Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

浪漫的水準化の民族音楽

2024-03-30 | 
ブラ―ムス交響曲四番演奏、残念乍らダイシンはお休みだった。コンツェルトマイスターリンだったので、ベルリン定期とアジアツアーと同じだった。しかし、より積極的なアゴーギクが効いていたので、一楽章などは拍手が起こりそうになった。それでもアンサムブルはサントリーホールの水準には到底至らなかった。あれだけのツアーで練れたものはベルリンでは到底聴けなく、欧州でもホールや機会を選ばないと中々体験できない。だから態々高い金と時間を掛けてベルリンに聴きに行く人はただのお上りさんの田舎者でしかない。

脱カラヤンは甚だしく、最後に聴いたのベルリナーフィルハーモニカーでの同曲はカラヤン指揮でその前にハイドン変奏曲で幕開けした1977年の大阪国際フェスティヴァルであった。そこでどこ迄がフィルハーモニカーのブラームスかはつまりフルトヴェングラー時代のそれなのかは中々判断が付きにくいところなのであるが、それでも二楽章などは可也の出来で、まさにペトレンコが攻めてきていたところである。兎も角ブラームス演奏実践のベルリンでの新たな伝統となるのは間違いがない。そおのように同じことを日本デビューから戻って来た時のミュンヘンの定期公演でやろうとしていたことが音楽的に叶っていたのは確かである。もう少し時間があればシュタインバッハ版の校訂に目を通しておきたい。チェックアウト前の月曜日に少しでもいいところが聴ければ幸いである。

シベリウスの協奏曲に関しては、お馴染みのシマンスキーのレクチャーで取り上げられていたのであるが、そこでのレゴ状の即ち樹形図的な作曲方法が取られているとして言及されずともブラームスのミニマルな書法への喚起ともなっていた。

そもそも主題がボヘミア六度であったり、ハンガリー風であったりとヴィーンで学んだフィンランドの作曲家がフィンランド風というのはどうだろうという問いかけがなされた。そしてそのフィナーレは話し手の故郷のポロネーズそのもので、英国人サートヴェイによって、「白熊のポロネーズ」とされると書かれている。

そして印象的な基礎動機で始まる協奏曲もカデンツァ風のソロもバッハのパルティータ二番となる。なるほどそこで伴奏をする管弦楽は低音に集められていて、まさしくこれが重苦しい北欧風というよりもシベリウス風になるだろうという事だ。同時にそのリズムを北欧風とするのは違うだろうということになる。

ここでポーランド人は珍しく力の入ったエッセイをプログラムに記している。つまり上のことから20世紀の国民楽派というのは音楽的な学術的な見解ではなくて、ただの平均化ではないかという至る所での短調への傾倒や教会音階へと言及されていると仮説されている。

それはメンデルスゾーンにスコッチ交響曲が浪漫時代にケルトの音楽に戻ったとされていてフィナーレで矛盾しているように、シベリウスにおいても実際はヴィーンのカフェーでの音楽に違いないのだが同様に扱われている一方、ブラームスの四番ではそのように収まっているということになる。

プログラムに載っているヘルシンキのエイラヒルテューネンの記念碑が全てを語ってはいないか。(続く



参照:
胸が高鳴るほどの期待 2024-03-29 | 音
白髪のマゼッパのこい 2021-11-14 | 音
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