Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

朽ちてかけている初演曲

2024-03-07 | 
承前)映画音楽の芸術とは何か?ヒッチコックの映画にはヘルマンというロシア系ユダヤ人が作曲していて、ショスタコーヴィッチに大きな影響を与えている。そしてヘルマンに関して、作曲家エッガートは指揮者エンゲルに紹介を振ろうとした。そして流された。要するにそれ程の関心はない。制作録音の三日間でこの二人が何を話していたかはよく分からない。エンゲルは多くの作曲家を尊重して長く誠実に仕事をしてきたのは目の辺りにして知っている。若い無名の作曲家に対してもであるが、勿論指揮者からの評価や親近感の有る無しははっきりとあるだろう。

個人的には無声映画の音楽としてヒンデミートをどうしても真っ先に思い浮かべる。ファンクの山岳映画への作曲であるが、どうしてもその出来と比較してしまうのである。劇映画ではないので細かなカットに合わせた表情はないのだが、そこで書かれている音楽は超一流であって、同時期の名作の四重奏曲などと似た楽想が使われている。そこに流れるユーモアなどが芸術そのものである。

そしてその音楽は当時の音楽の最先端のヒンデミートの芸術そのものであって、決して映画の音楽として芸術的価値が低いわけではない。そうした大作曲家の仕事と今回の作曲家の作品を比較すると最早箸にも棒にも掛からない。それでもご本人は、いつも作曲しているものとは映画音楽は勝手が全く違うと語っていた。

なるほど映画の情景によって、つける音楽は異なるのは当然であろうが、それにしても感情的なところでルバートを利かして欲しいのだが、映像に合わせての指揮者の仕事に期待したいとしていたのだ。こんな安物の作曲家を初めて知った。しっかり記譜も出来ないのかとも思うが、恐らくそれ以上に音楽が分かっていない稚拙な人物が独作曲家協会の会長とはと笑わせる。

そのような楽譜から指揮者が引き出せる音楽には限界がある。なるほどしっかりとシンクロされた演奏をすればそれなりの効果があり、要は映像を邪魔しないかどうかだけでしかない。そこで流れる音楽に四分音の調律のされているピアノを使おうが、シュトラウスが紀元2600年祝祭曲や「影のない女」で使った鐘を多用しようが、なにも今創作されるべき音とは全くなっていない。創作されて、音化されて、収録、初演された時には既にこの創作は朽ちていた。

この作曲家が多作であるというのもこうした一度切り消費される作品を依頼されて生産しているからに違いないのである。何故当時持て囃された作曲家が歴史とともに消えていくかの実例でしかなかった。勿論、お客さんは映画に食い入るように音楽がそこに流れて違和感さえなければそれで大満足で、拍手喝采もあった。しかし流石にこうした楽団を支えている新しい芸術に親しんでいる常連の聴衆からは冷たい反応が感じられた。当然であろう。

そして、私のポストを見たのかどうか、引用したインタヴューを掲載した同じ新聞からエンゲル本人が全く同じ見出しを使って、インスタグラムに事後紹介していた。「小さなエリートの聴衆に届くだけでない音楽をやりたい。」という彼自身の言葉である。この意味を考えさせる公演であったのだが、それには芸術的な洗練は不可欠である。それが回答に違いない。(終わり)
Paul Hindemith Filmmusik "Im Kampf mit dem Berg"

1921 Im Kampf mit dem Berge




参照:
最後にシネマ交響楽 2024-03-01 | 雑感
パターン化のスリリング 2024-02-26 | 音
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