Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽劇場演出の重要性

2024-03-13 | マスメディア批評
ミュンヘンからの生中継で語られた。支配人ドルニーは、こうした作品を上演するには今がいい時期で、ドイツも解き放たれる時だというようなことを語った。詳しくは語らなかたのだが、ポストアドルノ時代に即ちアウシュヴィッツ以降に詩を書けるかという呪縛からである。

同時に現在のガザの状況を見るにつけ所謂「追憶の歴史」から導かれる「追憶の文化」から解き放たれる時だということでもある。車中のラディオのニュースでベルリンの映画フェスティヴァル時にガザへのパレスティナ共闘がコメントされた問題が扱われていた。思想と表現の自由とはまた異なるアンティセミティズムは許されないという事である。

今回のクラッツァーの演出では、アウシュヴィッツの場面は具体的な囚人服や丸坊主などでは表現されない。しかしそれ以上に暗示するところがあって、それは批評にあるように殆ど音楽的な認識が深くない聴衆でも分かる音楽になっていることに合致する。

最も印象的だったのは、ショスタコーヴィッチ同様にヴァルツアーを使って、囚人がそれを要求されて拒絶するところでバッハのシャコンヌが弾かれるというところであったようだ。そうしたやり方は、音楽監督ユロウスキーが最初に上演したショスタコーヴィッチの「鼻」においても弦楽四重奏曲は八番の挿入などは印象としてとても強く残った。

反面批評を読むと、今回の初日に劇場にいたチェルニコフの演出でウクライナ侵攻によって再制作された昨年の「戦争と平和」が挙げられて、演目そのものの上演の必要性が論じられる。そこでもソヴィエトにおけるプロパガンダの歌詞などが大きく削除されたことが思い出される。しかしその音楽の価値が大きく異なるのは確かで、プロコフィエフはやはりそれだけの作曲をしていたことには間違いがない。

一方各紙で語られている最後に小さなモニターに映る収容所の映像は、眼がある人には皆見えて気が付くというのである。まさしく、遠くアウシュヴィッツで起こっていたことは、ドイツの生活では全く気が付かなかったというその年齢の人たちの言い訳を砕く観察である。

当然のことながら、このことはこの新制作の企画時にはまだ起きていなかった大規模なガザ地区での出来事についても突きつけられることになっている。フランクフルトのルンドシャウ紙はこの制作を絶賛して、特にクラッツァーの演出家としてを仕事を評価する。

オペラに通じていればいるほど、ここでの演出家の判断を確信するだろうと、否そうではなくて、このオペラを既に知っていればこそクラッツァーの読み方を理解することが出来ようとしている。

なるほど、この演出家の仕事はその作品との深い関係から導かれる制作企画となっていることが多い。そして新シーズンへと向けて「指環」四部作の準備が進んでいる。その配役などは指揮者を除いては皆目分からないのだが、今迄に無い大きな話題となることだろう。



参照:
Maximal eindringlich: "Die Passagierin" im Nationaltheater, Robert Braunmüller, AZ vom 11.3.2024
Erinnerung für Fortgeschrittene: „Die Passagierin“, Markus Thiel, Merkur vom 11,3,2024
Der Alptraum, die Täterin zu sein, Judith von Sternburg, FR vom 11.3.2024
音楽劇場の使命を果たすか 2024-03-12 | 文化一般
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
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