Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

エレクトラのその狭間

2024-03-27 | 
承前)新制作「エレクトラ」第二回目公演を観た。カメラが入っているだけでなくて、演出に手入れが入っていた。この制作の特徴である舞台の階段に映し出される歌詞は取捨選択されてより強調がなされていた。初日の印象では通常の字幕との重なりで余分が多すぎた。中三日で修正出来るのは立派だと思う。

更に今回は映像記録の為の公演だったので、演技が入念になされていて、初日に批判されていたコンツェルタント形式と変わらないというのは最早当て嵌まらない。同性愛や兄弟愛の場面では可也の熱が入っていて ― 前夜のヴァルキューレ一幕のパロディでもある ―、更に姉妹の少女の性的な表現や母親の性も昨年の「影のない女」の仕手役若しくは少女サロメからそして「薔薇の騎士」へと繋がっていることをよりその音楽を裏付けして明白にしていた ― 序ながら辺境の指揮者がこの楽劇を「ハ長調の楽譜にしてくれ」という間抜けな発言をしていたようだが、だからこの作品を真面に指揮も出来ず、同時に新しい音楽も真面に理解していないのが丸分かりなのである。

その分音楽は正確それ以上に正しいテムピが目されている指揮で、その中でより激しい表情が築かれていた。どうしても場面毎の成果が期待されるのでテークごとに演奏されて制作編集される様な趣があって、初日のように最初のアガメノンの動機から最後のそれ迄が大きな弓を描くような大きな効果はなかった。よって、最後のアコードで最初に演出への大ブーイングがあって、そして拍手が上がった。初日にはブーを与える程に抜けた間髪がなかった。

フランクフルターアルゲマイネ新聞の初日批評ではテキストに忠実な制作として演出が評価されているだけでなくて、その文字故に中々聴き分けの出来ない姉妹や母親の声の重なり合いなどがよく分かるというように巨大な管弦楽に対して如何にそのテキストを知らしめすかということだと評価している。

そして最初の女中の場面の「エレクトラはどこに?」の問いかけの意味が、終幕に映し出されるホフマンスタールの文章「Diese Zeit. – sie dehnt sich vor dir wie ein finstrer Schlund (von Jahren )」が最後に打ちし出される。舞台では、上部に妹が兄弟に助けを叫び下部で死のヴァルツァーのエレクトラが潰される形になる。

勿論エレクトラの肩には圧し掛かっていたのは音楽の通りアガメノン以外の何ものでもない。そしてエレクトラが存在したのはその暗いシュルントである。山岳用語では地形的なその氷河とのその狭間を表したり、深い淵をも想起させるが、花びらへの花芯への筒であるかもしれない。そこに開いた時間という事である。

最初の場面で猫のように獣のように形容されたエレクトラ、そしてそれを全て音化する作曲家、しかしここに具象的に音化されていない若しくはその音響の間隙にある世界、それを示すことが舞台上演の制作であり、楽劇が劇場空間で世界を開けるとしたらそうした制作の中でしかない。

若干逆説的ではあるのだが、こうした音楽が我々に何かの影響を与えるとしたらこうした音楽劇場公演でしかありえないのである。さもなくば創作の価値すら消滅する。(続く



参照:
春の息吹を注ぎ込む 2024-03-26 | 音
2024年復活祭開幕での会計 2024-03-25 | 文化一般
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