Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

反面教師的大名演

2024-08-04 | 
先日見つけた録音を初めて聴いた。想定以上に歴史的な録音だった。先ずは当時1964年にコンセルトヘボ管弦楽団がどの程度のアンサムブルを誇っていたかが知れる。恐らく新しいフィルハーモニーが出来たベルリナーが追いかけていて、ビッグファイヴの対抗馬になっていた筈だ。前年まで若いハイティンクを補助する立場でオイゲン・ヨッフムも指揮をしていたようで、その前にはセル、クーベリックがベイヌウの傍ら振っている。メンゲルベルクのその薫陶も受けていそうな立派な弦楽で、ベルリンが丁度世代交代が進んでいたことに匹敵するのかもしれない。

それもアマガウでの教会のライヴ録音とは思われない高品質のステレオは録音技術的にも考えられない出来である。それ程立派なアンサムブルで、ベルリナーが足元に及ぶ領域ではなかったろう。

そしてブルックナー協会の会長の指揮は想定される楽譜の読みで細かに副主題や楽器間の受け渡しを明確にしつつとても中庸なバランス感覚で演奏されている。それが逆にヨッフムが何故超一流指揮者でなかったかの証拠が明白になってくる。

最も問題なのはそのテムピの動かし方で、クレッシェンドやその他の指定と共にアゴーギクとして表れるもの以外にも大きな枠組みで動いて来るために折角の作品の和声的な緊張と緩和の流れが不明確になる。それでも指揮者ティーレマンなどが動かすものとは異なって、大きな枠組みがあるために、楽曲構造的には後期ロマン派的な秩序感は失われない。

この指揮者の全集などでは恐らく録音プロデューサーがタイムキーパーをすることで、無意味なテムピの揺れが避けられているのだろう — 確か交響曲七番であるが晩年に日本で指揮したそれなどもそうした演奏実践がライヴ感として称賛されたりしている二流指揮者ぶりなのである。

その点で、二楽章や三楽章における演奏はとても充実している一方、フィナーレにおける二重フーガがアンサムブル技量からなされているにも拘らず、十二分な指揮とはなっていない。

ここまで書けば分かるように、ペトレンコ指揮で初めてなされるのはそのフィナーレであり、何故シーズン冒頭にこの楽曲を選んだかは明白であり、既に同ツアーでも演奏してきたスーク「夏のメルヘン」やマーラー交響曲七番などに比較すればペトレンコ指揮で御茶の子さいさいである。

ヨッフム指揮のブルックナーでこの曲がどのように演奏されるべきかは一部反面教師的に明らかにされた。他の録音なども聴いてみようとは思うのだが、大抵は聴かないでも正しい演奏が為されているかどうかは想定可能である。但し主題間の関係やその和声的な弛緩がどのようになされるべきかはしっかりお勉強していかないとならない。

しかし弟子のシャルクがアドヴァイスを与えたとされるその無駄な再現の短縮など、ブルックナーの作曲上の問題の痕跡もこの交響曲にあからさまになるのだろう。



参照:
8月終わりへの準備 2024-08-01 | アウトドーア・環境
四拍子を振れない指揮者 2019-10-14 | 音
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