Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

襲い掛かる教養の欠落

2007-07-27 | 雑感
侮辱や蔑みの眼差しが話題となった。見下すことで自らが浮上して、体面ならず自己のアイデンティティーを確立しようとする徒労のことを指す。特に日本語の使い方などを考える場合、この上下関係は興味深い構造を示す。それはここでも、一度敬語の話題として取り上げた。

その節は、封建的な社会通念とそれが歴史の中で人間関係のあり方になるとする謂わば社会学的な考察で終わった。しかし、新聞の日曜版に載った今年のバイロイトのヴァーグナー・フェスティヴァルに関する記事を見つけて、また新たな考察に至った。

そこでは、ドイツで最も有名な黒人タレント・ブランコが語られて、リンクにも張った祝祭劇初日の有名人には、時のバイエルン首相らとともにこのカリブ出身のポップス歌手の顔は欠かせない。つまり、「このタレントのような人種について語れないならば、もはやバイロイトを語れない」と言うのだ。

その人種とは何かと言えば、「リヒャルト・ヴァーグナーについては語らずに、バイロイトについて語る」人種なのである。そこから、ドイツの教育問題である「教養の欠落」に話が及ぶ。その人種にそれを求めようがないが、クライスト全集の完成をバイロイトのチケットを待つ十年間に対比させ、ファウストを語り、ニーチェを考え、トーマス・マンを読んでも、必ずしもバイロイト詣の必要のない事を語り、楽匠ヴァーグナーをひれ伏せさせたショーペンハウワーの言葉「やりたいと思うことが出来るのが人間だが、やりたいと思ってもしないことが出来るのも人間だ」を挙げる。

また、アドルノの「個人の知性の主権を保つため」と、戦後それほど経つことなく「個人的昇華」を頻繁に口角に泡したこの社会学者の口元からこぼれ出るパン屑をそこに見るのである。つまり、それは、取るに足らない下らないものなのだ。

まことの教養と俗物を対比させる者は現代には何処にもいない。それは、啓蒙と近代を対比させるようなものだからだ。それでは、はじめに指示したような人間関係は社会の諸相として示されるものでしかない。否、それは違うだろう。

なぜならば、教養の欠落が問題となる状況こそが、こうした社会の諸相では無く極個人的なアイデンティティーの欠落にその源を発するからである。ある必要最小限の教育しかない友人がある仲間の博士のことを評した。その博士が、またこれは違うニューヨーク生まれの黒人系の仲間のことを「黒」として侮辱したからだと言う。なるほど、そのときはその話がなぜ出てくるのかも判らず、その判断基準が人種差別に対する断固としたイデオロギーとして教育で成し遂げられたものか、それとも人道的で倫理的な歴史社会的な規約から生まれてきたのかは定かでなかった。しかし、今この動機が明白になるのだ。

ドイツにおける教養の問題とは何か?教育問題とは何かと考えると、まさに教養を身につける事はいかに難しいかを悟るのである。特に大衆教育として高等教育がなされる昨今の現象は、その教養の欠落がそのもの教育の欠落へと襲い掛かるのである。そこには、メフィストフェレスもファウスト博士もそれどころか対決も存在しない。

つまり、前述の友人は教育があるに違いない博士に教養を求めたのであり、それが欠如していると直感することで、今度は自己のIDへの自己への問いかけとなったのであろう。勿論、これは彼自身が、恐らく気がついたように、他者へと自己の像を投影させることで、隠しようのないあるべき自己を確認したに違いない。

さて当初の蔑みの眼差しや差別は、その向けられる方向へのヴェクトルとして存在するならば、永遠に相対的な関係として存在するはずである。それならばそれは社会の中でスカラーとして固定化されたものであるのだろうか?

現代のドイツにおいて、それを固定化するものは社会のシステムとして最早存在しない。だから上の筆者は言う。「バイロイトに賛成でも反対でも無い、そもそも初めからどうでも良い、元来そうしたつまらないものであったのだから」とカリブから来た好い加減な奴に遠に先越されたとの覚醒に自己表明をする。そして、黒く暗闇となるまでバイロイトは我々を待てば良いのだと吐き捨てる。

自己のIDを確認する作業は果てしなく遠い道のりである。それは自己で啓く道であるから、そこでは教育は殆ど役に立たない。教養小説と呼ばれるような文学や総合芸術も無意味である。教養は、教育を推進させて、その発想の飛躍によってこそ初めて、学術の抽象性を切り拓く。その逆は非である。

自らの影を他者に反映させて自己にフィードバックさせることなく、硬直化したヴァーチャルな社会や近代の固定観念に拘束されているのでは、教養の欠落を補うのは不可能であるとするのがこの度の結論である。

これにて、俗物主義エリート教育敬語の使用権力者の醜聞への見解の補足説明となれば幸いである。



参照:Man ist doch kein Idiot! von Eberhard Rathgeb, FAZ vom 23.7.07

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