Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

全てに向けたお別れの歌

2021-10-07 | 
(承前)2006年に「大地の歌」編曲初演に際して難しいことを考えていた。恐らく当時の省察は今回の交響曲九番ニ長調についても核をついていると思う。ブレゲンツでの演奏は一部放送されるようだが、その一楽章の弦楽陣の下手な演奏はこの曲の本質を問うに十二分な表現があった。その間合いのぎこちなさを指揮者がアウフタクトで抑えることで余計に極まり、その楽想の妙を実感した。あの主題であそこまでに意味を表現することは彼のバーンスタイン指揮でもありえなかった。

四度五度の音程関係、長短の交差、そこに妙があるとともに更にバラバラに動機が管弦楽器間に回されるので、明白なイメージを得ることすらを難しくしている。ベートーヴェンでの第九も決して容易ではないのとも似ている。

それをペトレンコがどのように指揮をしたか?いずれベルリンでも指揮して放送されると思うが、そしてダイシンがコンツェルトマイスターを務めると思うが、どのようなボーイングでこの嘆きのメロディーやお別れの歌を奏でるのか。

なかなか難しい。綺麗に歌い上げても駄目なので、コンセルトヘボー管弦楽団でももう一つだった。目立つでもなく、裏表を変えたり、音色旋律のような受け渡しでもない。最も顕著なのは、展開部における「巨人」のトラムペットファンファーレへの流れのハープに乗る高弦の弾き方などは曖昧だからこそそこに味が出る。

バーンスタインがヴィーナーフィルハーモニカーを振って上手にこなしていたのはまさしくこうした劇場の奈落での合いの手のような弾き方である。マーラーが頭に浮かべていたのはニューヨークフィルのような楽団よりもそうした色合いの座付き楽団ではなかったかと思わせるところである。

高原の強い光の中で風が吹くでも無風でもなく高山植物が嫋やかにたなびいているようなその風景でもあり、恐らくこの楽曲の肝になるようなエピソードである - 我々はドロミテでの風景をそこに思い描くのだが、作曲家が重ね合わせたのは生まれ故郷のボヘミアの風景だったのだろう。ここがピンとこないとそこに続く「怒り狂って」の訳が分からないかもしれない。とてもコントラストに富んだ風景であって、人は虚を突かれる。

「パルジファル」のように転生していくことがこの楽章の起承転結の起の所以であり、そこが翌日のフェルトキルヒでの演奏会では上手くいかなかった。理由は会場の乾いた音響で、高弦の揺らぎが全く上手く揺れなかったからである。

同じように一楽章コーダにおける木管合奏のコンボ、お別れの締めとなる。ミュンヘンでの最終日の残照とともに今後とも「お別れの歌」として心に響き返すだろう。私はブレゲンツではマスクの下が鼻水でぐずぐずになってしまい。大きな音を立てて鼻をかんだ。恐らく舞台のペトレンコも耳にしたであろう。それから、いつもよりも入念にハンカチ王子よろしく汗をぬぐい、そして綺麗に折り返して指揮台に戻すまでに長い時間を掛けていた。(続く



参照:
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音

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