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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

聖金曜日の第九の意味

2025-04-19 | 
第九交響曲再演を聴いた。この大作交響曲は少なくとも今迄一度はルツェルン音楽祭で聴いた。ペトレンコの就任演奏会ツアーだった。それ以外では記憶にはなく — ラトル指揮で復活祭で聴いていた —、ベルリンでのフェストヴォッへのカラヤン指揮最後のそれも聴く心算はなかった。それ程歴史的なもので今後月曜日以降生涯体験するかどうか疑わしい。「ミサソレムニス」の方がまだ機会はあると思う。

まだまだ未知の部分が多く、釈然としない部分が多い交響曲で、今回のレクチャーではその開始のカデンツァ終了への長さとあり方が主題となった。それは創世記のそれだとすると勿論ブルックナーに引き継がれるのだが、古典派の交響曲から引き離されるその四度と五度の組み合わせと下行、上行の組み合わせとなるのだが、それが何を示すか。

ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏は以前は同じコンツェルトマイスターのダイシンのアイデアでスタイリッシュに纏められていた一楽章が大きく変わり、よりその和声進行への留意と共にトスカニーニやフルトヴェングラーの録音に聴かれるような激しいティムパニーによるカタストロフが明白に表されるところとなっていた。このような厳しさは以前の演奏にはなかった。明らかにドマラテュルギー的な変化があった。

それは同時にこの交響楽団がそうした表現を身に着けるようになったことに他ならない。音色も変わり、より深くなって、前回のラトル時代の音響を残すさらさらとした手がかりの無いものから変化してきていた — そのことは「蝶々さん」におけるコントラバスの合わせ方への拘りにも表れていた。こうしたシュボックス型の会場でこそ修正して行けるものなのだろう。開演15分前までサウンドチェックをしていた。

二楽章のスケルツォに関しては改めて確かめるべきことが多かったのだが、三楽章の弦に対応する管楽器が18世紀における共同体における合唱としてのオルガンのそれにあたるとする解説はまさしくその木管における混合音色の在り方にある。この点も長くフィルハーモニカーからは消えていた音楽的な特質であった。特に三楽章はベルリンでの演奏でもザルツブルクでももう一つ落ち着かないとされていたのだが、ルツェルンでは深く取れていた。然し今回はより成功していた。

四楽章のフーガの扱いも前回の五年前とは格段と異なり自家薬籠中のものとなり、この間の数々の名演を想起させた。未だ当時はカラヤンのサウンドとも闘っていた頃であり、あの鳴りを如何に越えるかにあった。そして今はそうしたものを越えての謂わんとすることを如何に的確にへの表現に全てがかけられている。

第九の道は、演奏会場をテムペルへの動きにあったとするのが今回のレクチューアの旨であった — それが各地の演奏会ホールがコロシアム形式の新たな教会となって、着飾って出かける会堂となったとされる。そして今、こうして演奏される所以はどこにあるのか。それ程に激しい指揮で演奏であった。五年前と今日ではまた我々は更に遠くまで来ているのかもしれない。

たとえどれほどに突き進んでも、1944年のフルトヴェングラー指揮の時のように狂信的な演奏態度にならないのは、なによりもペトレンコ指揮の良識と趣味の良さでしかない。さて、月曜日に向けて、残された時間で何をお勉強出来るか、「蝶々さん」ももう一度最後に。



参照:
週末から週明けへの充電 2025-04-17 | 料理
フクシマ禍から蜂の巣へ 2019-09-16 | 文化一般
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦

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