Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シーズン幕開けのアイデア

2024-08-25 | 文化一般
ベルリンの新シーズンが始まった。中継を食事の傍ら流していた。ラディオでは指揮者ペトレンコが短く楽曲を語っていた。放送で注目された最後のコーダーでのフルートを浮かび上がらせるところは、まさしくその話しのフーガを経て最終的な浄化である。それを長い一晩の舞台神聖劇にしたのがヴァ―クナーであった。まさしくフルートの木管群。

ヴァ―クナーにおいては、ブルックナーから直接総譜を献呈されていたりして「あのトラムペット」と呼んでいたようだ。この五番とその交響曲三番とは校訂時期も重なり繋がり深い。それ以前に最終フィナーレで最初からの動機が回帰してくる方法など、既に「ラインの黄金」で試みていることから、時代の趨勢としての偶然ばかりとは言い切れないブルックナーのアイデアとの共通性もある。

楽器配置は予想通り独伝統的な配置で左右にヴァイオリンが別れて、左奥にバスが入る。この形でしかこの交響曲を鳴らす方法はないと思うが、コンセルトヘボ楽団のみならずチェリビダッケのミュンヒナー、ヴァントの放送交響楽団などもアメリカン配置を取っていていかにも鳴らす為のアンサムブルが厄介だということらしい。

確かに支配人が当日ラディオの前宣で語っていたが、ベルリナーフィルハーモニカーの指揮者ビュローが「ブルックナーは半分天才で半分阿保」揶揄した様に演奏のことなどよりも理念で筆を進めて仕舞って、結局修正に奔らなければいけなかった。

初日の放送でいつものように緊張でとちったりする奏者もいて、尚且つ最初から最後まで通して管楽器陣が特にソリスティックに音楽を為していくことも困難で、ある程度ルーティンにならなければペトレンコ指揮の細部に拘る音化は叶わない。そういうとても密な楽譜となっている。

一寸見た目にはロゴの様に組み合わせて行けば済むようにも思うのだが、それではそこにはやはり音楽はない。フィルハーモニカーが語るように身体全体で感じてとそのシステムの意味が感覚的に会得できれば正しいバランスで正しいアンサムブルが可能になるに違いない。彼のチェリビダッケが極度の緊張を奏者に強いて初めてそこから出てくる音楽をというのとは異なるものも、如何にも自主的に音楽することでの演奏実践という意味では似ている。

然し、ベルリンの新フィルハーモニーでは音は聴けてもその交わりのアンサムブルは壁がない為に発散されて音楽とはならない。特に低音が下支えしないので同じ対位法的な書法でも本来の響きとはならない。毎夏の演奏旅行ではシューボックス型のルツェルンでしかこうした伝統的な配置での正しいバランスが得られないのである。初日の中継での最も欠けた点はまさにそこであり、そしてそこに作曲家が描いた響きがある。

観客にはメルケル夫妻以外にもノーベル文学賞のヘルタ・ミュラーやブラント元首相の末っ子の俳優マティアス・ブラント、バレンボイムなどがいて、ペトレンコを囲んでの会食が目撃されている。



参照:
否応なく使うただ券 2024-08-24 | 暦
独り立ちできない声部 2024-08-23 | 雑感
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