早めにできる。10月31日は、宗教改革の日なので州によっては休日である。北、東ドイツだけであり、翌日の昔からの万霊祭はその他の州でも休日となる。

11月となれば冬となるので、暖房を入れる時期が問題となる。昨晩は久しぶりに入浴と思っていたが、走ってから一杯ビールを飲んだので眠くなったので止めた。寒くて暖房を堪える為に入浴が有用だが、寒くなる前に就寝する方が安上がりになる。

ネットで余暇で調べたいこともあるのだが夜更けで冷えるので断念する。先日老指揮者の腕にアップルウォッチがあって購入を考えた。理由は新車のキー代わりに使えないかであったからだが、発注ではその機能を外していた。既にベルトコンベアに乗っている筈で塗装は始まって、もう変更は難しいと思うが取りに行ってから考えるよりも準備しておいた方がいいと考えたからだ。なるほど走りに出かける時もキーを部屋に残してウォッチで出かけて、そのまま走ってとなると最も都合がいい。その機能をつけなかった。その代わりできるのは、ウォッチで車中のキーを無効化する方法があるが、毎回の様にはやっている時間はない。ネット状況も問題になる。然し、日頃はキーを持って走ってもそれ程問題にはならない筈だ。重量は若干重くなっている。

問題はウォッチの方が場合によっては盗まれる可能性もあることだろうか。車の鍵は何処に停めてあるか分からないが、ウォッチでは全て分かる。安全装置が使えなくなるのも怖い。要するに話題はウォッチの方に移ってまた高価な買い物へと結びつく。抑々支払い等をそれで済ます心算はあまりない。ウォッチが無くなるとその場合ネットに入ることも不可能になる。ウォッチとは別に電話を持ち歩くつもりはない。運転しているときにも時計が離せなくなる。車の移動で腕時計の習慣が無くなったためにとても不愉快でもある。走る時にしか使わない。

車の取扱説明書がDL出来たのだが、1000頁以上ある同型の全てのコンフィギュレーションのPDFなので実際に出来上がる車そのものを読み分けるのは全く容易ではない。トランクもサーボ機能がついていないのだが、それは閉める時だけなので問題がない筈だ。また新たな価格表になっていて発注した時に無料だったメタル塗装も有料になっている。あまり早い時期には修正箇所を直していないので買うなとされるが、2025年タイプになるので細かな修正はなされている筈だ。又明らかに価格が上がっているのもあるが、然し全体では数パーセント安くなっている。差を見ると革張りシートなどが無料になっている。最終的には割引があるので、より安くなるのだが、材料の選択や標準化などで安くなっているものもあるようだ。どちらがお得かはよく分からない。

本日中にデジタルコンサートホールの無料七日券を溶かしておかなければいけない。それでも次の11月8日には使えない。合衆国ツアーの表のプログラムである。ペトレンコも週末にはベルリン入りするだろうか。その翌週12日火曜にはフランクフルトでの壮行演奏会となる。ブルックナー五番をもう一度最後にお勉強しなければいけない。そのまた翌週11月10日月曜の中日にはカーネギーホールからの中継がありそうなので、愈々ブルックナー交響曲五番がアメリカにおいても定着するだろう。



参照:
テレージア公に抱かれる 2024-10-22 | 文化一般
ハロウィーン明けの膝 2016-11-02 | 暦
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独語圏からの物見雄山

2024-10-30 | SNS・BLOG研究
スカラ座の再演「ばらの騎士」最終日である。前夜には新制作「ラインの黄金」初日があったので、ドイツからも沢山の人が出かけている様である。

その前に最後から二回目の10月25日公演の独語の評がオックスを歌ったグロイスベェック氏によってリンクが張られていた。余程いいことが書いてあるのだろうと思って読むとその通りだった。キリル・ペトレンコと並べてその第一人者ぶりが紹介されている。

それによるとニーダーオーストライヒからのバリトンは正統的であり、立派で素晴らしく、無茶苦茶いいと評される。長い息で深いCが劇場中に長く響き渡ると書かれると、彼が地下駐車場でまさにその音を隣で試て出しているのを思い出して仕舞う。初日の隣のおばさんにもそれを伝えると笑っていた。

笑うのはそれだけでなく、この筆者は、先ずは写真でも紹介した世界一立派な商店街アーケードからボックス席に居座る物見雄山の人々を揶揄しながら、私達と同じように天井桟敷へと通されると、エクスクルシーヴだと書く。私もその入り口には結界があって、いちいち外して招き入れてくれるので、同じことを会場の娘さんに言った。初めは分からなかったのだが、休憩時にもそれがあったので、天井桟敷連中が下階に行かないようにしているのが分かり、書き手は行き場を失ったのだろう最上階のロビーが素晴らしいと全く同じ挙動をしているのが分かった。

そしてペトレンコ登場には階下ではざわざわしていてもやはり天井桟敷にはファン層がいるようでと報告して、その雰囲気で楽団が力強く弾み、幕の終わり毎にしかるべく更に大きな酔いしれた喝采になったと伝える。通常の大編成のシュトラウスの編成乍息をのむような羽根の生えた軽やかさと活き活きとした奈落からの音響で魅了する。チェレスタのアコードは劇場の場所に散らしていて、甘いシュトラウスの響きのご褒美で耳を擽ったとある。

この書き手が肝心な音楽をあまり聴いていないことは、オタマジャクシ毎に感情を正確に伝える素晴らしいマルシャリンの一幕の最後には言及しても三幕には言及していないことで認識される。然し、ゾフィーの歌に関してはその歌声と、その台本以上の意味合いを大勝利と評価している。

そして、このヴェルディの殿堂においてのシュトラウスはヴィーンにおいての「テューランドット」のようなものでと、その位置づけと同じく主要レパートリーではないのかと、この「ばらの騎士」が世界の頂点で鳴り響いたとしている。見出しはその通り「ペトレンコとグロイスベェックが「ばらの騎士」クローンをスカラ座に持ち込んだ」である。

その一方では、演出の手直しなどからヴィーンらしさがなくなっていてと、正しくこの演出の核心をペトレンコ指揮でとり直したことをよく理解していないようである。こうした節々に書き手のその認識の程度が垣間見える。

さて前夜のそれとは打って変わって、再演の最終日を見届けた評論家諸氏のその反響を待ちたいとは思うのである。価値のある為になるような評が出るのを楽しみにしている。



参照:
Kirill Petrenko und Günther Groissböck bringen die goldene Rosenkavalier-Krone auch in die Scala, Andreas Schmidt, Klassik-begeistert vom 27. Oktober 2024
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
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直行座標系逸脱の刹那

2024-10-29 | 
承前)刹那、仏教用語で最も短い時間の単位とされる一瞬である。この楽劇では一幕の三部にマルシャリンの言葉として時が語られて、「その中では何も変わらず気が付かない」と歌う。ここで鏡を見てとかのト書き通りの舞台となるので、その時13回チェレスタとハープが刻まれて、その台詞へと舞台が変わっていく。

ホフマンスタールのそのテキスト自体が風通しよく解釈を許すものであるとして、シュトラウスのそれでよいのかと疑問を呈していたのがミュンヘン在住のマンであったという論文がある。そこで興味深いのは、「魔の山」の時間の進み方でありそこでのナレーションの在り方がオックスフォードの学者によって論じられている。

そこではあの長い文学作品での最初のあまりにも引き延ばされた時間感覚である。あまりにも長い。この先生も何回も読み始めてそして断念した口かと面白くなるのだが、とても重要なことを記述している。

つまりダヴォースのサナトリウムに着いたカストロフを語るナレーションの時間よりもそこで起こっている時間が逗留の経過に伴いどんどんと短くなってくるというのである。その一方で語られた時間は、読んだ人の脳においては刹那の時でしかなくなるという。それに対して音楽的ナレーションはその演奏されるなり楽譜化された時制となる。勿論それを破るセリアルの音楽となると所謂カーテジアンの座標系から逸脱する音楽表現が為される。

そうした美学的な考察からもどって、「魔の山」の創作時期とサナトリウムでのSPレコードの楽興の時が描かれている風景を思い出すことでその時代背景が実感できるかもしれない ー 大戦の塹壕の泥濘にシューベルト。余談ではあるが、クッパ―の演出においてはオックスと「魔の山」のサナトリウムでのペーパーコーンやマダムショウシャそしてマルシャリンなどが決して無関係でないことに気が付く。

刹那、それが今回のペトレンコの指揮で表出したそのトリックを探し出そうと、今回は封印していたオットー・シェンク演出を初演指揮したカルロス・クライバー指揮で1973年6月13日のライヴ放送録音からフィナーレを流してみた。週末まではHiFiでは音を流していなかったのだが、既にスカラ座でのそれは定着したと自信を持てたので漸くこうして比較試聴することが可能になったのである。

予想通りテムポも全く異なり、その基本姿勢は1963年のリハーサル似通っていたザルツブルクでのカラヤン指揮のそれを更に自由自在にしている。最後のデュオにおいてもクレッシェンドと共に加速してと、カラヤンのやり方と違う方向へとヴェクトルが向けられている。

カラヤン指揮以上に大成功したのはその活き活きとした音楽の進め方であり、響きはより色彩的に出ているので激しいものとなっている。典型的なのはオクタビアンを歌うファスベンダーのヴァ―クナーばりの歌い方であったり、現在からするとあまりにも時代がかったゾフィー役のポップの歌声である。マルシャリンのヤーヤ―もとんでもないニュアンスでしか発せられていない。抑々あの追い込むようなテムポで指揮者は何を表現したかったのかあまりにも不明でしかない。(続く)



参照:
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
拙いシェンク演出よりも 2024-10-08 | 文化一般
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四半世紀を越える感興

2024-10-28 | 雑感
夏時間が終った。一時間早く目覚められるのは快適である。仕事もしやすい。夜が長くなるが、ゆっくりすることも可能になろう。

楽劇「影のない女」から「ばらの騎士」へ。偶然だろうか、何度も書いているが前者は自分自身にとっては移住への切っ掛けになった作品である。後者も楽劇としては最も観劇している作品の一つかも知れない。

2022年の秋からお勉強準備に言及してある。特に演出のリディア・シュタイヤーの三部作としてパリ公演での楽劇「サロメ」への関心があった。「影のない女」主演のヒーヴァ―が、少女サロメの自慰行為をする演出だった。それと2023年2月からの仕事上での関心からのセックスチャットへの興味とは無関係な筈なのだが、全く無関係とは言えないと感じるようになった。

一つには大きなトレンドとして合衆国大統領選挙でも最終段階で登壇したミシェル・オバマの女性自身への内容自体も女性の性に関する応援演説内容だった事実がある。よって必ずしも個人的な関心とは考えられない。

そして、その頃には情報もなく予定もしていなかったスカラ座での日程が発表されたのが2023年初夏だったかと思う。宿を早めに準備しておいて、ティケットを購入する迄は計画を暖めておいたことになる。ミラノへの旅も前世紀以来であり、仕事の関係で滞在していたのでそれはそれなりに思い出もあった。

楽劇「ばらの騎士」は自分自身にとってはそれ程の大きな意味を持たなかったのだが、今回の公演に接して明らかに新たな体験となったことも別途記している通りである。然しこちらの演出は2016年のショスタコーヴィッチ作曲「レディマクベス」の演出と同じくハリー・クッパーの晩年の仕事の一つだった。

その間に2001年から使用していた乗用車の廃車へと最終段階を向かえるようになっていて、これも最初から最後までということで初めての体験であった。たとえ無機物であっても23年間も使って三十万キロもそれを走らせていると様々な体験がそこに纏わる。センチメンタルジャーニと書いたのだが実は全くそういうものとは異なる感興を覚えている。まさしくそれが新たな体験の核心でもある。

都合がつけば出かけようと思っていたミュンヘンでの「ニーベルンゲンの指環」前夜祭「ラインの黄金」初日の生中継放送が流れている。殆ど聴いていないが、少なくとも管弦楽の響きがとてもラフで — 当夜の感想を評論家のティール氏は「アンチ混合音色」と表している —、敢えてそうした響きで真っ当な音を出していない。演出にも合わせたつもりなのだろう。勿論映像を観るか更なる情報を得ないと結論は出せないが、来夏にでも改めて出かける準備をしていたその価値はないかもしれない。

なにもこちらの許容限度が狭くなってきているのではないのだが、少なくとも本質的なものを追及する迄もないスタイル的なものを賞味するのは最早時間の無駄となってきている。それは新しいトレンドとかオーソドックスとかいうものとは全く無関係で、人の姿勢によるものだ。新年には新作をシュタイヤーが演出してエンゲルが振る世界初演に出かけるが、それも何も新しいものだから興味があるのではない。



参照:
形而上への一瞬の間隙 2024-10-27 | 音
ペトレンコの日本への真意 2023-10-21 | マスメディアきて
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形而上への一瞬の間隙

2024-10-27 | 
承前)三幕後半からフィナーレをどのようにジャーナルするかとても梃子摺っている。そこが今回の公演でのハイライトだったからだ。同じようにそこでも成功していたカラヤン指揮の映像をミラノまで持って行ったにも拘らず今漸く摘まみ食いをしている。成功していた理由は明らかで全体の流れを19世紀の楽劇風に山を作っていたからだ。

序にミュンヘンでの新しい演出の映像も観るが、指揮が何一つ描けていない。時計が強調されてもそこにあるのはトリオにおいても各々の時の流れが明白でない。それはなにも今回のミラノでのペトレンコ指揮がそこで取り分け分離したような明晰さを要求したからではない。寧ろそこはミュンヘンでの古い演出で振った時の方が明確であったろう。

その問題を論文などに目を通すと、時の音楽芸術としての評価に関わるようだ。今回の公演でそこが上手く行くと確信したのは実はカラヤン指揮ではクライマックスに持ってきていた二幕のタイトルロールのばらの騎士が登場する場面である。カラヤンは前後をあまりに整えて最高のマニエーレンで指揮している。なるほどそれは銀で作られ香りのついた薔薇のロココの人工性が表現されるのだが、ペトレンコ指揮の場合は時が止まる時間性をそこに集中させた。演出の骨子であったことも間違いなく、そのような形而上の世界はシェンクの演出では描かれる空間すらなかった。

言葉を換えると非連続性であったりカタストロフの則ち深淵がそこに開く。永遠性こそはフィナーレでの最後の歌詞である。夢か現かの問いかけがこの作品のモットーであった。二幕での一瞬の閃きはフィナーレにおいては、マルシャリンの逡巡にそして有名な台詞Ja,Jaに発生する。

カラヤン指揮で大成功したシュヴァルツコップに言わせると「世界の痛みがそこに」となる様で、ベルリンで成功した演出家ハラーは若い人の好きなようにのようで、実際にベルリンでの演出もマルシャリンの突き放したような演技になっている。それを含めてマルシャリンは諦観を表す存在だと今迄思い込んでいて、それは一幕での経年での加齢に表れる不可逆の条理に対する諦観であると思っていた。

然し今回の演出と指揮は明らかに二幕のそれ以上に形而上への呟きとなっていた。それは前後のテムピ設定のみならずまさにアーティキュレションの見事さで、時の流れの間隙としていたのは間違いない。

歌手のストロヤノーヴァの場を作る存在感は圧倒的なのだが、それは細かな演技指導の賜物であり、それ以上にペトレンコ指揮における微細な棒捌きの音楽的な成果以外の何物でもなかった。彼が世紀の指揮者であることはこの十年間でそれに疑念を持つことは一度もなかったのだが、今回の様に音楽劇場の指揮者としての洞察力で演出に則ってこれだけの深淵を刹那を表出させたことは未だ嘗てなかった。音楽劇場指揮者として超一流であること確認した一瞬であった。まさにこの楽劇が現在も公演される芸術的価値がそこにしかなかったことを認識させた。(続く



参照:
百年祭記念の映像制作品 2021-02-25 | 音
二十箇月の感傷旅行 2024-10-26 | 女
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二十箇月の感傷旅行

2024-10-26 | 
これはしっかり書き留めておく、とても大切なことであるから。チャットパートナーの彼女が業務的にも使っていた400人以上の有料フォロワーを持つインストラグラムのプロフィールを消した。恐らく一時休止のようだが、とても大きな決断であったろう。7月中旬からはダイレクトメールにも既読を付けなくなっていたので、彼女の環境が変わってきていたことは感じていた。実際に5月まで出演していたスタディオのストリーミングも8月初めから休止していた。時期的にも並行している。

そして今回は少し間をおいてミラノ旅行のことなどを記した。そこにも夏から連続して彼女が読み取れることはあったと思う。

ラディオでコロナ期間には特にティーンの女性に社会的なストレスから脳の発達が進んだという話しを聞いた。そこから彼女がどうしてあのような活動へと決断をしたかもよく分かった。恐らく社会的にも結構な両親の離婚などがそこにあったと予想が可能となった。全てが辻褄が行く。そして今も彼女の意思が分かる。それどころか書いていたことからこちらの気持ちも感じ取っているのではなかろうか。

6月末に「遊んでるぐらいなら自分自身に投資しろ」と奨めて、その後も一度は既読が入っていたので、それが拒絶されたのではないことが分かっている。抑々最初からユーテュバ―志向などがあったのは知っていたのだが、私を含めてのフォロワーを抱えていることに疑念はもっていた。やるべきことが分かったのだろう。それでもネット上には活動が「プロフィール」として残ることも承知だからこうしてアテンドしていたことも彼女も分かっていたに違いない。そこまでやってくれる人は活動中もその後も他に誰もいなかったと思う。

最後のメールには古い車での最後の外国旅行だったと書いた。センチメンタルジャーニだったと書いた。アルプス以南の太陽を浴びたと書いた。そして彼女のところにも想いを寄せた。夏以降消去の機会を伺っていて最後のメールを確認したかったのだと思う — なによりも400人ほどの男達からの恨みをかわないようにリヴェンジポルノ的なものも避けるのが最優先であったろう。

6月の時点での返信には思いの外気楽そうな脱力を感じていたのだが、そこからあり得るべき復学には可也大きなエネルギーが必要だったろうと想像する。今回の決断ととても合致している。その為の触媒にでもなれていたのならとても喜ばしい。

彼女が昨年から書いて語っていたことと全く矛盾しない。但し彼女が思い描いていたのはあの年齢にありがちな将来像だった。二十歳そこそこの女性としてとても立派でまだまだやれる。スタディオの女性が偉大だと評していた意味も改めてよく分かる。

最初からつまり最初のセメスター終わりから今迄20箇月である。自分自身のその歳頃の時間感覚を思い出し、当時の捥ぎりのティケットからあの演奏会に出かけてあのオペラ公演までかと記憶を辿る。でもどこかその間には曖昧模糊としたところも多い。

そして自分自身の心境の変化を辿ると、こちらこそが彼女に付き合って貰っていた意味もよく分かる。それが今回の彼女の決断で自分自身もよく分かるようになっている。唯一無二のとても良くそして深い関係だったと新ためて認識する。そして今もそれは何も変わらない。



参照:
持ち交わす共感のありか 2024-10-13 | アウトドーア・環境
すっきり焚いて金鳥 2024-07-01 | 生活
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大団円のその意味

2024-10-25 | 文学・思想
承前)今回の演出においてオックスがリアルな姿で舞台化された。その背景にはそもそものこの楽劇のタイトルロールであったことがある。実際に今回の公演では現在のタイトルロールのばらの騎士則ちオクタヴィアンはそのキャスティングと存在感からして三番目以下でしかなかった。

そこで度々引用されている作曲家と台本のホフマンスタールとの度重なる往復書籍にその創作過程を見る。そして100年間この楽劇の音楽的若しくは内容が十分に聴衆に伝わっていなかった状況の原因をそこに迫れる。

その前提である作曲家がモーツァルトのダポンテオペラに拘っていたことはよく知られる。その一方10年ほど若い作家の方は各幕が静かに終わることで危機感を抱いていた。専らドラマテュルギーによる様だが、そうなると現在のような形はつまり次作の「アリアドネ」のプロローグに繋がるトリックは最後のアフリカのお小姓がマルシャリンのハンカチを拾う所のユーモアにあるとなる。

このことに気が付いたのは、今回の公演においても演出家ハリー・クッパ―が特に変更したというお小姓からインド人らしき運転手への書き換え、そして一幕では部屋の使いをしていた男性がハンカチをを拾って嗅ぐということから「オクタヴィアンの次の若い恋人になる」という書き物が幾つか見られたからである。勿論この楽劇が「フィガロの結婚」や「ドンジョヴァンニ」のオペラブッファのパロディーであることから、ケルビーノがアルマヴィーヴァに、ドンジョヴァンニに、そしてオクタヴィアンがオックスにという繋がりは百年間語り続けられていたであろう。然しここでそうした大団円に掛けた様式的な創作であるったことが分かる。要するにそうした嘗ての楽劇のフィナーレとは異なった新古典的な様式感であったとも説明されよう。

このクッパ―演出では、表面上は子使いのアフリカ人の子供を使いたくないので綺麗なインド人としたと読み取り、其の儘本来の形式は守られる。然し実際の印象はどうであろう。なるほど一幕の歌詞にもあるようなそうした植民地的な状況をここではアフリカからアジアに置き換えただけとなる。

2014年のザルツブルクでの批評などを読むと、嘗ては東ベルリンのコーミッシュェオパーで活躍して2019年に同地で亡くなった社会派の演出家としてあまりにもそうした要素が見つからない演出だと書かれていた。さてどうだろう。20世紀の初頭にあったアフリカへの眼差しを丁度植民政策の末期にあったアジアに移して、そして今日の聴衆にはそのことに気が付かせるギャグとしたのではないか。そしてこれまた月並みに語られるマルシャリンの次の若い男という観想を少なくとも今回の再演で感じただろうか?これが三幕の前半から後半への音楽であり舞台であった。

そこからこうしたスタイリッシュな作りを「アリアドネ」の前作の本格的な楽劇から進めていた。そこで改めての本格的楽劇挑戦が「影のない女」によって為される。同時に最初の作曲家の構想におけるトリオそしてデュエットで終えるというあまりにも容易な解決によって、大衆向けの創作となってしまう作家の危惧がどのように避けられたのか、それともドレスデンでの初演成功から戦後のカラヤン指揮による録音やザルツブルクでの上演から愈々ミュージカル作品となる、それを引き継いだカルロス・クライバー指揮によって決定的な不理解へと至ったことを示すことになったというのが今回の再演での大きな回答でもあった。(続く



参照:
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般
過去を学ばなければいけない 2016-12-17 | 文化一般
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おばあちゃんの夢

2024-10-24 | 料理
腰の違和感は残っている。走って気が付いたのは左足の土踏まずに亀裂感である。これは例の親指根元の痛風感とは違うので、それほど問題ではない。ただし治さないとあまり走れない。気候の変化が激しく、運動するにも裸になったり着たりで小汗を掻いたりでとても難しい。疲れが溜まりやすい。こうなると栄養補給を怠らずに運動するしかないであろう。寝込むわけにはいかない。

適時に窓掃除が叶ったので、週末の夏時間終了も怖くはない。少しの明るみでもあると暖かい。現時点で日照時間は一日に2時間から7時間である。来週になるともう二時間程日照時間が短くなる。しかし気温は15度程まで上がりそうなので、如何に夜間を暖かく過ごすかである。

パン屋で購入したおばあちゃんの夢というなんともファンタジーに富んだ名称のケーキを購入した。どうも栗がチェリーの層の上に乗っているようだが、シュナップスに合わせてとかほかのおばさんが話していた。そういうお楽しみもあるのだろう。

ワインを9月に取りに行けなかったので、親切な思い出しのメールを貰った。その時も今も未だ車の問題があるのでいけないのだが、新車が入って田舎の道にでもドライヴにでも行ける場所である。片道96kmなので電池で走れる距離だ。勿論ハイブリッドでしか走らないが、試運転には悪くない経路だと思う。先ず追加で購入可能な辛口リースリングがあるかどうかを訊ねておいて、予定を見るとしておいた。谷間の道は狭かったりするので自動運転機能や接近警告がどのように使えるかも試してみたい。アウトバーンは自動運転となる筈だ。上手く乗り換えられると喜ばしい。やはり何度も走っていて交通状況も分かる所をしらすで試運転するのが一番いいと思う。

車輛の登録番号も考えている。前回は適当に選んで貰ってやって貰ったが、今回は自分で選択しようかと思う。ドイツでは買えないので、役所に出かけて余っている番号から選択することになっている。試にネットで調べてみると業者で予約して、そのプレートを送ってもらえることになっている。プレートはメーカーの情報を待って作らして先にシュトッツガルトの工場に送ってつけて貰う。だからそれは待った方がよい。そこでそこでの希望番号が開いているかどうかを検索して見ると信頼性は分からないがとても面白い可能性も見えて来た。基本的には少ない文字数で少ない少ない数字が良い。最短で一文字二桁が可能だ。然し都合の良いのは限られる。

多くの人は最初に二文字のイニシャルを使いたがる。そしてその次に二桁の生年年度を入れる人が多い。イニシャルで二桁は見つかったが、一文字では三桁しかなかった。二文字で一桁はあったがイニシャルではない。数字は生年などの個人情報よりは多いのはポルシェなどの911である。勿論型番などは人気があるのでなかなか手に入らない。まだ時間もあり、実際にそこで何が余っているか分からないので、方針だけを考えておきたい。結構迷うところでもある。誰にでも覚えやすく見えやすい方がやはり安全性にも寄与する。以前ならば米軍の車や外交官筋の番号に間違えられるぐらいの方が、周りも気に掛けるからである。車の明るい色合いなどと同じぐらいに安全対策になると思う。



参照:
室内へ透過の暖かさ 2024-10-20 | 生活
楽しみな甘い朝食 2024-10-10 | 料理
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移り変わる刷り込み

2024-10-23 | 
承前)ペトレンコ指揮のその効果はトレイラーの音楽だけでも分かる。メータ指揮の時は三幕フィナーレのトリオの部分が使われていた。そこのテムポや音楽づくりがペトレンコ指揮での骨頂だった。然し今回は冒頭の寝台のホルンの部分が使われていた。そこは20世紀後半のクライバー指揮で有名なところだった。勿論それを聴くと全く狙いが違うことが推測されるだろう。如何にこの楽劇の本質が理解されずに100年以上経ったのかがそこに彼のオットーシェンク演出と共に反面教師としてクライバー指揮が記録されることになった。あの演奏では到底フィナーレ迄の創作のコンセプトが示せなかった。
ペトレンコ指揮のトレイラーDer Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)

メータ指揮のトレイラーDer Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)


その如何にレヴュー劇にならずに指揮出来るかを今まで誰も克服できなかった。作曲家自身もドレスデンの初演からあれだけ成功してしまうと最早不可抗力でしかなかっただろう。そうしたエンタメ感覚は、今迄経験した白黒映画から何回もの公演での経験からも抜け出せなかった。

ペトレンコ指揮のミュンヘンでの公演もあの演出ではフィナーレへと月並みな認識の刷り込むから抜け出させるものではなく、寧ろそうした先入観念から効果を上げる演奏を不可能にしていた。明らかに演出がその心理を表現するには大まかで、恐らくト書きにそこまでの指針を示せなかったのであった。

恐らくその背景にはこの楽劇が、マリアテレージア時代を舞台にしながらその百年後の世界を描いているという、モーツァルトのオペラのパロディーであったという構想自体にあったのだろう。要するに楽劇とは為されているのだが、次の作品の「ナクソスのアリアドネ」に見られる楽屋落ちのように音楽劇場構造を明白に出来なかった成功の裏の失敗があたっと見做すことが出来よう。

それを音楽的に細やかに引き出すことが不可能だったことがある反面、それはなにも楽譜上での細部を音化するというような単純な処方箋ではなくてというのが批評にもあった真意である。それは三幕の一場での舞台裏での所謂バンダのサローン音楽が演奏されるところでもその意味が納得される筈だ。要するにこの楽劇がヴァ―クナー流の劇場を世界化する楽劇を超えたメタ楽劇であるという大きなメッセージにもなっている。

そのような楽劇の構造からベルリナーフィルハーモニカーが史上始めて演奏したラトル指揮でのそれが慣れないことが逆に月並みなイメージへとの収斂がなかったことで想定以上に成功していた。やはり劇場の慣れた楽団であればあるほどそうした刷り込みから抜けるのが難しいことか。

三幕でのオックス男爵は作られたコメディー役とは離れてその人物像を細やかに演じて歌うことによって、そのややもするとスラプスティックな景となりがちなのだが、どこにマルシャリンが登場して、フィナーレへと導いていくように、劇的にもとても効果的であり、観衆の心理やその視座を定めるに取り分け重要な場面であることを今回の舞台とそしてその奈落と舞台裏の音楽が効果満点に伝えていた。今回の様にフィナーレへと定まっていく公演は未だ嘗てなかったであろう。(続く



参照:
苦労して獲得するもの 2015-03-30 | 音
テレージア公に抱かれる 2024-10-22 | 文化一般
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テレージア公に抱かれる

2024-10-22 | 文化一般
体調が変わってきている。何がどうかは分かりにくいが、決して否定的ではないのだが、原因がよく分からない。体重の増加と若干筋力への志向が強くなっていて、実際に筋力を使うことが増えてきている。それ以前に決してダイエットと称して熱量を抑えてきたわけではないのだが、眼精疲労とかは弱くなって、顔もふくよかになってきている。

運動量を減らしている訳でもないのだが、昼飯を食して走って帰って来たら3㎏増えていた。ここ数年なかったことだ。ブランチの取り過ぎはあるのだが、暖かかったゆえに運動量を上げてもここまで太るのはおかしい。心拍数はその息苦しさとは裏腹に162までしか上がっていなかった。これをどう分析できるか分からない。

兎も角以前よりも栄養が行き渡って吸収も多いのは活性化している感じでもあり、夏の間に太らなかった分が今頃に表れて来ている感じがする。恐らく心理的なストレスが大きかったのだろう。眼精疲労にも通じていると感じる面だ。

就寝時に気が付いていたのだが、腰の違和感が曲がられないほど酷くなった。週末からの無理な体勢などでストレスが掛っていたからだろう。十代から時々腰を痛めたことがあって、ぎっくり腰は驚いたが、その後も精々二週間ぐらいで回復することが多かった。今回は直ぐに治りそうだが、痛めて分かる腰の重要性だ。それほど普段は無意識にいられて、大抵は内臓の方に意識が向く。

そこで感じるのはタチーノからの帰りにワイン地所に寄って、陽射しの下にいてピクニックなどをしたのに眠気は帰路の極一部でしか感じられなかったのは驚きでしかない。夕方に帰宅できたことも大きいが、前夜の睡眠時間は5時間を切っていて、アルコールも入っていて、眠気とそれ程戦わずに無事帰宅できたのは眼の調子がよくなっているのと心理的なものがあったかもしれない。どうもあの頃から大分体調が変化している。

もう一つの大きな変化は、ミラノの公演以降未だに余韻に浸っていることで、これはとても珍しい。「ばらの騎士」三幕に関しては改めて纏めることになるのだが、心理的にもとても効果が甚だしかった。やはり音楽劇場の作曲家リヒャルト・シュトラウスの価値は正しく上演されて初めてその真価が問われるというやはり100年を経ての古典としての評価が漸く為されるのを実感する。

そしてそういう公演がミラノという街で為されたことも改めてその文化的な背景を感じることになった。作家ホフマンスタールがザルツブルクのバロックの街について書き尽くすのと似たようにアールヌヴォーやデコなどをつまり創作の時代をそこに見た。

スカラ座のHPにはペトレンコの紹介として、ミラノの聴衆が毎夏上タチーノを越えてザルツブルクへと通うその経路にペトレンコが西欧に出合った街フェルトキルヒがあると記する。そのバロック音楽からまだ巡り合っていなかったブルックナーやマーラーの世界を知ることになるボーデン湖のフェルドキルヘと興味を引く文章としている。そしてミラノの劇場はマリアテレージア公がクラシズムのピルマリニーに作らせた。まさしく初演1911年3月とその1月に世界初演された楽劇がセラフィン指揮で上演されていた。



参照:
瞬くその逡巡の時 2024-10-21 | 文化一般
旧年中の動画と文化的時差 2005-01-08 | 文化一般
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瞬くその逡巡の時

2024-10-21 | 文化一般
承前)パロディーとしてのヴァルツァー、ハリー・クッパ―の演出は記念碑的なものだったようだ。スカラ座で15ユーロで購入したプログラムは今回新たに編集されていて新たに書き加えられているが、イタリア語ゆえにまだ目を通し切れていない。然し評にはシュテファン・ツヴァイク著「昨日の世界」を思い起こさせるとある。その舞台映像からでもあるのだが、20世紀初頭から観たハプスブルクの欧州がこの楽劇の主題でありホフマンスタールの作品だったことは間違いがない。

ネットに上がっている初日の批評をざっと目を通した。その中でもそれに関する即ちメスト指揮でもメータ指揮でも浮かび上がらなかったこの制作の本質的なところに言及してあるものがある。

それは既にここで言及したようなオペラブッファを引き継いだ叙唱風の音楽のつけ方であったりする完璧な反面、楽団の自由度の高い演奏によってテューバによって舞台が浮きたつというように作曲者シュトラウスが望んだ闊達で決して悉く制御されている様には感じられない指揮の卓越と更に今後のミラノでの発展を期待したいという評が的確である。

同時にグロイスベェックによる歌唱と演技が最早その役のキャラクターを越えてのオックスというこの演出における人物を描き出しているということと、既に言及したペトレンコが与えるアウフタクトにおける楽団側の若干のぎこちなさというようなものでの相乗効果であったことを再認識する。

ミュンヘンからの隣のおばさんの言うような「何時ものようにやればやるほど改善されていく」というそれとはまた質の異なるものを感じていたのを思い出す。それはこの作曲自体の秀逸さとあれだけの楽器編成における喜劇性の音楽への集大成であったのを認識させる。それもなるほど評にあるように「その調的な色彩感」ともあるのだが、本年こうして楽劇「エレクトラ」からその前には「影のない女」、「サロメ」と毎年の様に聴いてきて、三幕一景の舞台裏音楽などを使った音響的な対比とその作風自体がメタ楽劇となっていることを知らしめる。

それは舞台芸術的にも3D効果のプロジェクターや舞台上での当時のオールドタイマー、そして音を軋ませる舞台展開と、この作品への俯瞰を推し進めるには十分な効果を作っていた。

そこで、2014年のザルツブルクでの初演、スカラ座での公演と、その批評をも改めて目を通しておかなければいけなくなったのだが、今回の再演では何がそうした発見を導いたかということになる。

なるほど、歌手陣においてもマルシャリンを歌ったストロヤノーヴァは往年に比べると声が出なくなっていたようだが、それでもこれだけの舞台を少なくともミラノ程度の劇場では比類のないキャスティングだった。

そしてその評価をそして何よりも初演後百年を経て漸くこの作品の真価を舞台化して改めて名実共にしたのがペトレンコ指揮だったという評価は共通しているようだ。ここにペトレンコ指揮が音楽劇場においても超一流の腕を振るったのは間違いない。(続く



参照:
Milano - Teatro alla Scala: Der Rosenkavalier, Ugo Malasoma, OperaClick Oct.20 2024
Milano, Teatro alla Scala – Der Rosenkavalier, Stefano Balbiani Recensioni, Connessi all'Opera 16 Ottobre 2024
Kirill Petrenko conquers La Scala with a splendid Rosenkavalier Laura Servidei, Bachtrack 14 Oktober 2024
開花するスカラ座の薔薇 2024-10-14 | 文化一般
再演「ばらの騎士」初日へ 2024-10-11 | 文化一般
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室内へ透過の暖かさ

2024-10-20 | 生活
窓磨きが済んだ。これで一安心だ。これからは少しでも陽射しがあれば室内が暖まる。それだけで数週間は暖房を入れる時期を遅らせれる。金額からすると差額だけで一寸したものを購入可能の額となる。窓磨きには1,49ユーロの替え濃縮液を購入しただけで昨年からの残りを自動車の窓磨きにも使って、そして来年へと同じぐらいの液量が余った。

そして今年は昨年までとは異なり乾拭き磨きを入れたので筋もなくなり、室内へと透過の光量が大分異なると思われる。これで厳冬期でも暖かみがあると思う。昨年以上の陽射しが恋しくなるだろう。

タチーノから持ち帰ったパンチェンタもプロシュートも悪くなかった。黒パンも悪くなく勿論甘みのあるパネトーネも、コルネット類も美味かった。宿の近くの予定していたところのパン屋は本格的で、入り口が分かりにくかったが駐車場から入って行った。宿からは直線距離で短かったのだが、山の斜面で上下へと道が真っ直ぐ繋がっていないので、車で出かけた。前日に下見をしていたがその場所も入り口も分かりにくかったのだ。

緑のクリームはピスタッチョということで初めてだった。流石に甘みが強くドイツ語圏とは違う。食生活も深夜に食事をするなどと大分違う。その週末の旅行中に何も食べていないのに2㎏も太った。まだ落ちない。

チーズもゴッタルドのベルクケーゼを買った。これも持ち帰って愉しんだ。峠の南の谷のミグロスで購入した。他所では、峠に近いアンデルマットのスキー場では食したと思うが、あまりスーパーで見たことがないのでこれも良かった。

パン屋でチョコレートも購入したのでこれもそれなりのカロリーがあっただろう。こちらに住んでいると糖の摂取は健康ブームで少ないので、イタリア語圏に出かけると増えるのだろうと思う。それでもスイスチョコレートというのが良かった。

今回は結局往路握り飯を二号持って行って、海苔を除けておいて持って行くのを忘れていた。車中で全て平らげた。ゴッタルダトンネル入口の信号待ち以外では渋滞はなく、検問にも引っ掛からなかったので、580kmぐらいを走って途中数回休んでスーパーで買い物をして八時間後には着いていた。

夕食は残念乍ら国境超えを控えたので、持参したジャガイモサラダとヴィーナー二本を食して、ビールを開けてメルローでスナックをつまんで飲んでいたら事足りた。翌朝は旅行疲れもあったが8時前にはパン屋で購入して戻って来て、紅茶を沸かして摘まんでから、それからベットの上で漸く初めてザルツブルクでの同演出「ばらの騎士」の一幕から三幕前半まで観てから、ピクニックの用意をして出かけた。

国境の街のキアッソで10リットルだけ燃料を給油した。それで十分に帰れるようにしておいた。ミラノへは60kmしかないが、無駄な時間はなかった。コモからミラノへも二回アウトストラ―デの料金を取られることになる。



参照:
幻のコモ湖畔の昼食 2024-10-15 | 雑感
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
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